『西洋古典こぼればなし』柳沼重剛(やぎぬましげたけ)
著者は古代ギリシア・古代ローマが専門の、文学部教授です。
「古典」の古さが半端ない!
そんな先生のエッセイ集ですが、前半は小論に近い骨太なもの。
後半は古典語学の雑学エッセイ。
どれもこれもおもしろかったな。
『「文化」「文明」という言葉について』
先生が若かりし戦前の頃は、「文化」と「文明」という言葉に対立構造がある風潮だったそうです。
文化(culture)は精神的で、文明(civilization)は物質的。前者は精神的な成熟や豊かさを感じさせ、日本やドイツにあるもの。英米には後者しかない、みたいな言説。
言われてみれば「文化」と「文明」は違う気がするけど、どう違うか説明できない…。
前者はソフトで後者はハードみたいな感じ?ちょっと違う気もするな。
という疑問を、柳沼先生はラテン語の語源に遡りつつ、英語とフランス語で定着した時代を特定し(civilizationは18世紀頃、意外と新語なのである)、意味やニュアンスの違いを調べる。
疑問へのアプローチが凄まじい。さすが専門家。
結論としては「文化/文明」を対立構造で捉えるのは主にドイツで、英仏はそうでもないそうです。ドイツ経由で戦前の日本に流入したってことかな。
『文学と文学でない文』は、散文についての論。
「散文」は主語述語を持っており、客観的事実を説明する。新聞記事が散文の典型。
先生の表現で言うと「韻のない文章の総称」。
ギリシア語で言うと「プシロス・ロゴス(裸の文)」。
で、いろんな資料を引きつつ、歴史学と歴史叙述の違いに焦点が移ります。
キケロは「歴史は真実、詩は楽しみ、という原理に従う」といった内容を残しているらしい。が、先生の結論は「歴史叙述は文学である」そうです。
歴史学と歴史小説の違いは最近も読んだな。こういう繋がりは読書の醍醐味。
まあ、いち読者としては、そんなに厳密に分類しなくてもいいよ、と思いますが。専門領域というのは難しいものなのかもしらん。
散文の話しは次の『音読と黙読』にもつながります。
現代のレトリック(修辞学)の由来は古代ギリシアのrhetorike「演説の技術」。散文の基礎は声を持って聞かせる文章から始まったとのこと。
アリストテレスやキケロは「散文にもリズムがなければならない」といったことを残しているとか。
ちなみに古代(アウグスティヌス以前)の読書というのは音読がメインだったそうです。いや、最近まで音読派っていませんでしたか?田舎の母は結構、声に出して読むけど…。
後半のエッセイはライトで楽しい。
セネカが書いたクラウディウス帝の悪口「コロキュンテー」は「カボチャ」「瓢箪」の意味があり、どっちなんだろ?とか。
カボチャ頭も、瓢箪野郎も、立派な悪口だからなあ。
「アリとキリギリス」は「アリと蝉」の話しもあった。
夏目漱石の『吾輩は猫である』の古代ギリシア・ローマ文献の引用が凄いとか。
苦沙味先生が奥さんに「世界で一番長い字って知ってるか?」とか言っている。
Archaiomelesidonophrunicherata(蜜の如く甘くなつかしき古きプリュニコスのフェニキアの女たちの歌)で、アリストパネス『蜂』に出る造語だそうです。
苦沙味先生ったら、博覧強記!!
柳沼先生は冷静な筆致で言葉の海を逍遥しているのですが、なんとなく『本が好き、悪口言うのはもっと好き』が連想される。なんでだ笑
柳沼先生のエッセイは他にもあるみたいなので、読んでみよう。