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決着。これから。『イクサガミ 人』の感想について

はじめに

 時代の節目で姿を消していく剣客たちの、末期の輝きを描く点取デスゲーム、第3巻。

 今回で物語に大きな区切りがついた。また、前作から描かれてきた「一つの時代の終わりと新しい時代の到来」が、さらに強調された内容だったと思う。

 ここまでの天・地もめちゃくちゃ面白かったけど、アクションに満ちた活劇や、点数をめぐる駆け引きを描いたデスゲームとして、この『人』は最高を極めている。本来は3巻で完結予定だったようだが、ある意味、本当に作品の集大成である巻といえるだろう。

 

 以下感想として、

 

・『人』で特に盛り上がった場面

 

・物語の構成として勉強になるところ

 

 …に分けて書く。 ※ ここからの内容はネタバレを含む。

 

盛り上がったところ

 身もフタもないことを言うと、『人』はずーっと面白い。ずっと盛り上がっている。

 『イクサガミ』は基本的に点取りのデスゲームだが、その底には多くの物語が同時に走っていて、章によって印象がガラリと変わる。陰謀もあるし、復讐譚もある。過ぎ去った時代への懐古・新しい時代への希望もある(この辺は『ゴールデンカムイ』によく似ている。片方が好きな人はもう一方もきっとハマるだろう)。

 そのため、どこを切り取っても違った雰囲気が楽しめる。飽きが来ない。

 ただ、あえてその中で特に印象的なパートを二つ挙げれば、

 

① 道中の宿場(島田宿)で繰り広げられる作中最大のバトルロイヤル

 

② 最終盤で激突する主人公・ 嵯峨愁二郎と宿敵・貫地谷無骨の対決

 

 …が本当に素晴らしかったと思う。

 

 島田宿でのバトルロイヤルのことから書く。

 デスゲームも佳境に入り、序盤からの弱い参加者は全員脱落、残っているのは腕に覚えのある化け物だけとなったところで、『イクサガミ』最大にして最後の大乱戦が発生する。『天』や『地』で中ボスとして出てきたような猛者が続々と現れ、おそろしいことに、殺り合ってあまりにもあっけなくどんどん敗退していく。

 この一連の戦闘のすごいところは、多対多のフェーズのあと、多対一、さらに一対一へとシームレスに、かつ主役を変えながら流れていくところである。

 最後の一対一フェーズにおいて、全国に500万人はいるとされる「ヘタレが覚醒する展開ファン」を狂喜させることになる狭山進次郎の活躍も見逃せないが、島田宿バトルロイヤルを盛り上げた最大の功労者は、なんといっても眠(ミフティ)だろう。

  眠はぽっと出のキャラである。しかし、おそろしく強い。毒を使うが、近接戦闘も得意であり、愁二郎&彩八&カムイコチャ&陸乾(こいつも島田宿で初登場だが、作中最強格)という、本作を読んできたファンならめまいがするような強力なチームを相手に一対多の戦いを展開する。

 結末を言ってしまうと主人公チームが辛勝するのだが、カムイコチャがいなければ、おそらく負けていただろう。そのぐらい眠はすごかった。仮に岡部幻刀斎や無骨など、他のtier1勢であっても、単独で眠を倒せる展開がちょっと想像できない。

 このべらぼうに強い眠は、その奇妙な名前が表すとおり特殊な出自を持つ。あとでもう少し書くが、それも含めて素晴らしいキャラクターである。

 

 次に、 最終盤での愁二郎対無骨である。蒸気機関車という新しい時代の象徴を舞台に、旧時代に過去を置き去ろうとした愁二郎と、旧時代でしか生きられなかった無骨がと激突する。

