書店に行けば「〇〇分で読める」や「〇〇でもわかる」といった銘打った本が並べてある。
時間のない現代人にとって「時間をかけずに読める」「読んですぐにわかる」ことは価値を測るうえで重要なファクターとなっている。
タイムパフォーマンスやコストパフォーマンスといった言葉が注目を浴びたのも、「時間がかかる」「わかりずらい」ことを悪だと見なす風潮が背景にあるのだろう。
本来、パフォーマンスと読書は相性が悪いはずだ。「時間をかけずに読める本」「読んですぐにわかる本」が必ずしも優れた本とは限らないからだ。
目の前の問題を解決するための読書ならともかく、長い目で見たときに、「人生を支える本」となるのは、むしろ、読むのに時間がかかったり、容易には理解できない本であることが多い。

ところで、読書について詩人の長田弘は「読書とは本を読むことではない」と語っている。
本は読まなくても困らないし、読んでわからなくてもかまわない。読書の原点となるのは、自分の日常のなかに、とにかく一冊の本がある、なければ置く、ということであり、ともかくそこに本があるというところから、読書という経験ははじまります。
長田弘『なつかしい時間』より
読書の価値とは、時間がかかるかかからないか、理解できるかできないかというものではなく、自分の人生の片隅に本がある、本があったという記憶であり、感覚だ。
難解な本を理解したり、月に何冊もの本を読んだりすることは重要ではない。理解できなくても、あるいはまったく読まなくても、日常のなかに本の存在がある、そのことに価値があるのだという。
そこに本があるというのは、自分の心をうつす鏡を手にすることでもある。逆に言えば、そこに本がないというのは、自分の心をうつす鏡を自分にもっていない。自分が見えない、見えていないということでもある
人は足りないものを求める。コミュニケーションの本を手にしているなら、人間関係をどうにかしたいと願っているのだし、料理の本なら、食事を通してよりよい生活を求めている。本棚に並ぶ本は、これまで求めてきた記憶の跡である。
本がないというのは自分が何を求めているのかがわからない、わかろうとしていないということ。
そういった意味で、本は自分をうつす鏡なのだろう。
パフォーマンスを気にして本を手にするのは、もしかすると、時間や心に余裕をもてていないから、手早く手軽に成果を得ようとしているのかもしれない。
どんな本を読むか、どのように読むかといった枝葉ではなく、自分はどんな本を読みたいか、これまで読んできたかといった幹に目を向ける。
そういうところから、読書を始めたい。