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「オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史」小笠原弘幸著

オスマン帝国オスマントルコという名称の方がなじみがありますが、どうやらトルコと限定はできないようです。

どうしても西洋からの歴史観に影響されますので、それにのしかかってきたようなイメージが強いのですが、近代に入ってからは逆転を果たしたという感覚で見てしまいます。

しかしオスマン帝国の実像というのをなかなか実感はできませんでした。

この本で簡単ながらその通史を見通すことができます。

 

オスマン帝国が最初に姿を見せるのは13世紀末、そして滅亡するのが1922年ですのでおよそ600年なのですが、その間一つの王朝が続きそして世界史の表舞台と言える存在感を示し続けました。

ビザンツ帝国は1000年続きますがその間王朝は何度となく交代しています。

またモンゴル帝国は広大さでははるかにしのいでいるのですが、わずか150年で消え去りました。

日本で言えば鎌倉時代から大正時代までの長さであり、その通史といえど一人の歴史家が書くには長すぎるのですが、日本語で読めるものが全くない状況なので著者が挑戦したということです。

 

まず呼び方で「オスマントルコ」というのは主にヨーロッパ人が使うもので、それに影響されて日本でも使われています。

しかしその国がトルコと自称したことはなく、支配層もほとんどが別の民族出身者でありオスマン帝国と呼ぶのが良かろうということです。

 

オスマン帝国では王位継承はほとんどが父から子への父子相続です。

そのシステムを確固とするために即位後に王位継承の資格を持つ弟たちを殺害する「兄弟殺し」という慣習がありました。

これが残酷のようでも後で王位を狙っての反乱が起きることを防ぎ安定した治世とできたということにもつながりました。

また君主を支える高位の役人のほとんどは奴隷出身者でした。

そのため他の国で見られるような貴族への権力分散ということが起きにくく、大宰相となった者でもそれを子孫に継承するということがあまり見られません。

さらに王の生母もほとんどが奴隷でした。

これも貴族や他国の王族から妻を迎えてその子が国王となった場合に外戚となって権力を持つという可能性を防いでいました。

なお、奴隷と言ってもほとんどが帝国内でもヨーロッパ地域から来たキリスト教徒であり、それが延々と続いていたわけであり、血統的にはほぼヨーロッパ人種と見なせるのかもしれません。

 

オスマン帝国600年の歴史は四つの時代に大別されます。

初期は封建的候国の時代と見なすことができ、オスマン王家は諸侯たちの中の第一人者的な立場でした。

それが1453年のメフメト二世によるコンスタンティノポリス征服を象徴としてスルタンの国家の頂点とする中央集権化が進み帝国というにふさわしい体制が確立した時代に変わります。

ウィーンに至ったスレイマン一世やアラブへの大遠征をおこなったセリム一世などの治世の黄金時代とでも言える時期でした。

それが16世紀末からの約200年は混乱と領土縮小に見舞われる停滞期となる「分権的帝国」となります。

スルタンが無能だったと言われますが、社会の変革の波が押し寄せたというのが理由です。

さらに19世紀からは近代帝国と変化しようと苦闘したもののヨーロッパ各国に押しまくられた近代帝国の時代となります。

 

王妃として他国の姫などを迎えるということをせず、奴隷を王子の母とする風習は王朝にとって二つの利点がありました。

一つが外戚の排除であり、オスマン帝国も弱小であった初期には他国の王女を迎えて正妻とすることがありましたが、強力な帝国となればその必要もなく、名家出身の王妃の一族が外戚となる弊害が大きくなることを避けました。

さらに、イスラム法では妻を四人まで持つことができますが、奴隷の数には制限がなく、いくらでも持つことができたため男児の数を十分に確保できたというのが利点の二つ目でした。

オスマン王家が途切れることなく続いたのはこれらの方策のせいでした。

 

オスマン帝国は最強の時代には西のハプスブルグ家と対立していました。

しかしその背後のフランスとは接近を図りました。

16世紀にフランスにオスマン領内での安全保障や交易の自由をみとめた通商特権、いわゆるカピチュレーションを与えました。

その後イギリス、オランダにも同様の特権を付与しています。

しかし18世紀以降、ヨーロッパ諸国の国力がオスマン帝国を上回るようになるとこのカピチュレーションが列強との不平等条約と化してしまい、経済的な従属を招くものとなってしまいます。

 

即位時の兄弟殺しは反乱を未然に防ぐという意味はありましたが、その王が早死にしてしまうとすぐに王権の危機となってしまいます。

中期まではそう言った事態がほとんど無かったようです。

しかし後期になると頻発するようになり、また兄弟殺しも行われなくなります。

かなり王権の性格というものが変化していったのでしょう。

しかし案の定、生き残った弟たちによる反乱も起きるようになります。

 

ヨーロッパ側から見ただけでは分からないものが少しは見えたようです。

 

 




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