 複数の物語が同時に並走している『イクサガミ』の中で、一つの大きな因縁がここで決着する。ある意味でエンディングといってもいいぐらいの読後感があった。

 少し話が変わるけど、俺は小説は映画やアニメの「原作」じゃない、とずっと思っていて、エンターテインメントとして一番面白い媒体は小説だと思っている。

 しかし、この対決はぜひ、映像で観たいと思ってしまった。東京に向かって疾駆する汽車の上で、海原を横目に切り結ぶ二人を絶対観たいと思った(Netflix版はどこまでやる想定なんだろう?)。

 また、対決の舞台となった機関車を走らせる機関士(助士)という、当時の新しい職業に就いた人たちの細かい挿話もいい。

平左衛門が惚れたのは蒸気機関ではない。いや、それも好きではあるのだが、その時に惹かれたのは別。新橋駅を降りて来る人たちである。

行きたいところへ、逢いたい人のもとに近付いている高揚蒸気機関そのものへの興奮、どの人の顔もきらきらと輝いていた。

160形が雄叫びを上げる。野太さの中に品がある。何度聞いても惚れ惚れする声である。

 こういう部分、「昔の最新」を描けるのが、さすが歴史小説家だと思う。

 

物語の構成として勉強になるところ

 眠(ミフティ)には本当に魅せられたので、書き加える。

 やっぱり、すごく特殊なキャラクターで、バックグラウンド、物語への登場方法、そして強さが美しく調和している人物だと思う。

 眠は台湾からやってきたキャラクターである。人であるが、地元では神として扱われる信仰の対象であり、日本による台湾原住民への攻撃に抗するため、人々の願いに応じるために登場した。

 つまり、眠は賞金のためにデスゲームに参加しているわけではない。報復のため、しかも、自分の意思ではなく、別の誰かに乞われて参戦しているわけで、デスゲーム主催者の思惑を完全に逸脱した存在である。

 『イクサガミ』における時代背景は明治時代の頭で、繰り返し書いているように、古い時代の終わりと新しい時代の到来が一つのテーマになっている。

 ただ、「時代」という感覚は、とても主観的で、地理的な立場に影響されるものでもある。結局、新しい文化とか旧藩のしがらみとか、「日本」という国の中、各地域で起きている話に過ぎない。

 眠はそういう日本国内の流れにはほとんど関係なく(まったく無関係ではない。台湾現地への侵攻も日本の近代化と関連していると思うので)、『イクサガミ』という物語にきわめて特異な角度から出現した。

 『人』の最後が旧時代の残党同士の対決、決着で〆られたように、物語は日本という国の歴史へと帰っていくため、眠の居場所は残っていなかったが、ストーリーにもたらした味わい? 厚み? みたいなものは唯一無二で、すごくいいと思っている。

 

 もう一点、デスゲームとしての『イクサガミ』は、無差別な戦闘狂、いわゆる「バーサーカー」「ジョーカー」が多い作品だな、と思うわけだが(幻刀斎、無骨、天明刀弥)、あらためて考えてみると、善人もその分たくさん出ているな、と気づく。

 『イクサガミ』には、ほとんど無私で協力してくれる者、リスクがあってもリターンがあれば共闘してくれる者がたくさんいる。

 それでもご都合主義になってしまわないのは、まず危険人物が3人も徘徊していて、作中の「負、陰の雰囲気」が高まっているのが大きい。善人がたくさん出てきても、調和が取れるのである。自分もデスゲームを主催するときは参考にしたいと思う。

 

最後に。最終巻『神』の予想(展開と、誰が生き残るか)

※ ここからは最終巻時点の生き残りに関するネタバレを含む

 

 まず、新刊の案内で次のように紹介されている。

 

最終決戦、開幕。
東京は瞬く間に地獄絵図に染まった。
血と慟哭にまみれる都心の一角で双葉は京八流の仇敵、幻刀斎に出くわしてしまった。
一方の愁二郎は当代最強の剣士と相まみえることに――。

 

 ここからわかることは、

・生き残り9人が決まった時点で終了、という説もあったが、デスゲームはまだ続く

・何かの事情で参加者がちらばっている

・ 愁二郎対櫻(中村半次郎)、もしくは刀弥が発生する

…ということである。

 

