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オフィスでのアルバイトの思い出

 

会社員にならないのだから会社でバイトしてみよう!

もう気づけば25年も前のことですが、大学4年生の頃、ある会社でバイトをしていました。今働いている業界とも関係があるし、ときどき当時のことを思い出します。

学部生の頃3年の終わりまで続けていたコンビニバイトについては以前こちらにまとめました。

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コンビニバイトで貯めたお金でドイツに行ったりしていたのが3年生の頃。

その後本格的に大学院で学ぼうと思い立ち、コンビニを辞めることにしました。

コンビニを辞めて入試の勉強を始めたのかというとそうではありません。みんなと同じようにスーツを着て就職活動をしないのであれば、バイトとして会社員生活を体験するのもいいかなと思ったのでした。それに進学するとなるとお金がかかるので、コンビニより時給のいい仕事をする必要がありました。

大学の学生課に掲示されている募集を見て、西新宿にあった翻訳、通訳、国際会議を扱う会社(いちおう伏せ字にしておきますが、サイ◯インターナショナルという有名企業)へ面接に行き、ドイツ語を勉強していると話すとすぐに採用されました。

ちなみに時給は、コンビニが昼で850円程度、会社のほうは1100円くらいはもらえたと思います。

 

メッセンジャーとしてオフィスで働く

私はメッセンジャーという職種で採用されました。とはいえ自転車やバイク便ではありません。会社の取引先の官庁や企業に電車で出かけてお使いをするという仕事でした。

運ぶものは主に書類(契約書や航空券)や会議通訳のための資料、そして通訳の機材(マイクやレシーバーなど)等がありました。これを通訳者さんやクライアントの企業・官庁さん、機材の業者さんを回って受け渡しをしていたのでした。

メッセンジャーとして物を運ぶ仕事がないときは、オフィスでコピーとりや不要なコピー用紙の分別、シュレッダーなどの作業をしていて、仕事が入ると地図(東京全体の住宅地図が置いてありました)をコピーして、言いつけられた場所へ出かけて用を済ませるという仕事の流れになっていました。

メッセンジャー担当者は常時二人いて、全体で六〜七人くらい所属していたかと思います。私の他には、一橋大学合唱部の男子二人、法政大学の女子三人、男子一人、そして秋頃に私と同じ明大文学部の友人が入っていました。

会社には他の職種のバイト学生もいました。事務の補助をしていた法政大学二部の女の子は毎日夕方までバイトしてから授業に行っていたし、ネイティブスピーカーが多い、語学研修を扱う部署には上智大学の学生が二人くらいいました。

当時のバイト仲間や社員さんたちはみんなやさしくて気さくな方々で、食事や飲み会に行くこともあったし、今も懐かしく思い出します。

 

一日の仕事はだいたいこんなかんじ

当時のことを思い出しながら、どんなふうに一日を過ごしていたのか書き出してみます。

9時半ごろ出勤

オフィスは西新宿の北西部にあり、当時住んでいた下高井戸のアパートから京王線で新宿駅まで、そこから徒歩12〜13分くらいかけて通っていました。学生バイトでしたが、会社や官庁を回るので、いつもスーツ着用でした。当時はクールビズもなかったので、夏もジャケットを持ち歩いていました。

出勤するとまずは休憩スペースにあるコーヒーメーカーでホットコーヒーを飲みます。タダでコーヒーが飲めるありがたさに最初は感動しました。

 

午前

出勤後は、デスクにすでに出かける仕事の指示が来ていることがあります。そのときは、他のバイトと相談して出かける先や時間を分担しました。女性といっしょの日は、私が機材を運ぶ仕事を担当していました。機材の入ったトランクがかなり重かったからです。

都心の官庁や会社へのおでかけを一件こなすとちょうどお昼の時間になります。

そして出かける時にはホワイトボードに名前と行き先を書いていました。これって会社っぽいと少し感動したものでした。

 

お昼休憩

お昼はだいたい社員さんと同じタイミングで一時間くらい休憩をとっていました。近所のコンビニで買って食べたり、同じビルに入っている食堂に行ったり、少し歩いて十二社通りにあるマクドナルドやお弁当屋さんに買いに行ったりもしました。

新宿中央公園北の交差点北西角に会社のビル(ローソンのマーク)があり、西に坂を降りたところが十二社通りです。当時は大江戸線は開通していなかったので、新宿駅まで歩いて電車に乗っていました。

 

午後

昼過ぎにもだいたい1、2件出かける仕事をしました。

出かける仕事がないときは、たいていコピーとりやシュレッダー作業を手伝っていました。両面コピー、ソート、ホッチキス留めなど、コピー機の使い方はここで学びました。大学院に入ってすごく役に立ったのを覚えています。

