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アニメ版『小市民シリーズ』1期感想の総括(原作小説全巻及びアニメ版2期で扱う内容のネタバレ有り)

アニメ版『小市民シリーズ』1期感想の総括

原作小説全巻及びアニメ版2期で扱う内容のネタバレ有り

  • 梅田修一朗

アニメ版『小市民シリーズ』1期「春期限定いちごタルト事件」「夏期限定トロピカルカフェ事件」は全10話をもって放送終了し。
すぐさま2期「秋期限定栗きんとん事件」「冬期限定ボンボンショコラ事件」が2025年4月より放送と発表。

 

アニメ版の感想については、各話放送に合わせてこちらで。

 

原作小説の感想については、『冬期限定ボンボンショコラ事件』まで既読の人前提にこちらで

 諸々既にまとめてはあるのだけれど。

 

アニメ版一期放送終了を機に
「1期で描かれたのはどんなことだったのか。どのように描かれたのか」
について少し、総括する感想記事を書いてみた。

 

①小鳩常悟朗と小佐内ゆきの二人が出会い、それらの事件を通じて関係性と各々自身の在り方を変化させていったこと、それこそが『小市民シリーズ』という「事件」であり読者/視聴者こそはその探偵役

 

②『夏期限定トロピカルパフェ事件』とはどんな「事件」か。
「探偵」は「犯人」に対し何を失敗したか。「なにを」や「どのように」などより遥かに重要な2つの「なぜ」を1つは測り切れず、1つは応えられなかった/応えなかった。1つは「犯人」は「なぜ」復讐したか。もう1つは2人の関係性は「探偵」と「犯人」だけではないと少なくとも小佐内さんは思っていて、それを最後には口にも出す……即ち「小佐内ゆきという少女」は「なぜ」。

 

③2つの「なぜ」がなぜそこまで重要か。
諸々の前提として、二人は傲慢に概ね他者を見下している。その上で。
■二人は各々狐であり狼である自身を誰かが理解し、その上で尊重してくれることを渇望しているから(⇒1つ目の「なぜ」)
■誰かを恋人……自身と対等だったり自身と同じかそれ以上に大事な存在だと捉え認め位置づけられるということは、賛美や承認/衝動のぶつけ先といった便利な道具ではない、他者を認めることに、引いては自分自身を確立することに繋がるから(⇒2つめの「なぜ」)

 

④アニメの構成と各話の意味。
■1話時点で実はどれだけ多くが提示されていたか。
■2話と6話との対照=裏がない堂島健吾と、裏ばかりの狐と狼
■3話と4話=狐が語り、紹介する狼の在り方
■6話と9&10話の対照=狐の要求に応えきった狼と、狼の要求に応えきれなかった狐。

 

⑤固有結界もしくは領域展開の意味
■小鳩常悟朗と小佐内ゆきの内面世界において、自身と対等の他者として唯一お互いだけを特別に位置づけている。
■だから基本的に二人揃っている時でないとこの演出は出現しない。
■「水」「川」「橋」といった頻出するモチーフの意味。

 

⑥小鳩常悟朗の一人称視点で綴られる原作小説と、(特に二人を横に並べて映すことが多い)三人称視点中心のアニメ版の基本的な演出の違いと、それによる印象の違い(一方、描かれている人物像は実は概ね一致している)

 


①小鳩常悟朗と小佐内ゆきの二人が出会い、それらの事件を通じて関係性と各々自身の在り方を変化させていったこと、それこそが『小市民シリーズ』という「事件」であり読者/視聴者こそはその探偵役

 

9月17日に公開されたばかりの神戸守監督インタビュー冒頭にもある通り、

 


この作品の最大の特徴、特殊性、いちばんのオリジナリティは小鳩常悟朗と小佐内ゆきの関係性にこそある。

 


『小市民シリーズ』は一貫して表面的には小鳩常悟朗が推理し小佐内ゆきが行動し事件を解決したり起こしたりしていく話だけど。
実はより重要な謎であり事件として「二人の関係性の話」をこそ描き続けている作品。


春期限定いちごタルト事件」の詐欺、「夏期限定トロピカルカフェ事件」の拉致監禁誘拐事件といったものは(他の諸々の細かい「事件」も含めて)それぞれ「表面」の話に過ぎず、その「裏面」として二人の関係はどう描かれ、どう変化し、どんな着地を迎えたかこそがそれぞれ「春期限定いちごタルト事件」であり「夏期限定トロピカルカフェ事件」なのだと言える。