 想像するに、運営によって強制的にばらばらにされ、そこからバトルロイヤルの続きが始まる、という感じではないだろうか。

 『イクサガミ』に登場する猛者はデスゲーム参加者だけではなく、運営側の最強戦力として、現在は「櫻」を名乗る人斬り・中村半次郎、柘植響陣と因縁のある「 柙」などがいる。そのあたりも含めて都内でサバイバルとなり、その過程で愁二郎対櫻が実現する…と推測する。

 なお、天明刀弥にも当代最強と表現される可能性があるが、キャラクター同士のいきさつで、愁二郎対中村半次郎の方が、話の流れとしてしっくりくると思う。

 

 ちなみに、俺のイメージする『イクサガミ』最終章時点での強さランキングは、

 

 中村半次郎天明刀弥>岡部幻刀斎>四蔵>愁二郎=ギルバート>響陣>彩八

 …という感じである(双葉、遠距離専門のカムイコチャは除く)。

 

 さて、誰が生き残るかだが、極論、双葉以外は死ぬ可能性があると思う。それに愁二郎と彩八が合流できるか、という感じ。

 幻刀斎は、唯一のDARK属性の敵キャラなので、おそらく脱落するだろう。ただ、リタイアするまでに四蔵、響陣あたりを連れて行くかもしれない。

 四蔵と響陣は相当危うい。頼りがいのある優秀な弟と関西弁の相棒という死亡フラグは相当太いと思っている。

 彩八は少し悩ましいが、島田宿での重左衛門との戦いで厄を払ったので、生き残る気がする。

 ギルバート、カムイコチャは、どちらも厳しい。善人、かつ両者とも遠いところからの来訪者であり、意地悪い見方をすれば、ドラマチックに退場させやすい。どちらも刀弥あたりにつかまるのでは、と思う。

 刀弥の行き先は読めない。悪党でも善人でもないし、誰とも因縁がないからだ。中村半次郎が仮にプレイヤーとして参戦するなら、半次郎と戦って退場するかも。

 

 俺の予想は、

・幻刀斎が四蔵、響陣を倒す

・刀弥がカムイコチャとギルバートを倒す

・半次郎が刀弥を倒す

・愁二郎が半次郎を倒す

・愁二郎が(何かしらの方法で)四蔵と彩八から奥義を継承し、幻刀斎を倒す

・愁二郎、彩、双葉が生存する

 …という具合である。

 ただ、この予想には愁二郎がどうやって半次郎を倒すんだ? という致命的な欠陥があり、たぶん外れるだろう。

 もちろん、外れていい。当たり外れに関係なく、『神』は絶対に、俺の想像をはるかに超えて面白いはずだからだ。本当に楽しみにしている。発売は2025年8月8日(明日。なんなら20分後。この記事は読み返した『人』が面白すぎて急遽書いた)。 

 

『深夜百太郎』の感想について

はじめに

 百物語の案をつくっており2050年ごろに完成する予定なのだが、このような流れもあって、『深夜百太郎』を久しぶりに読み返したくなった。小説家、アニメの脚本家である舞城王太郎による百物語だ。旧twitterにて、一夜一話連載されていた。

 基本的にはホラーなのだが、実話怪談風のものから伝奇っぽいもの、ドタバタなものまで、色々なジャンルが詰め込まれていて読んでいて楽しく、すごくよくできている(一部に受け付けないものもあるけど。これは後述)。また、舞城王太郎の作品として大変に特殊な位置付けにあるとも思っている。そこも含めて、印象的だった話の紹介を中心に、考えたことを書いておく。

 

倒れた木

 福井県の田舎で、子ども同士で遊んでいたところ、木のくぼみにあるものを見つけて…という話。

 『深夜百太郎』という本は調布(都内としては緑が多いが、開発された市街)と福井(自然が色濃く残る土地)とを交互に怪談の舞台にしており、『倒れた木』は後者側のエピソードになる。

