1755年11月1日万聖節の朝にポルトガル王国の首都リスボンを襲った大地震はこの都市を一瞬のうちに壊滅させ、2万5千人もの犠牲者を出しました。
大航海時代以降ヨーロッパの列強の一国として栄えていた街の破壊はヨーロッパ社会にとっては大きな衝撃でした。
その地震の詳細、その後のポルトガル王国の再建への動き、さらにポルトガルのそれまでの歴史から、その地震がヨーロッパ社会に与えた影響について、様々な方向から見ていきます。
なお、その地震の規模はM8.5から9.1と推定され、リスボンでの震度も日本の階級では7に相当、その後巨大津波が3回襲うという、現代的な感覚で見ても非常に大規模な地震だったようです。
なお、現在のヨーロッパ地域で言えばイタリアやギリシャなど地中海世界では地震などは珍しくないのではないかと思いますが、18世紀の西欧社会から見ればポルトガルはまだ自らの側に立つものであり、南欧は別という意識であったのかもしれません。
18世紀半ばといえば西欧社会では啓蒙主義が広がりだした頃ですが、ポルトガルではまだカトリックの勢力が強く、異端審問もスペインと並んで猛威をふるっていたころでした。
さらに大航海時代に得た膨大な植民地からの富がポルトガル王家を潤し続けたものの、国内産業の育成といったことが起きることはなく、大半の庶民は極貧の生活を続けていました。
そんな中、万聖節のミサに多くの市民が詰めかける中、激震が起こりました。
さらに大津波も押し寄せ、まだ住民の数すら正しく把握されていない中で、少なくとも2万5千人、推計方法によっては6万人以上の人々が犠牲になりました。
国王ジョゼ1世と一家は皆無事でしたが、リスボンを抜け出して避難するかどうか迷っていました。
それまで治世にさほど熱心とも言えなかった国王ですが、この国難ともいえる地震に対し、国務大臣であったセバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロに全権を預け地震対策と復興を任せます。
カルヴァーリョは時に独裁的な権力執行を行いますが、国内の混乱を最小限に止め、治安維持を行いながら復興を進めていきます。
時には強圧的手法も交え、国王の狙撃事件が起きたのを利用して国内最大の勢力を誇ったタヴォラ侯爵一族を葬り去り、さらにポルトガル国内で巨大な勢力を保ち続けていたイエズス会を追放するなど、国内の巨大勢力の除去には強権を用います。
カルヴァーリョは上級貴族の出ではなく、地方の中級貴族出身でしたが、その能力は早くから認められ、諸国への大使や官僚として有能さを認められていました。
そしてたまたま大地震発生時には他にそれを担当できる者は見当たらない状況となり、まるで地震対策のために用意されていたような人物だと評されます。
啓蒙主義が広まり始めたとはいえ、科学的な思考が行われるにはまだ早すぎたこの時期に、このような大地震がなぜポルトガルの地に起きたのかは西欧思想界を揺るがせました。
このような天災は神の罰であるという観念がほとんどの人に受け入れられるのですが、それならばなぜポルトガルであったのかということに戸惑います。
カトリックの教義を時代遅れになっても守り続けるポルトガルが神の怒りを買うのか。
新教側から見ればその方が都合が良いのですが、新教もなぜロンドンのような悪の巣窟に地震が起きないのかという疑問には答えられません。
とくにリスボンの地震被害の中心ともいえる場所が、異端審問所や異端者収容所であったということも象徴的だったようです。
なお、「天災は神の怒り」という観念は今でも世界のあちこちに宿り続けているようです。
ハリケーンカトリーナの被害を前に、当地の大司教はこれは薬物中毒や堕胎の罰だなどと説教していたということです。
政治家の罪がこれほどまでに積み重なっている日本で、天災が起きても「これは政治が悪いせいだ」とならないというのはなぜなんでしょう。