 

しかし、アニメ本編または原作小説を読めば分かる通り、小鳩常悟朗も小佐内ゆきもとにかくおよそ素直に本心というか……何を思い、何を考え、何を求め、何を願い、何に喜び、怒り、哀しみ、楽しんでいるかといったことを相手にも、自分自身にも、それに視聴者/読者にも容易に明かそうとしなかったり、意図的あるいは無意識に隠蔽したり、ごまかしたり目を逸らしたりするキャラクターであるため、ただぼんやり観ている/読んでいるだけではその「事件」についてほとんど何も分からない、ということすら有り得てしまう。
『小市民シリーズ』というミステリアニメ/ミステリ小説が提示する「謎」とは正にそこにこそあるのだと思う。


②『夏期限定トロピカルパフェ事件』とはどんな「事件」か。


「探偵」は「犯人」に対し何を失敗したか。「なにを」や「どのように」などより遥かに重要な2つの「なぜ」を1つは測り切れず、1つは応えられなかった/応えなかった。

1つは「犯人」は「なぜ」復讐したか。もう1つは2人の関係性は「探偵」と「犯人」だけではないと少なくとも小佐内さんは思っていて、それを最後には口にも出す……即ち「小佐内ゆきという少女」は「なぜ」。


二人の関係性の変化こそが「事件」。

ではまず春期限定いちごタルト事件』とはどんな「事件」だったか。
小鳩常悟朗が推理し解き明かし称賛されることを求め淫して止まない「狐」であり。
小佐内ゆきが自身が受けた不条理な扱いに対して復讐することを求め愛して止まない「狼」である。
そのことを再確認した「事件」であり、そういう二人であると視聴者/読者に提示した「事件」でもある。
これはごくわかりやすい話だと思う。

次に『夏期限定トロピカルパフェ事件』とはどんな「事件」か。
それは「探偵」の「犯人」に対する推理の無惨な破綻であり、「犯人」が向けた期待と願いにヘタレでクソボケの「探偵」が無情にも応えなかった悲喜劇で。

小鳩常悟朗は「なにを(What)」や「どのように(How)」は読み解けても、「なぜ(Why)」という人の心は全然読み解けないヘボ探偵なので。
小佐内ゆきという犯人の「なぜ」を2つ読み損なった。
一つは復讐を愛するだけでなく、復讐しなくては尊厳が守れない心について。
一つは小佐内ゆきの恋心。

『夏期限定トロピカルカフェ事件』とは犯人が読み解いて貰う事を切望した2つの「Why」を探偵が解き損なったために、無惨な破局を迎えてしまった事件と総括し得る。特に2つ目こそが大問題だった(2つ目をどうにかすれば1つ目は十分リカバリーできた)。だからより詰めるなら『夏期限定トロピカルカフェ事件』とは実は

「夏休み中二人でスイーツ巡りしたのに小鳩常悟朗が推理推理で彼氏らしい態度も取らず二人は彼氏彼女だと頑なに認めようとしなかった事に小佐内ゆきがブチ切れ破局した」

という事件だったりする。いや本当に。


■まずは、小佐内ゆきの恋心について。

 

10話でつきつけたのは実は1話の反復であったりもする。

「ねえ、さっき言ってたね。「お前ら付き合ってるなら分かるだろう」って」
「ぼくには縁のないシチュエーションだ」
「………。
わたしもそうなの。小鳩くん、結局推理しちゃってたね」


つまり、最初から小市民になんかお互いなる気なんてなかったよね、と。
そして小鳩常悟朗は二人の関係について小佐内ゆきの方から誘いを向けても「縁のないシチュエーションだ」と切り捨て、考えようともしてくれない……考えるのを避けてしまう。推理への傾倒に逃げ込んでしまう。

「でもね。小鳩くんとのスイーツめぐり……楽しい気持ちも、なくはなかったの」

1話「ねえ、さっき言ってたね」の反復。
かぐや様は告らせたい』の白銀御行と四宮かぐやが不毛にこだわったように、いわば「先に告白した方が負け」という考えはある。
でも、小佐内ゆきはあえて負けてみせ、それでもなお踏み込んだ。しかし、ヘタレなクソボケは応えなかった……だから二人はそのまま破局を迎えるしかなかった。
表の拉致監禁誘拐事件などよりその裏の二人の破局こそが『夏期限定トロピカルカフェ事件』なのだと思う。