 他の話にも出てくる重要なモチーフとして穴が登場する。悪意を持つ穴だ。登場人物が穴を見つけるが、実際は穴に見つけられている。

 『倒れた木』における穴は一種の門だ。入口であり出口。しかし、穴の本質は「欠陥」という点にある。この世界に存在する「陥穽」。世の中を論理立てられた構造として見ることで、はじめて穴が穴として、この世のロジックを損なうものとして認識できる。
 世界はこうであるべきだ、できれば良いものであるべきだ、という信念が強ければ、それに応じて穴はより暗く深くなる。そして、同時に魅力を増す。

 さて、『倒れた木』には舞城王太郎の作品としてきわめて特異な点があるので、それにも言及しておく。話になんの救いもないことだ。この話を含めて、『深夜百太郎』の怪談には、登場人物がまったく救済されず、容赦なく破壊されて終わるものがたくさん出てくる。

 実は、舞城王太郎の作品でそういうものはとても少ない。ハッピーでもビターでも、何かしらの前向きな決着を得られることがほとんどであり、舞城王太郎のファンほど『深夜百太郎』には面食らうのではないかと思う。

 ここでは普段の作風がフリになっており、だから、俺は舞城作品のファンこそ『深夜百太郎』を読むべし、と思う。きっと驚くからだ。ちなみに、従来の舞城王太郎の嫌な部分がそのまま強調されるような怪談もあって、これはシンプルに嫌いだ(後述)。


地獄の子

 『深夜百太郎』の中で最恐だと思う。言葉の意味が反転する鮮やかさ、なぜそうなのかの説明をまったくしない一方で、状況にまつわるすべてが腑に落ちる感覚が素晴らしい。


踏切

 夜。友達と散歩。ジュヴナイルのようでもあり、結末でぽーんと放り出されるのが幻想小説のようでもあり。

 また、舞城王太郎に以前から頻出するテーマに言葉の両面性というものがあり、「言葉を生きていくための標識とする」「言葉に振り回されて迷子になる」ということがよく描かれるのだが、『踏切』にもそれが出ている。

 

友達の部屋

 とても寂しくて悲しい。

 

笑う鬼

 この話を含めて、何かに取り憑かれたようにして登場人物の性格やふるまいが暴走してしまう話がよく出てくる。正直、「もういいよ…」と後半は食傷になる部分もあるんだけど、『笑う鬼』はふと我に帰る瞬間がなんとなく想像できて好き。

 元々理性を重んじるところの強い舞城王太郎作品では、時々これが行き過ぎて、モラハラ&ロジハラっぽい登場人物が出てくる。ポジティブな方向に寄っていれば、「理性に秀でた主人公が理念のために悪と戦う」となるが、嫌な方向に寄ってくると、「口喧嘩が得意でロジカルなキャラクターが、感情的で後先考えない誰かと議論して、相手の逃げ道を完全に封鎖してぺしゃんこにし、最後は『バカには構ってらんないよ』というオチ」となる。

 後者は俺の嫌いな舞城で、自身の合理性に酔って暴力と化しているところが好きではない(俺にも同じような面があるので、自己嫌悪でもある)。

 『深夜百太郎』に話を戻すと、このテイストの話がけっこう出てくる。そこは好かない。ただ、『笑う鬼』は上手いと思う。

 

あじさいの中

 セクシャルなので詳しく書けないが、いきなり奈落に落ちるように化生に取り込まれる様子がたった一文に表れていてすごい。

 

穴の蓋

 「穴」再び。オチも好き。

 

河童の地蔵

 クトゥルーもそうだが、人間以外の生き物も何かを拝んでいるのは気持ちが悪い。信仰(する能力)がどこかで俺たちのアイデンティティになっていて、それがゆらぐからだろうか?

