現代規範理論研究会2025年度11月例会報告:長期主義をめぐって
稲葉『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』(講談社、2025)のあとに
☆拙著『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』の眼目
・AI翻訳を用いて英語版を仕上げたが、タイトルは"ETHICS FOR HUMANITY THAT MAY NOT PERISH"とした。
元のタイトルは編集部(互盛央)のもの
「滅びるかもしれないということは滅びないかもしれないということである」
「普通に考えれば「いつかは滅びるだろ当たり前じゃん」だろ。異常なこと言ってるって気づけよ!」
・長期主義と存亡リスク論が裏腹であること
長期主義の主張が積極的に意味を持つには存亡リスクが克服されねばならない。
存亡リスクについてまじめに考えるなら長期主義と同等のスケールでものを考えねばならない。
・「そんなに長生きして何するの?」問題の示唆
倫理学というより美学、あるいは集団的な「人生の意味」問題かもしれないが。
・宇宙進出の意義について
おおまかに言って、人類のコミュニティ自体を複数化することは存亡リスク回避法としてもっともわかりやすい。
長期主義においては人類存続のために多かれ少なかれ外宇宙進出と拡大は当然と想定されているが、その正当化は本当に可能なのか? を考えた。
併せて、現状の長期主義においては到達可能な宇宙におけるETIの不在が想定されており、かつその想定には理由があることも理解できるが、無条件に支持はできないことを指摘した。
「絶滅を避ける」という消極的理由だけではなく、「外宇宙に出るとこんないいことがある」という議論が可能だとしたら何があるか? を考えた。
☆本書以降の課題
・イデオロギーとしての長期主義の有害性とその批判の仕方
もちろん長期主義は思想としては反社会的で有害な思想である。
しかしそうすると普通の意味ではやはり反社会的で有害な思想である反出生主義は長期主義へのカウンターとして機能する限りにおいて役に立つではないか!
そもそもマルクス主義もリバタリアニズムも思想としての純粋形においては反社会的で有害である。
というわけで長期主義は人種主義的でエリート主義的で反民主主義的で反自由主義的であるには違いない。しかしその側面を強調しても仕方がない。
理論的にはわかりきった話でつまらない。
実践的に見てもそういう批判ばかりではうまくいかない。だから立岩真也は「正しい優生学と付き合う」とか「能力主義を否定する能力主義」とかいった言い回しをした。
長期主義の射程の中で他の仕方で考えること(存亡倫理)――しかし具体的には?
・土井翼『名宛人なき行政行為の法的構造』から
世代間倫理における功利主義・帰結主義的アプローチのカント的・契約主義的アプローチの優位性(と見えるもの)の理由――非同一性問題
世代間倫理は関係者間の相互性・互恵性の枠組みでは語れない。
廣光俊昭は先行世代からの贈与の後続世代への贈与への接続をも「互恵性」と語ろうとするが無理がないか?
後続世代への一方的義務を強調するヨナスの議論をより具体的に展開するにはどうしたらよいか?
現実世界における一方的行為の道徳的原理付けの手がかりはないのか?
法律の世界においては、親族関係での贈与、財団への寄付などにおいては、必ずしも特定の相手方は必要とされない。そこでは不特定の相手への行為、相手が(未だ)不在の行為に対する法的規律が問題とされている。
土井は公法(行政法)の範囲において、具体的で個別的であるために通常は名宛人があるとされる行政行為において、実は名宛人がないものがあることを指摘し、そのような行政行為において基本的な対象は人ではなくもの(公物)であると主張する。(背景にはハンナ・アレントや木庭顕の公共性論が存在する。)
ヨナスの場合、一方的義務におけるコミットメントの対象は「人類という理念」という抽象物である。これをより具体化することはできないか? 「人類共同体」とは現状では不在の国家のことである。さてここで「人は国家の存続にコミットする一方的義務がある」というのはまずくないか? たとえ国家が自分を生み育ててくれた恩があったとしても?ヨナスは人類に対する個人の一方的義務のみを指摘し、人類の個人に対する恩恵については特に言わなかった。
人類を理念としてではなく具体的な共同体として実体化すれば、(廣光的?)通時的相互性とでも言うべきものをそこに設定することは容易になるかもしれない。個人は国家ないし人類という共同体に恩があるので、その恩を返す、という風に。しかしそこに全体主義のにおいをかぎ取ってそれを拒絶しようとするならば?(反出生主義ははっきりそれを拒絶するだろう。)
「人類の理念」を超えた具体的人類共同体へのコミットを避けつつ、かつ「理念への献身」といった空語に終わらない形で、具体的に人類の理念にコミットする行為とは? 世代を超えて存続する公物の将来世代への遺贈?
・一方的遺贈は何を解決するのかあるいはしないのか?
改めて確認すると「我々が先行世代からの遺贈の上に存在しているのだから、その恩を返さなければならない」という相互性の論理は意味をなさない。
1.返礼すべき先行世代は存在していないので、恩の返しようはない。
2.反出生主義的に言えば、恩恵を受けているのではなく害を受けている。
先行世代による遺贈は単なる事実、我々の存在の事実的前提条件でしかなく、規範的拘束力はない。
我々は後続世代に一方的遺贈をすることもできるし、しないこともできる。これは単なる事実である。
更にサミュエル・シェフラーによれば、なぜかはよくわからないが我々は自分の死後の未来についても配慮するように事実としてできている。
なぜそうなっているのかはよくわからない。それがわかったところで、あるいはわからなかったところで、何が変わるのか?
「わかった」ところで、それはどのようなわかりかたか? おそらくは「進化論的暴露論証」になるのかもしれないが、それは言ってみれば「我々は本当は死後のことなど気にしなくてもよいはずなのに、進化のメカニズムによって気にするようにされてしまったのだ」という程度のものだろう。
しかし進化論的暴露論証が大概そうであるように、そこには大した意味はない。有神論の構図に置き換えると、神の作りし「本当は」の水準から「進化のメカニズム」という悪魔による欺瞞によって疎外された、という筋書きになるのだが、唯一神論ないし無神論の構図では神と悪魔の区別がなくなる(一致する)のであり、本来態と疎外態の区別もない。
そう考えればわかったところで、あるいはわからなかったところで、我々は事実として死後について配慮するようにできているというその本性に従うことは別に不合理ではない。
すなわち、一方的遺贈は不合理的であって、しないほうがよい、するべきではない、との論証がなされる見込みは少ない。
だからといってより積極的に、一方的遺贈をするべきだ、しないことは不合理だ、とまで言えるか、は、反出生主義が決定的に論駁されていない以上、言わない方がよいだろう。
・長期主義・存亡倫理とはつまるところ、「分析的実存主義」「人生の意味の哲学」に対する「分析的終末論」「歴史の意味の哲学」とでも言うべきものであろう。
*文献
立岩真也『私的所有論(第二版)』生活書院
廣光俊昭『哲学と経済学から解く世代間問題 経済実験に基づく考察』日本評論社
土井翼『名宛人なき行政行為の法的構造』有斐閣
サミュエル・シェフラー『死と後世』筑摩書房