 

■続いて、復讐を愛するだけでなく、復讐しなくては尊厳が守れない心について。

 

復讐を愛する小佐内ゆきの姿は時にあまりに嗜虐的で残酷すぎるようにも見える。

しかし川俣さなえが今後だいぶ愉快ならざる立場に置かれることになったのはそもそもの話……9話で小佐内さんが語った通り中学時代に「救けた」のにも関わらず、粗暴な石和馳美に怯え、小柄で童顔で与しやすく思える小佐内ゆきを舐めてかかって脅してきたから。

「人に不条理に舐められる」とはどういうことか。
これも実は1話から示されていた。

小柄で童顔の少女・小佐内ゆきがどれだけそういう経験を否応なく重ねてきているか。それと「復讐」好きであることの関係性。
そんな「心」の在り方をどれだけ分かることができるか。

 

で、まあ、その読み損ないも勿論非常に深刻なんだけど。
たぶん、読み損なった上でも小鳩常悟朗が小佐内ゆきの恋心というより大事な向けられた心に応えてさえいれば。
当然の謝罪なども織り交ぜつつ「二人は幸せなキスをして終了」にもっていけただろうに、とはかなり本気で思う。

「でも、そうはならなかった」
「ならなかったんだよ、ロック」
「だから、もし続編の秋期&冬期限定までアニメ化されなければ、アニメ版においてこの話はここでお終いなんだ」
「でも、お終いにはならなかった。二期決定だ。二期決定だよロック。わたしは嬉しい。めちゃくちゃ嬉しい」


なお、少し余談。
小佐内ゆきが得意とするのは主に侮りを利用し、人を騙し唆し操ることで。
その手法自体が小佐内ゆきによる、そうして日常的に侮りを向けてくる世界への復讐だという趣もあるのだけど。
ともあれ、その在り方は青崎有吾『地雷グリコ』射守矢真兎の「戦略」及び相沢沙呼「城塚翡翠シリーズ」の城塚翡翠のそれと、ある意味においてとても良く似ている。

そしてその「戦略」を行使するのが三人とも(若い)女性であることは偶然などではないだろうとも思う。
はっきりいってしまえば、ようするに暇空茜とそのシンパ?みたいな輩が跳梁跋扈するミソジニー(をはじめとする理不尽な差別に)溢れる社会だから、そうなっている。

 

 

③2つの「なぜ」がなぜそこまで重要か。


諸々の前提として、二人は傲慢に概ね他者を見下している。

その上で。
■二人は各々狐であり狼である自身を誰かが理解し、その上で尊重してくれることを渇望しているから(⇒1つ目の「なぜ」)
■誰かを恋人……自身と対等だったり自身と同じかそれ以上に大事な存在だと捉え認め位置づけられるということは、賛美や承認/衝動のぶつけ先といった便利な道具ではない、他者を認めることに、引いては自分自身を確立することに繋がるから(⇒2つめの「なぜ」)

「全能感と裏返しの無能感、これを試練にかけることで自分を客観視することのできる視点を獲得する、そこまでの物語として〈古典部〉シリーズと〈小市民〉シリーズは考えています」
(『ユリイカ』2007年4月号/米澤穂信×笠井潔対談)

 

まず諸々の前提として小佐内ゆきがはっきり口にした通り、二人はまず「傲慢な高校生」であるのは明らかかと思う。

まず"小鳩常悟朗が小佐内ゆき(と一応、堂島健吾)を除くほとんど世の中すべての人間を概ね舐め腐っているやつだ"というのはその言動の端々から伝わらずにはいられないものだろうと思えてならないので、例示等は割愛する。