 

夢の猿

 いわゆる「猿夢」…ではないが、結局、破滅へと向かう。

 お化けは、向こうに悪意がある場合とない場合に大別できると思うが、悪意がなくても無害とは言い切れず、そういう話な気がする。不幸にも「遭って(合って)」しまったというか。

 

横内さん

 おそらく、『深夜百太郎』のハイライト。怪談としてイレギュラーであるとともに、アンチ舞城であり、同時にまさに舞城王太郎。人間の強さをお化けが上回りつつ、人間が最後にヒューマニズムを見せるという。

 書いていて思ったけど、同じ作者の偉大な傑作である『淵の王』の翻案かもしれない。ちなみに、俺は『淵の王』の感想を書きたくてこのブログを始めた。

 

篝火

 お化けというより、地元の奇習に関連して、主人公の人となりを周りが「しょーがねえな」と苦笑いしながら見てる感じとか、生活の移り変わりとかが面白い話。

 

次の電車

 不条理や苦痛には、何か理由や今後の教訓があるべきだ、という発想をあざ笑っていて、これも舞城王太郎らしくないと言えばらしくないし、らしいと言えばらしい。素晴らしい作家というのはこういう両義性を持つのだろう(少なくとも、ファンにはそう見えるものだ)。

 

隣で寝てる人

 これも大変に舞城王太郎らしい、会話をめぐる迷宮の話。発言者とその正体がめまぐるしく入れ替わるのにすんなり理解できる文章力もすごい。

 

保留中の黒電話

 最後のオチが面白い話。
 ホラーとして考えると、電話を経由しているのが怖いんだろう。

 分解すると、

① 電話越しであることが「幽霊らしさ」を強調するから

② 幽霊=死者とは別の、「電話越しの声」というのが別種のお化けだから

 …という感じか。幽霊以外の存在もお化けとみなすと、ほとんどのものはお化けになりうることがわかる。
 また、①②の恐怖はお互いに排除しないのも大事なポイントかもしれない。これは、恐怖する(楽しむ)自分に分裂が起きることも同時に意味していて、①を楽しむ自分、②を楽しむ自分が分かれるし、その分裂もまた、「お化け」になりうるからだ。

 複数の要素を持つ怪談は読んでいる俺たちも多重にするし、その重なり、ズレが新しい「オバケ」になる。

 

掘り出し石

 なんだかよくわからないものに、他のよくわからないがからまってくるところを淡々と書いているのが良い話。

 

空き家の草取り

 言葉は呪いで、だまされずに回避したつもりでも、なんらかのかたちで呪われている。
 ギリシャ神話でオデュッセウスが、怪物から「お前は何者か」と聞かれ、「何者でもない」と答えるエピソードがある。

 化け物に素性や名前を教えてもいいことはなく、正しい判断と言える。ただ、ジョーゼフ・キャンベルという神話学者が面白いことを言っていて、「何者でもない、と答えたことが自己の喪失につながっている」…だそうだ。
 つまり、名乗ろうが名乗るまいが、別のかたちで呪われることになる。この手のやり取りで怪物を上回るのは難しい。

 

電車停車中

 あり得ない状況のあるあるとして面白い。

 有事のときに行政や警察の対応をどう書くかは作家の腕前が試される部分だと思うが、これが巧みでいいなあと思う。また、文章というメディアの情報的な制限を逆に上手く使っていて、見えそうで見えないホラーとしてもいい。

 

友達案山子

 バカバカしくて好き。舞城世界は利己的でないバカに優しい気がする。

 

迷子の守護者

 光の主人公が帰ってきて、やっぱりこれが欲しかった、と思う。作品の評価としては、家族からもシステム側からも「(それが善行であるのは理解したうえで)お前何してんの? うっとうしい」という描写がちゃんとあるのが大事な気がする。

 

花火の帰り道

 内田百閒の薄暗さが好きな人に。

 

