職場へ向かう道の途中に踏み切りがあり、それに沿ってに白い花を咲かせる木がある。
電車が通るのを待つ間、その白い花を咲かせる木を眺めている。行きのときはこちらから見えるのだが、帰りは建物の陰に隠れてしまうため、一日一回、長くても2分ほどしか出会わない。確信はないが、コブシではないかと当たりをつけている。
だからだろうか、日に日に白の密度を増していくあの木が頭から離れない。春を寿ぎ、花の盛りを迎えようとしている木。盛りの頂点の楽しみよりも、盛りを過ぎ、花を落としていく姿の寂しさを想像してしまう。
花が美しいのは、常にその背後に死の気配がするからかもしれない。それは人にも重なる。花を見ることは、人生を見ることと同じと言えるのではないか。
長田弘に「聴くという一つの動詞」と題する詩がある。
ある日、早春の、雨のむこうに、
真っ白に咲きこぼれる
コブシの花々を目にした。
そして、早春の、雨のむこうに、
真っ白に咲きこぼれる
コブシの花々の声を聴いた。
長田弘『世界はうつくしいと』より
「花々の声を聴」くとはどういうことだろう。通勤の車の中で毎朝白い花を見ているが、花が声を出しているという想像はしたことがない。見ようとしなくても、花の姿は目に飛び込んでくる。しかし、聴くというのは、意識して行わないとできない。
「聞く」と「聴く」の違いは能動性の違いだと何かで読んだことがある。「聞く」と「聞こえる」も能動性の違いだろう。そうすると、聞こえる<聞く<聴くというように、能動性には段階があるということだ。普段行っているのは「聞く」だろう。意識や関心を注ぎ込んでようやく「聴く」ことができるのだとすると、花々の声を「聴く」には、私という存在のすべてをかけて、花と向き合わなければ叶わないのではないか。
私たちの身の回りは音に溢れている。雑音、騒音、話し声、独り言……。静かなことが罪であるかのように、無音を厭い、音を求める。そうして、大事な何かを聞き逃す。それが私たちの日常だ。
花の姿を見て、「ああ、花か」と思った瞬間に意識は花でない方へ向く。花は何かを声なき声で何かを訴えている。生の喜びかもしれないし、死の嘆きかもしれない。あるいは人生からの問いかもしれない。私たちは「聴く」こととはどういうことなのか、今一度立ち止まって考えるべきなのではないだろうか。
遮断機を待つ数分で聴くことができるのかはわからないが、聴こうとすること、花へ意識を向けること初めてみたい。