著者の平尾さんは哲学者ですが、某学会で講演をしたところ好評でその内容を論文にしてその学会誌に寄稿するように求められました。
そこで新たに論文を書下ろし送ったところ査読されてその結果が知らされました。
それが「です・ます」を「である」に修正すれば掲載可。というものでした。
それが起点となり、「です・ます」で論文を書いてはいけないのか。
そもそも「です・ます」体とは何なのか、さらに「である」体とは何なのか。
といった点について、あくまでも「哲学」的に考えたということです。
もちろん、最初の部分では国語学・日本語学ということについても考察しましたが、その点については著者も専門外であり、深く追及するつもりはないということです。
ということで、本書は日本語の「です・ます」と「である」について、ただそれだけを論じたものだということです。
まず、「論文は”である体”で書かなければならない」とされた場合、それは一種のルール、すなわち規範となります。
規範は三種類に区別できます。
A 一つは法律のように一定の手続きで定められた手続き的規範
B 二つ目は倫理的・道徳的なタイプの規範で、それに従うことに一定の合理性が認められるもの
c 最後にいわゆる「社会的規範」、人々があまり意識せずに従っている習慣や因習がそれに当たり、なぜこの規範に従うかと言われれば「みんながそれに従っているから」としか言えないもの。
そして世の中に広く出回っている「論文の書き方」といった書籍類では、その理由が確定されているとは言い難く、せいぜい「文章が間延びする」とか「強く主張したいことが伝わらない」などといった理由を挙げています。
つまりどうやら「です・ます」を論文に使わないという規範はCに属するようです。
「です・ます」は話し言葉にも使えるが、「だ・である」は話し言葉には使えないということがあります。(普通の人は)
「です・ます」は敬語の丁寧表現に当たるとも言われますが、その使用は常態化しておりその方が「常体」だとも言えそうです。
「である体」が客観的な文体であり、「です・ます体」は主観的文体だという意見もありますが、これは二重の意味で間違っているということです。
その本質的な差異は、「である体」が持つ特性は読者を語り手と同じ位相にあるものと想定し、読者への特別の顧慮なしに対象について述べることです。
一方、「です・ます体」は他者への顧慮を前提としているがゆえにごまかしが利かず、主観的な語り方に陥ることがない。逆に「である体」を用いると自分が理解していない事柄についても書くことができる。
すなわち「です・ます体」の本質を話し言葉性や敬語性に見る見解は根強いが、それは間違いで、その意味は「です・ます体」が読者への顧慮を含んでいるからということです。
論文指南書を書いている岡田稔という人は指導する学生のレポートに「何度言ってもです・ます調を使う者が後を絶たない」と怒っていますが、それはそのレポートが書いている学生たちが指導教官の岡田に向かって話しかけるように書いているからです。
そうではなく、特定の相手に対するものではなく誰に向けたものでもないものとして論文やレポートを書けと要求しているのです。
最後に「日本語は論理的か」問題についても触れています。
日本語は論理的ではない、(だから英語を使え)といった議論は相変わらず為されているようです。
これは古くから扱われ今でも言われることがあります。
「日本語は論理的ではない」と主張する論者は、政治家ないし官僚、国語学者、日本語学者に多く見られます。
一方、「日本語(だけ)が非論理的だとする主張を退ける」論者には、論理学者、哲学者、言語学者、物理学者、工学者などがいます。
学問分野と主張との間に何らかの相関関係があるのかは明らかではないが、一つ言えるのは前者のグループは「そもそも論理(的)とは何か」を明確にしていません。
逆に後者の多くはこの点を抑えた上で議論しています。
また後者は共通して「完全に論理的な言語など無く、日本語もそうした不完全な言語のひとつで、問題は言語をどう使うかにかかっている」と指摘しています。
著者は「それで十分だろう」としていますが、どちらが勝ちかは明らかということでしょう。