寝ずの番

 スラップスティック。スペクタクル。旧twitterで誰か言っていたが、俺もアニメで観たい。

 

呪い

 シンプルに発想がおそろしい。

 なぜ怖いか、その理屈を言えば、「何かがそこにあるから見る」という因果をひっくり返して、「見るからそこに何かが発生する」というのが、みんななんとなく腑に落ちるから嫌なのだろう。

 

ワタシシ死

 中国の昔の怪談に、死者(いわゆる鬼)がさらに死んだ存在として聻(せき)というものが出てくる。

 中国の幽霊はあまりそれらしくなく、ふらっと家に帰ってきたり、なんなら生者との間に子どもを持ったりするいい加減なものなので、死の重みがかなり違うのだが、「死者がさらに死んだ存在」という概念はとても面白いと思う。

 人が幽霊を恐れるように、幽霊は聻を恐れるという。幽霊になれば怖いものがなくなるかというと、そんなことはなく、恐怖はどこまでも続く。きっと、聻の次もあるのだろう。想像することはどこまでも可能だ。

 話がズレるかもしれないが、俺は自分では割とヒューマニストのつもりでいるけど、人間の暗い本能にもはげしく惹かれる。ホラーを追っていて感じるのは人間の恐怖に向ける貪欲さで、俺たちという存在は恐怖に憑かれているな、と思う。

 『淵の王』にも、同じようなセリフが登場した。本来は生きるための機能である恐怖という本能をハックして、俺たちは四方八方から責め立てて快感をしぼり出そうとしている。恐怖のために躍動する想像力には限界がない。

 「そう。だから、いい加減なところでやめておけよ」というのが『淵の王』のメッセージだった。それでいて、状況を打開するための武器になったのも怪談だというのが、舞城王太郎のにくいところだ。

 いつの間にか『淵の王』になぞらえすぎたが、本来、この記事は『深夜百太郎』をほめるのが趣旨である。面白い話が多い。みんな読むとよい。

 

 

 

行ったり戻ったりについて

 虫が好きである。

 ひと夏に一回は、木の幹にとまって油断しているセミをガッとつかむことを自分に課している。ジッ。

 

 休日の朝になると、近所の神社に行って、ご神木や参道の脇に植わっている木を眺めに行く。セミが脱皮中なのでは、という期待を込めている。

 悲しいかな、実際にみたことはないのだが、透き通った茶色の抜け殻が木の肌の上に残っていて、やつらがここで殻を捨てていることはわかるので、いつか見られるかも、と思っている。

 

 夜、仕事からの帰り、路上でてのひらに乗るほどの黒っぽいものがうぞうぞやっているので、あらためてみたらカブトムシのメスだった。車に轢かれるのも気の毒なのでつまみあげると抵抗される。ギィ。

 カブトムシの匂いというものがあり、持ち上げるとそれが夕闇の中に強くたつ。指先でもごもご暴れるのをおさえながら、近くの木の上につかまらせる。

 

 母親と世間話をしているときに、このカブトムシのことを思い出し、昔カブトムシを育てるキットを買ってもらったことの話をした。今でもあるのか知らないが、卵だったか幼虫だったかが腐葉土に詰めて郵送されてきて、それを育てることができたのである。

 で、母親が、「実はあのデカい幼虫が怖かった」というので驚いた。まあ、虫を嫌がる人は多いが、母は割と生き物全般が好きで、昆虫もそれほど、嫌がるそぶりを見せたことがないからである。

 母親が続けるには、俺が虫を嫌がるようになるといけないので、表に出さないようにしていたという。話を振ってみないとわからないことというのが、何十年も親子をやっていても出てくるものだ。

 

 母の忍耐のおかげか、俺は虫を嫌わない人間になった。なんでも損得ではないが、虫に関しては嫌わない方が愉快なことは増えるのでいいことである。

 ただ、他人の心の機微とかはよくわからないし、世間のこともよくわからない人間になった。これは虫が好きなことと関係があるのか? その辺の天秤がどうなっているのかは知らない。

