The Arabian Nightmare(1983)Robert Irwin
ロバート・アーウィンは『千夜一夜物語』の専門家で、『必携アラビアン・ナイト』などの書籍を刊行しています。
そのアーウィンがヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』に着想を得た著した処女小説が『アラビアン・ナイトメア』(写真)です。
英国の出版社数社に本作の原稿を送ったものの、出版を拒否されたため、友人と一緒に出版社を作って、そこから刊行したそうです。
当然、余り売れませんでしたが、二作目のヒットで、こちらも注目されました。
舞台となるのは、一四八六年のカイロ(ブルジー・マムルーク朝)。
『千夜一夜物語』は、九〜十世紀頃のバグダットで原型が生まれ、次々に物語が加わり、十五世紀頃のカイロで完成したといわれていますので、ちょうどその頃の物語になります。
英国人の青年バリアンは、巡礼者一行とともにカイロにやってきます。彼は巡礼だけでなく、フランス王宮の命を受け、マムルーク朝の戦力を探るという目的も持っています。
しかし、隊商宿(キャラバンサライ)で悪夢の病にかかり、目覚めると出血していました。同じ英国人のマイケル・ヴェインは、バリアンを猫の父と呼ばれる医師のもとに連れてゆきますが、危ないところをヨルという語り部に救われます。さらに、ヨルは『千夜一夜物語』の作者だといいます。
その後、バリアンは、夢か現か判然としなくなるという症状に苦しめられます。朦朧とした意識のまま、彼を捕らえようと迫ってくる猫の父とヴェインを躱し、カイロの街を彷徨いますが……。
アーウィンは、アラビアの歴史や文学が専門だけあって、まずは十五世紀のカイロの観光案内として楽しめます。
交通の要衝として、人種や国籍、宗教の異なる人々が混じり合ったカイロの魅力を堪能した後、物語は動き出します。
悪夢に取り憑かれたバリアンは、現実のできごとなのか、夢のなかの話なのか、眠りながらみている夢なのか、起きてみている夢なのか、はたまた、自分は誰なのか、分からなくなってきます。
また、猫の父やヴェインは明らかに怪しいけれど、ヨルやその仲間も信頼できない。その板挟みになりながら、カイロを脱出しようと試みるものの、上手くゆきません。
猫の父は、イタリア人のスパイであるジャンクリストフォロ・ドリアが持っていた本を手に入れようとします。その本にはアラビアの悪夢を解く鍵が記されていますが、今、バリアンの手のなかにあるのです。
一方、敵対するキリスト教徒たち(エルサレムの聖ラザルス騎士団団長のジャン・コルニュやヨルら)は、バリアンを救世主かも知れないと考えるのです。
両陣営による攻防が物語の中心かと思いきや、それは飽くまで枠組みに過ぎません。
この小説の語り手であるヨルは、様々な挿話を紡ぎます。
『千夜一夜物語』同様、そちらの方が遥かに面白い。ほとんどが「夢」にまつわる話なので、まるでカイロ全体が悪夢に包まれているような感じがしてくるのです。
中盤過ぎに、ヨルは息抜きと称して、最後の挿話を語ります。何と、これがいつまで経っても終わりません。
あるなぞなぞを巡って、まるでバトンを手渡すかのように語り手が次々に変わるという、複雑な入れ子構造の物語のため、視点が誰なのか読んでいるうちに混乱してくるのも魅力のひとつです。
さらに、『千夜一夜物語』は、シェヘラザードがいつ殺されるか分からないという緊迫感がありますが、こちらは登場人物がヨルにツッコミを入れたりして、終始、緩い雰囲気なのがユニークです。猫の父との対決が控えているかも知れないのに、本当に暇潰しの与太話みたいなのです(それも楽しい)。
ところが、そのエピソードを語り終えたヨルは、コルニュに絞殺されてしまいます。そして、この小説の真の語り手は、ヨルではなかったことが明かされます。
それどころか、敵同士と思っていた猫の父とコルニュは共謀して、人の世に混乱を持ち込もうとしていたことが分かるのです。
ふたりはスルタンによって首を刎ねられ大団円を迎えますが、相変わらず、どこまでが夢で、どこからが現実か分からず、そもそも誰がみている夢なのかも判然としません。
観念に過ぎない悪夢によって現実に混乱が齎されるわけですが、では、それを仕組んだのは何者なのでしょうか。
「訳者あとがき」によると、SF作家のジョン・クルートは真の語り手を「悪魔」と考えているようです。
しかし、物語の最後に登場するのは「不潔なヨル」の連れであり、消化できない食べものをヨルの髪や肩に吐き散らかしていた人猿なのです(大魔術師が作り出した怪物?)。
正体は分かりませんが、読者は長い時間、奴の夢のなかにいて、シャハリヤールのように「もっと物語を」と叫んでいたわけです。正に悪夢から生還したような気持ちになる不可思議な読後感です。
『アラビアン・ナイトメア』若島正訳、国書刊行会、一九九九
『千夜一夜物語』関連
→『エバ・ルーナ』『エバ・ルーナのお話』イサベル・アジェンデ
→『夜物語』パウル・ビーヘル
→『シェヘラザードの憂愁』ナギーブ・マフフーズ
→『船乗りサムボディ最後の船旅』ジョン・バース
→『シンドバッドの海へ』ティム・セヴェリン
→『サラゴサ手稿』ヤン・ポトツキ
→『宰相の二番目の娘』ロバート・F・ヤング