ナチスドイツによるユダヤ人大虐殺の犠牲者は多数ですが、それでもナチス崩壊時にはまだ多くのユダヤ人がヨーロッパには暮らしていました。
しかしその後ヨーロッパを去ってイスラエルに逃れる人々が数多くいました。
そこに何があったのか。
ホロコーストを生き延びたユダヤ人のその後というものを研究対象とされることがあまりなく、知られていないことかもしれません。
ユダヤ人DP問題というものがありました。
DPとはDisplaced Persons の略語ですが、これを通常の翻訳のように「難民」としてしまうとその当時の語義を失ってしまいます。
実は第二次大戦終了後、主に連合国占領軍の行政によって使われた用語で、DPとして使われていたのですが、その意味は、「戦争に起因する事情によって元の居住国を離れることを強制、もしくは余儀なくされた原則的には連合国国民で、元の居住国に帰還するため、もしくはそれができない場合はほかの再定住先に移住するために連合国の保護と援助を受ける資格のある者たち」に限定されていました。
したがって、戦後シロンスク(シュレージェン)やスデーティ(ズデーデン)等から追放されたドイツ人は難民ではあってもDPと認定されることはありませんでした。
DPというとき、主体はドイツやオーストリアで強制労働に従事させられていた外国人や、ナチの強制収容所から解放された人々を指していました。
連合国軍司令部はこのようなDPをひとまず出身国別に設置されたDPキャンプに集め、帰還準備が整うまで食料、衣服、医療などの援助を与えていたのですが、実際には多くのDPが自力で帰還しました。
その数は1945年11月までに発生したDPの9割以上、1000万人以上が帰るべきところに帰りました。
しかしそれに対して「帰ることのできない」人々はDPキャンプに留まり続けました。
その多くがユダヤ人たちでした。
彼らは元住んでいた国から帰還を拒否されたのでした。
さらに強制収容所に連れされれたのではなく、元の居住地に居たユダヤ人たちも追い出されることとなります。
ポーランドに戦前住んでいたユダヤ人は311万人だったのですが、ソ連軍がポーランドを占領した時にはその数は7万4000人になっていました。
残りのすべてがナチに殺されたわけではありません。
多くは生き残り故郷に戻ろうとしたものの、そこで住民のポーランド人に追い出され、出ていかなければ殺すと脅迫されました。
1946年7月にはポーランドのキェルツェにおいてポグロム(虐殺)が起こりました。
戦後元住んでいた街に戻ったユダヤ人は200人程度だったのですが、その多くがポーランド人により襲われ殺されました。
この事件を契機に残っていたユダヤ人も脱出します。
彼らはまだ残っていた連合国占領地域のDPを目指して逃げ込みます。
こういった情勢はポーランドだけでなくルーマニアなど他国でも同様でした。
DPたちは帰る国もなくなったのですが、それを受け入れる国はわずかでした。
初期にはアメリカも受け入れに消極的でした。
そこに建国すぐだったイスラエルが付け込みます。
周辺のアラブ諸国との戦闘が頻発しますが、そのための兵士が不足しておりDPキャンプからの徴兵を図ります。
とはいえ、DPたちはほとんど戦闘経験もありません。
そういった手段でイスラエルに送り込まれた人々は、銃を持たされても使うこともできないまま戦闘で死亡するということになりました。
中には銃の安全装置を外すことも知らないまま死亡した人たちもいたそうです。
ナチスドイツによる大虐殺は有名ですが、その後生き延びたユダヤ人たちがどうなったかということは知りませんでした。
それまでと変わらないかさらに過酷な運命にさらされていったのでした。
それが現在のパレスチナ問題の奥底に存在しているということなのでしょう。