次に小佐内ゆきについても。その復讐心の強烈さは
"その気になればこんなに簡単に手玉にとって好きなように誘導できてしまう、その程度の相手/連中が。その程度の存在にも関わらず。このわたしを侮ってみせたり、不快にさせたり、なんらかの被害をかぶせたりしてくるなんて。許せない"
という傲慢さが多分それなりに背景にあるんだろうなとは思える。
その外見から他者に日常的に不条理に侮られることに苦しむ小佐内ゆきは、一方で傲慢に広く他者を侮ってしまう存在でもある。
そしてそういう自身の傲慢さに気づく賢さもあるので、自分のそういう在り方がとても嫌でもあるだろうな、という……つまりはまあ、小鳩常悟朗の傲慢さと屈折とすごくよく似ている。
小鳩常悟朗のわかりやすさよりは少しわかりにくい所もあるかな、とは思うけれど。


その上で小佐内さんが言語化した通り二人は「考えることしかできない」……即ち二人は基本的に他者を傲慢に侮り見下していて、一方でそれは不安("自分たちは本当はそんなに優れてなんかいないのでは。今自分たちが過ごしている狭い世界でなく、少し広い世界に出れば遥かに優れた誰かが無数にいるのでは")の現れでもあって。
まずそういう自身の心に目を逸らすことなく向き合えないから、他人の心にも本当には向きあえず、だから分からない。
それは歪んだ全能感と無能感に揺れる未熟さであり、古今東西の少年少女が普遍的に乗り越えるべきもので。
そういう問題の何より大きな焦点が、ことこの二人の場合は互いの間の恋愛感情という形を結んでいる。

 

そして小佐内ゆきは『チェンソーマン』のデンジではないので、

「俺は俺の事を好きな人が好きだ」

では話が済んでくれない(というのが実は二期で描かれることになる『秋期限定栗きんとん事件』という物語の半面になる)。
狼/犯人/アイリーン・アドラーである自分を狐/探偵/ホームズに正しく見抜かれた上で、その上で恋し、愛して欲しいという面倒くさい存在。小鳩常悟朗が自身の「知恵働き」を正しく理解した上で褒め称えて欲しいという面倒さと対を成している(これも秋期~で示される話)。
ちなみに小鳩常悟朗というホームズのアイリーン・アドラーになるためにはその「自意識を砕いて潰して」「上から、『調子に乗らないでね』と言って」やる必要があり、小佐内ゆきさんは春夏秋冬かけてようやく成し遂げた。良かったね、小佐内さん。

 

 

 

④アニメの構成と各話の意味。


■1話時点で実はどれだけ多くが提示されていたか。
■2話と6話との対照=裏がない堂島健吾と、裏ばかりの狐と狼
■3話と4話=狐が語り、紹介する狼の在り方
■6話と9&10話の対照=狐の要求に応えきった狼と、狼の要求に応えきれなかった狐。


■1話時点で実はどれだけ多くが提示されていたか。

これについては先程

「ねえ、さっき言ってたね。「お前ら付き合ってるなら分かるだろう」って」

の件で小佐内ゆきと小鳩常悟朗の間にある実は一番大きな問題と溝が1話で提示されていて、10話はその反復とも言えるという話とか。
"小柄で童顔で与しやすく思える小佐内ゆきは日常的に人に舐められ侮られる経験を重ね、その尊厳を脅かされている(だからこそ復讐は彼女にとって、そうせずにはいられない、そうしなければ尊厳を守れないものでもある)"ことも1話時点で提示が始まっていたことにも触れた。

 

他にも多くが提示されている第1話でもある。

 

 


■2話と6話との対照=裏がない堂島健吾と、裏ばかりの狐と狼

 

第2話「おいしいココアの作り方」は「おまえは/自分は/こいつはどういう人間か」ということを最初から最後までずっとずっとひたすら問い問われる話になっている。
それは誰よりもまず小鳩常悟朗についてであり、堂島健吾についてであり、小佐内ゆきについてであり、堂島知里についてでもある。
そこらへんの詳しい話はもし気になるなら、各話感想まとめででも読んで貰うとして。

2話における原作にはなかったアニメ独自の描写、いわゆるアニオリで一つ非常に面白かったのはここ。

島健吾の言葉や振る舞いには裏が無い。
「おいしいココア」を振る舞うのも、その作り方を教えるのも、その裏に隠した意図だとか挑戦だとか含みといったものはない。堂島知里が提示し、小鳩常悟朗も小佐内ゆきもそれに乗ってしまった邪推など、してしまうだけ空振るだけで、虚しい。
島健吾はまっすぐに自身の思い、相手をどう捉えどんな存在だと感じているか……そしてどうあって欲しいかを口にし、真正面から突きつけてくる。
その言葉はその言葉通りの心を示している。