 

 繰り返し書くが、虫に関しては好きでいた方が愉快なことが多いので、母親に感謝している。俺もなるべく、特に嫌う必要がなく、好きでいた方が世の中広がるな、と思うものについては子どもの前で批判しないでおこう、と思う。(俺がそれを嫌いだとしても)。

 虫の見えがかりが生理的に根本的に受け付けないという人もいるだろうから、それはしかたがない話で、嫌なものを嫌だと表出するのも無理なかったり、むしろそれが求められる状況もある。物事によっては嫌だと言わないとよくならないこともあるので難しい。

 いろいろなことが、行ったり戻ったりするのだろう。とりあえず虫に関しては好きな人が増えるといいし、好きだと言うのが別に恥ずかしいことでなければいい。

今日、脳から捨てたものについて ⑱

はじめに

 主旨はこちら。

sanjou.hatenablog.jp

以下、捨てたもの

タニシ長者

 心理戦、伏線、どんでん返しを多量摂取した結果、日本昔ばなしの世界に帰ってくる。

 

ヲロカピー

 情緒破壊蛇の名前(を呼ぶ友人のセリフ)。

 

ちょっと前すいませんをやりすぎてイワシになった人

 実際に見るとそんなに面白くない。

 

なんでこの家の人はみんなうまいこと言おうとするの?

 元ネタは『ギャグマンガ日和』。

 

ベジータがナメック星で付けとったやつやん

 空気階段のもぐらが付けていたCPAPを見て千鳥が言ったセリフ。

 

バナナは本当に美味い

 兄弟が夢で言った言葉というテーマに対する投稿(『さまぁ〜ずの逆にアレだろ』)。

 俺も食うたびに美味いなこれ、と思う。

 

死んだことないからわかりませんね

 俺はよく嫌なことを故意に言うが、天然で嫌なことを言うことも多々あるので、およそ言うことの8割ぐらいは嫌なことだと思う。

 

出てくるやつ出てくるやつスター選手

 『相席食堂』の競艇場で次から次にキャラクターの濃い素人のおっさんが出てきたときの千鳥のセリフ。漫画で例えるなら『キングダム』らしい。

 

浜岡賢次

 俺が小学生の頃から描いてて、絵も上手くなってるしお約束なのに面白いし、本当にすごいと思う。

 最近はドクター紅葉のパロディキャラがじいさんの入れ歯をチタンに替えたあと骨延長しようとしていて笑ってしまった。

 

こわいんすよね…

 バナナマンの日村に対してバイきんぐの小峠が発したセリフ。

 ここまでは日村の奇行にマジメにつっこんでいたが、

 「ロケ時間をマネージャーに何度もメールで聞いてきて、何回返信しても同じことを繰り返し確認してきて、最後には電話で聞いてくる」

 「後輩に車の運転を頼んだところ、理由があって断られてしまったのち、同じ後輩に電話をかけてきて車の運転をまた頼んでくる。『冗談か?』と思った後輩が、いやいや、日村さん…と笑いで流そうとしたら本気でキレだす」

 …などマジに意味不明な言動が紹介され始めて引いてしまったときのセリフ。

 

OK。生きて帰れ

 ダーケストダンジョンのwikiで、探索前の準備を紹介したページの締めくくりに書かれている言葉。

 このゲームはダンジョンに潜る前に確認するべき項目がやたらと多く、しっかり確認したところで無事に生還できるとは限らないため、内容をうまく表した言葉と言える。

 余談だが、俺は仕事で使った経費の精算がおそろしく苦手としている。内容をチェックし、他の担当者の承認を通過させる社内のシステムに経費をあげるとき、よくこの言葉を思い浮かべる(基本的には却下されて返ってくる)。

 

