数年前、バレーボールのテレビ中継でこんなことがあった。
強烈なスパイクを相手がブロックする。勢いを失ったボールがゆっくりとこちら側のコートに戻ってくる。落下予測地点に味方は3人、どこからでも難なく拾うことができる距離。
体勢を立て直して再度攻撃に入るかと思ったが、なんと3人ともその場から一歩も動かずボールはそのまま味方陣地を跳ねた。「お見合い」と呼ばれる、互いに仲間がボールを拾うだろうと思い、誰も捕球できずに落としてしまうミスプレー。
声かけひとつで防ぐことができた初歩的なミスだけに、お見合いをした選手たちも悔しそうに顔をゆがめた。
バレーに限らず、バスケやサッカーなどの複数人でひとつのボールを扱うスポーツで「お見合い」は見られる。自分が取るべきなのか、味方に任せるべきなのかを瞬間的に判断しなければならない。自分の領域なのか、他人の領域なのか、もっと言い換えると、自分のぐるりのことなのか、他人のぐるりのことなのか。
「お見合い」というミスは、ぐるりを巡る問題、と言えるかもしれない。
自分のぐるりはどこまでで、どこからは他人のぐるりなのか。敷地や所有物のような目で見て、触れられるモノだとわかりやすいが、役割や立場といった曖昧なモノに対しても私たちは自他の区別をつけることができる。
うさぎのふたりの息子のうち、もうすぐ2歳になる長うさぎは、すでに自分と他人の区別がついているようで、幼稚園で遊んでいるときも、別の子がおもちゃを取ろうとすると突き飛ばして防ごうとするらしい(そして噛まれる)。家族でご飯を食べているときも、長うさぎの皿に盛ったおかずを取ろうとすると「うー、うー」と唸ってくる。
複数人でひとつ屋根の下暮らしていると、様々な役割の担当が自然と決まる。お風呂掃除は誰、ゴミ出しは誰、皿洗いは誰と、きっちりと線引きするわけではないのに、暮らしているうちに収まりがよくなっていく。これも、自他のぐるりを調整し合って、ここまでは自分のぐるりで、あちらからは相手のぐるりと定めているのだろう。
驚くのは、ぐるりの取り決めは言葉を用いなくても互いに了承されることだ。妻うさぎとの同棲が始まった頃、友人から家事分担をどのように行っているのかを訊ねられたことがあるが、「なんとなく」としか答えようがなかった。別の友人と家事分担の話題になったときも、その友人は「なんとなく」決まったと答えた。
私たちは、「なんとなく」で互いの境界を定め、運用することができる。
吉野弘に『樹』と題する詩がある。人も一本の樹ではないだろうかと投げかけ、樹が枝を伸ばすように、人も自己主張という見えない枝を四方に張り出す。
身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
枝と枝とが深く交差するからだ。
それとは知らず、いらだって身をよじり
互いに傷つき折れたりもする。
吉野弘『花と木のうた』から
生きることは枝を伸ばすことであり、自分のぐるりに他人のぐるりが入り込んだり、逆に自分が他人のぐるりを侵したりするのはどうしても起こる。
互いに傷つき折れることもあれば、自分のぐるりに相手の入る余地を設けたり、枝同士を絡めながら伸ばすこともある。
人は硬く、柔らかい生き物だ。
どうしても譲れないところもあるだろうが、できるなら、他人を許し、他人に許してもらいながら、ぐるりを伸ばしていけたらいいなと思う。