絵コンテ・演出・作画監督(連名)=武内宣之の第2話においてそのことは完璧な映像、古川慎(及び羊宮妃那、梅田修一朗、安済知佳)の完璧な演技によって見事に描かれてくれている。

そして2話で提示された堂島健吾の裏のなさ、堂島健吾と小鳩常悟朗の対峙はそのまま、第6話「シャルロットだけはぼくのもの」ひいては第9、10話「スイート・メモリー」の互いの裏ばかり探り合ってしまい、真正面から互いの思いを出しあえない小佐内ゆきと小鳩常悟朗の対峙と際立った対照を見せている。

物語の構造として、そういう配置がなされている。

 


そして実は2話ラストにおいて10話で小佐内さんが口にすることになった

「わたしたち、痴話喧嘩もできないの」

は既に先行して提示されていたりもする。

 

 

また4話ラストにおけるまさしく痴話喧嘩をしているカップルとの対比も、

つまりはそういうことでもあったりする。


■3話と4話=狐が語り、紹介する狼の在り方

 

これはアニメ本編/原作小説読んだ人には特に説明する必要もないかなと思う。
3話、4話は主にそういう話。


■6話と9&10話の対照=狐の要求に応えきった狼と、狼の要求に応えきれなかった狐。

 

6話「シャルロットはぼくのもの」において狼/小佐内ゆきは狐/小鳩常悟朗の不遜な挑戦をものの見事に退けて。
かつ、狐はそもそも夏のスイーツ巡りの提案そのものが自身を狐と見込んだ上での狼からの誘いなのだと察した上で挑戦していたということも実は描かれていて。

その上で9話では狐の挑戦に先立つスイーツ巡りの提案から、狐はずっと狼の掌の上に居たことが明示される。

小佐内ゆきは小鳩常悟朗という人間の求めるもの、その度し難い在り方をよくよく把握してみせた上で「おいで、キャンディーをあげる」(8話サブタイトル)とばかりに「餌」を投げ、喜び勇んで挑みかかってくるのを迎え撃ち、そして完封してみせた。

それなのに狐は狼の2つの「なぜ」を読み損なってしまい……というのが示されたのが、最終話である10話。

 

また小佐内ゆきは狼として狐としての小鳩常悟朗にはいわば「パーフェクトコミュニケーション」をとってみせたけど。
狼と狐でなく、互いに意識しあう少年少女としては素直に心を示すことがどうしてもできなかった。
それでも小佐内ゆきは最後の最後に

「でもね。小鳩くんとのスイーツめぐり……楽しい気持ちも、なくはなかったの」

とあえて踏み出してみせた。
しかしクソボケヘタレの小鳩常悟朗はその意味も、自分の思いもずっと本当は知っていながら、それに応えなかった。

だから、二人は破局するしかなかった。
繰り返しになるけど『夏期限定トロピカルカフェ事件』とは、引いてはアニメ版『小市民シリーズ』1期とはそういう事件であり、物語だった。


⑤固有結界もしくは領域展開の意味

■小鳩常悟朗と小佐内ゆきの内面世界において、自身と対等の他者として唯一お互いだけを特別に位置づけている。
■だから基本的に二人揃っている時でないとこの演出は出現しない。
■「水」「川」「橋」といった頻出するモチーフの意味。

これはもうなんというかおおまかにいって↑に書いた通りで。
細かい話は各話感想として随時いろいろゴチャゴチャと書いているので、もしも気になる方はぜひそちらをどうぞ……という。


⑥小鳩常悟朗の一人称視点で綴られる原作小説と、(特に二人を横に並べて映すことが多い)三人称視点中心のアニメ版の基本的な演出の違いと、それによる印象の違い(一方、描かれている人物像は実は概ね一致している)

 

これについても例えばこんな感じで。

 

 

やはり細かい話は各話感想として随時いろいろゴチャゴチャと書いているので、もしも気になる方はぜひそちらをどうぞ……という。


とりあえず、アニメ版『小市民シリーズ』1期感想の総括はこんなところ。




以上の内容はhttps://skipturnreset.hatenablog.com/entry/2024/09/18/182105より取得しました。
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