常時ふたりで仕事をしていましたが、二人ともお使いに出ることはあまりなく、どちらか一人はオフィスで待機して、次のお出かけの準備をしたり雑用をしたりして過ごしました。

 

夕方にめんどくさい案件が来ることも

5時くらいに退勤となるのですが、なぜか夕方の退勤時間近くにめんどうな仕事が降ってくることがよくありました。

新宿から一時間くらいかかるおでかけをしなければならなくなったり、大量のコピーを取ったりといった仕事がよくありました。退勤時間前にいろいろやらなければならないのは社員さんたちも同様なので、できる限り私も仕事をお手伝いしていました。

退勤時には、経理の社員さんのところへ行って、立て替えた交通費を精算してもらいました。当時はSuicaなどはなかったのでぜんぶ切符を買って、あとで行き先と交通費を申請するという形でした。

出先で退勤時間を越えるときは、ホワイトボードに「直帰」と書いて出かけて、後日交通費をもらっていました。

 

移動中には何をしていたか

外出時には会社の携帯電話を持っていくことになっていました。私は自分では携帯を持っていなかったので最初はうれしかったのですが、まあ仕事用なので当然仕事にしか使うことはありませんでした。

移動中はよく本を読んでいました。それから会社には英語ができる社員さんがたくさんいるので、自分でも勉強しなきゃと焦って毎日英字新聞を買って、コンパクト版の辞書とともに持ち歩いていました。あの頃の方がもしかしたら今よりも英語ができたのかもしれません。

いろいろな場所に出かけることはあっても、そこでご飯を食べたり、カフェで時間を潰したりすることは(お金がなかったし)ありませんでした。だから長距離のお出かけで、列車内で長い時間本が読めることが何よりありがたかったのです。

 

よく行ったお出かけ先、思い出の場所

官庁

霞ヶ関の官庁街にはほぼ毎日なんらかの用事で出かけていました。いちばんよく行っていたのはどこだったでしょう? 外務省はそれほど多くなかったかもしれません。運輸省、通産省、農水省、法務省、大蔵省(省庁再編の前でした)などには複数回行きました。運輸省はオフィスが古くて雑然としていて、ロッカーの上の方にカップ麺の箱が積んであるのが目に入り、これは大変な職場だなと思いました。それから六本木にあった防衛庁に入ったこともありました。ついでに、恵比寿の防衛庁幹部学校にも一度行きました。ものものしい雰囲気で、やはりここは軍隊だなと感じました。

 

各国の大使館

霞ヶ関の官庁の他に、しょっちゅう出かけていたのが大使館でした。アメリカ、ロシア、オーストラリア、カナダなどの大使館には何度か行ったと思います。とくにアメリカ大使館は警備が厳重で、ほんのちょっとした用事なのになんでこんなに待たされるのかとうんざりしたものでした。当時はまだ大江戸線開通前だったので、最寄駅から10分以上歩くやや不便な場所もありました。

 

通訳機材の会社

ほとんど毎週一回以上訪れていたのが、赤坂にあった通訳機材の会社でした。ここに行く時はレシーバーやマイクなどを大きなトランクで持ち運びしなければならず、たいていは男性バイトが担当することになっていました。やや駅から遠く、ちょうどドイツ文化会館に近いところだったのですが、込み入った住宅街の中だったため、詳細な地図を作ってバイト仲間で共有していました。

 

通訳者さんたち

しばしばフリーで活動されている通訳者さんに会いに行って、資料や航空券を渡すこともありました。駅で待ち合わせて改札を出ずに封筒を渡して帰ったり、あるいは喫茶店などで待ち合わせることもあったかと思います。通訳者さんへのお使いはわりと東京から離れた場所が多く、横浜駅や、さらには我孫子駅まで行くこともありました。たぶん我孫子がお使い先として一番遠い場所でした

 

クライアントのさまざまな企業さん

よく行っていたのが、当時採掘権をどうするかで揉めていた石油開発企業でした。築地の聖路加ガーデンにオフィスがあり、いつも決まった方が対応してくれました。この担当の方は私たち一介のバイトにも非常に丁寧に接してくださり、退出時にはエレベーターのドアが閉まるまでおじきをしていました。当時22歳の私にとって、こういう礼儀を尽くした対応ができる大人がいることはけっこうな驚きでした。

それから、五反田の駅から少し離れた大手電器メーカー、浜松町駅から海側に歩いたところにあるこれまた大手電器メーカーにもしょっちゅう出かけました。五反田では、社員さんとともに何かのイベントに参加してプレゼンテーションを聞く機会もありました。

