以下の内容はhttps://sohujojo.hatenablog.com/entry/2024/08/16/060000より取得しました。


「氏名の誕生 江戸時代の名前はなぜ消えたのか」尾崎秀和著

氏名といえば明治時代初めに平民も氏を付けなければならなくなりドタバタがあったということは言われています。

しかしこの本によればそれは最後の混乱であり、それ以前に大きな出来事が次々とあったようです。

 

歴史教科書には歴史的人物の名前として、古代から現代まで変わらずに氏名というものが使われていたかのように記されています。

藤原道長織田信長のように書かれていますが、織田信長は当時絶対にそのようには呼ばれもせず、自らも名乗ることはありませんでした。

 

実は氏名という名称自体、簡単なものではないのですが、とりあえず個人を示す名称として捉えた場合、その性格は古代から中世、江戸時代、明治時代以降で大きく変化しています。

この本では江戸期以前のことは扱わず、江戸時代の名前というものを最初に説明していきます。

しかし武士と庶民では少し異なりますのでそこにも触れます。

ところが、その差よりもはるかに大きな違いが朝廷を中心とした社会にありました。

そこでは古代以来の名前の付け方というものがそのまま用いられており、それは武家や庶民のものとは全く違うものでした。

これについても詳しく説明されています。

 

それはなぜかというと、実はその後の明治維新でその朝廷社会というものが武家社会に代わって社会の上部に復活し、朝廷社会で使われていた人名の付け方というものを元武士や庶民にまで押し付けようとしたからです。

その混乱が非常に大きく、政府の施策も振れまくりました。

その最後の混乱が庶民に対する苗字強制だったとも言えます。

 

江戸時代には生まれてから成長し、仕事をし老いて隠居しといった人生の節々においてそれにふさわしい名前に改名しました。

幼名、成人名、当主名、隠居名といった名前に順々に変えていくのですが、それでも一時に名乗るのは一種だけです。

なお、幼名は親が付けるのですが、それ以降は自分でつけました。

「名前は親の贈り物」などと言うのは現代の風習にすぎません。

 

武家、庶民それぞれ、身分や職業にふさわしい名前というものがあり、それを付けました。

基本的な種類として1,正式な官名、2,疑似官名、3,一般通称と分けられます。

1正式な官名としては、丹波守、越中守といった朝廷の実際にある官の名称をそのままつけたもの、2疑似官名とは、朝廷の官の名称に似せているものの、少し変化させたもので、監物、主計、兵庫など、3一般通称は、荘三郎、平八郎、源蔵等々です。

 

なお、1の名称は勝手に名乗るわけにはいかず、武家では大名と一部旗本に限られていました。

旗本では諸大夫役と称される、京都町奉行とか御書院番頭といた役目以上に任命されると正式な官名を名前として名乗ることが許されました。

2の疑似官名は武士らしい名前ということで広く使われていたかのように思われますが、実際にはかなり高い身分の武士に限られます。

それでも名乗るに幕府の許可などは必要なく、自分で勝手に決めたのですが、ある程度の身分でなければできないことでした。

 

江戸時代の人名の原則的な構成は次の通りです。なお、これは高位の武士は実際に認識されていたかもしれませんが、武士でも下位、そして庶民はその通りに名を付けるということはありませんでした。

 

池田 佐馬大允 源 正矩

1,称号(名字)、2,官名・通称、3、姓 4,巳、5,名(実名・名乗)

なお、4の巳は通常「朝臣」だけなのでほぼ書きません。

そして通常に人名と認識されるのは1と2だけだったのです。

4の名乗というものは、現在から見れば人名そのもののように感じますので、これが最重要のものだったと思いがちですが、江戸時代の武家社会でもほとんど使うことはなく、自分自身も忘れかけたようなものでした。

使われるのは武家の間の公式のような書状に「名乗書判」として書かれる場合のみであり、これは前代には花押と呼ばれていたものです。

したがって、使うとしてもよほど高位の大名や上級旗本のみでした。

 

ただし、江戸時代でも公家社会だけは古代の常識を引きずったまま、その伝統を守り続けていました。

武家社会の苗字と同じようなもので、近衛や一条、二条といったものはありましたが、これらは苗字とは呼ばれず「称号」と呼びました。

さらに、それに続く「官名」は実際に朝廷によって任命された官位のみでした。

そして武家社会では苗字+官名を名前と捉えていたのですが、公家社会ではそれは個人を指し示す名前とは考えられていませんでした。

個人名はあくまでも「姓名」、そこで示される「姓」とは平安時代からの藤原や源、平といったものであり、「名」は武家社会では使われない名乗と同様のものでした。

 

こういった朝廷方式の人名表記は今でも小倉百人一首に残っています。

紀貫之平兼盛など、「姓名」だけで書かれるのは五位以下の人物

在原業平朝臣源俊頼朝臣など「姓名+朝臣」で書かれるのは四位の人物

大納言経信、中納言家持など、「菅または位+名」で書かれるのは三位以上の公卿

三条右大臣、河原左大臣など、姓も名も使わず官名のみは三公以上

 

このような朝廷社会の名前の原則を持っていた人々が、明治維新で形式的には国の高位に上がってしまいました。

そこで人名の原則も公家社会に合わせようと多くの指令を出しますが、武家上がりの人々、政府の重要人物も含めほぼ国民全体は非常に困惑したようです。

 

これまでの通称は官名や疑似官名を使うものが多く、それが禁止されるということもあったため、右往左往します。

名乗を実名としろと言われても、上級武士以外はそのようなものを持っておらず間に合いません。

そのうちに政府上層部にいた公卿たちが力を失うと一気にそのような動きが少なくなります。

しかし、徴兵や徴税のための戸籍作りが重要と見た政府はその方針を変えることなく、結局は明治5年5月の苗字強制令で何らかの氏名に固定させることとなりました。

 

色々と知らなかったことが書かれており、非常に参考になる本でした。

なお、「夫婦同姓」なども明治初年には全く意識もされておらず、決まったのは明治31年の民法制定時でした。

 

 




以上の内容はhttps://sohujojo.hatenablog.com/entry/2024/08/16/060000より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14