忘れられないのは、朝から夕方まで二日間幕張メッセで行われた、大手メーカー(PCが有名でしたが今では中国系になってますね)のイベントに参加し、通訳者さんに資料や機材を渡す仕事でした。わりと自由時間が長いので、イヤホンをつけてプレゼンを聞いたり、休憩時間にはテーブルに広げられた大量のお菓子や飲み物を飲んだりして過ごしました。こういうのが海外の国際学会の雰囲気なのだと知ったのはだいぶ後になってからでした。

 

一年間でいろいろな出来事があった

最初は低学年からずっと続けていた一橋大学の男子たちに仕事を習っていた私ですが、いつのまにかバイトリーダーのような立場になって、みんなに仕事を教えたり、退職時にはノートに何ページもマニュアルを作ったりもしていました。

当時はたしか、週に3日は朝から夕方まで、1日は午前だけ出勤して午後に東京外大のゼミ、あと1日は明大で講義に出たり、指導教授と面談したりといったスケジュールで過ごしていました。

2月初めの卒論口頭試問で集まった時の写真。午前中会社に行っていたので私だけスーツでした。

 

コンビニバイトの頃も週に3回くらいは出勤していたので、べつに働きすぎというわけでもないし、院試の勉強もできているつもりでした。

6月ごろには暑さと忙しさで疲れがたまっていたのか、数日にわたって血尿が出たことがありました。母がとても心配して、祖父の旧友がいる取手市の病院に診てもらったこともありました。自分としてはとくに体調が悪いわけではないと思っていたし、東京から取手まで出かけることがむしろおっくうでした。結局原因はわからなかったのですが、おそらくスーツを着て毎日かなりの距離を歩いていたことで体が疲れていたのでしょう。

夏休みになると海外の企業がバカンスの時期ということでバイトも暇になりました。一日のうちお出かけは一件だけという日も多く、やることがないのでたまったゴミの片付けなどをしていました。段ボールで何箱もある資料からホチキスの針を抜き取るだけの仕事とか、オフィスビル地下の大型シュレッダーにひたすら紙束を放り込むだけの仕事など、ふだんのメッセンジャー業務よりも過酷だと思いました。

それでもやはり夏は暇だったので、手が空いている時は、オフィスで院試の勉強をしていました。浜川祥枝の『現代ドイツ語』(白水社)を読んだり、過去問を解いたりしたのを覚えています。語学系の会社だし、社員さんたちも外国語学習経験が豊かな人たちだったので、私の受験勉強も応援してもらえました。

大学院の入試は京大の他、東京でもいくつか受験するつもりだったのですが、一番最初に受けた京大人間・環境学研究科に合格したので、他は受験せず入学を決めました。

以前も書いたように、ちょうどこのころ私が住んでいた下高井戸のアパートは取り壊しが決まり、東京で気に入った居場所を無くしてしまったことも京都へ行くことを決めた大きな要因でした。(アパート取り壊しの件はこちらを参照)

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秋に友人のつてを頼って豪徳寺の長いこと人が住んでいなかったアパート(この家のこともそのうちブログに書きます)に引っ越しました。11月に私が引っ越した後、下高井戸で近所に住んでいた親友も隣の部屋に移ってきました。ちょうどこの友人も暇だったので、私がバイト先に誘い、同じアパートから同じバイト先に通う日々が卒業まで続きました。

 

オフィスでのアルバイトで得たもの

就職活動をする友人たちを見て、会社員にならないのなら会社でバイトしてみようということで始めた仕事ですが、一年間でさまざまな経験をすることができました。

上に書いたように、普通の生活をしていたら行けないようなさまざまな場所に行くことができました。中央省庁や大使館そしていろいろな企業さんに出かけて、そこで働く人たちと出会えたことは、その後一度も会社に勤めることなく大学教員になってしまった私にとっては、世の中を見る貴重な機会だったと実感しています。

そして東京に四年間住んで最後の年に、東京のすべての路線に乗って、街のあちこちに出かける仕事ができたこともいい思い出になりました。あの会社での仕事がなかったら、私にとっての東京の記憶はごく限られたものになっていたと思います。

なにより会社でいっしょに働いていた社員さんたちにはほんとうにかわいがっていただきました。同じ部署のみなさんだけでなく、喫煙所でいっしょになる隣の部署の部長さんには、院試の面接でどうしたらいいか、基本的な考え方を教わったりもしました。当時まだ何者でもなかった大学生の私にたいして、社会で経験を積んだ大人の方々がいつもやさしく丁寧に接してくださったことは本当にありがたかったと思います

東京での最後の一年があまりに充実していたため、その反動で京都で大学院に通い始めて数年は、なかなか自分のやりたいことに集中することができず、居場所も見つけられなかったのでしょう。

以前書いた東京外大の大学院ゼミと同じく、たった一年のことだけれど、今の自分にとって非常に大きな意味のある経験をしていたのだと思い出して改めて感じます。

(四年生の頃に通っていた大学院ゼミの話はこちら)

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