 以上

小説のエネルギーを見せつけられる『爆弾』の感想について

はじめに

 猛烈に面白かった。

 

 結末まで含めた感想は後半で書く。前半は未読の方に向けて、内容を明らかにしない範囲で、頑張って薦めたり紹介したりしておく。

 

 2024.7.29現在、Amazonでの『爆弾』の評価は4.1である。

 俺は、可能なら☆7.0つけてもいいと思う。5.0が100点満点だと理解した上で、そのぐらい規格を外れて猛烈に面白かったということである。

 感覚的に、これほどまで面白い、いわゆるリーダビリティの高い小説は、20作品に1つあるかないかで、『爆弾』はそういうレベルである。2023〜2024に発刊されたミステリーやサスペンスを何作か読んだが、その中で完全にぶっちぎっている。

 

 大まかなあらすじは出版社による案内を見てもらうとして、作品の系統や雰囲気としては、映画の『セブン』に近い。

 得体の知れない怪人に頭脳戦を挑まれ、警察署内で相手と直接会話し、善悪の決断を迫られるという点では『ダークナイトバットマン)』の構造にも近いが、実際の印象はあまり似ていない。『ダークナイト』のジョーカーがスタイリッシュ過ぎ、これに対峙するバットマンの価値観がストイックすぎるからかもしれない。

 『ダークナイト』においては、正義マニアで孤高のヒーローであるバットマンもある意味で異常者であると示されている。この映画で描かれているのは、一つの失点も許されない無欠の英雄の戦いである。

 一方、『爆弾』で犯人と対峙する刑事たちは、別に無欠の正義を自認しているわけではない。道徳観も徹底されていない、プロの職責と私生活の狭間でうろうろする一般人である。

 ただ、今作のヴィランであるスズキは、その不徹底さ、あいまいさを見逃さないだろうな、と思う。むしろ、強く責めるかもしれない。

 なぜなら、あいまいさは弱さではなく、ある種の強(したた)かさでもあるからである。

 「私たちの道徳は完全なものではありません」。

 最初に、自分たちの方から言ってしまうことで、その根拠をくわしく追求したり、不完全さを責めることを、何か野蛮で無礼な行いのようにしてしまう。道徳としてあいまいであるがゆえに、(利用しないことも含めて)自由自在に使い分けられ、同時に、これに沿わないイレギュラーを好きに排除できる。お前の正義はなんなんだ? と問われれば、「私は不完全なので」と答えてのらりくらりとしている。

 『ダークナイト』における緊張感が、完璧な正義であろうとするバットマンの苦悩に由来するなら、『爆弾』の場合は、普通の人間が上手に使っている、お互いが「普通」であることを確認する際の目配せのような、不透明な道徳に照準があっている。

 というわけで、単なる一般人である正義の味方が怪人と向き合う『爆弾』の構図は、『バットマン』よりは『セブン』に近い。全編にわたって漂う生理的な不快感も似ている。人によってはおすすめできない理由はこの点で、『爆弾』では基本的に不愉快なことしか起きない。嫌な感じにセクシャルな描写も多いので、嫌いな人は避けた方がいい。

 

 「野球は、何時から?」

 二時ですとスズキは即答した。チューハイは何本だっけ? 三本です。試合が終わったのは――。 五時です。

 (中略)
 「通報は八時過ぎだ。 試合が終わってから三時間は経ってる」
 スズキはにこにこしている。人畜無害な大黒さまのように。
 「あんた、なんのつもりだ?」
 「刑事さん」
 ドアが開く。荒々しい風が吹き込み、同時に伊勢が飛んでくる。 血相を変え、等々力の耳もとに叫ぶいきおいでささやいた。
 秋葉原で爆発です。詳細は不明。
 スズキがいった。変わらない笑みのまま、
 「あなたのことが気に入りました。 あなた以外とは何も話したくありません。そしてわたしの霊感じゃあここから三度、次は一時間後に爆発します」

 

 このくだりが、物語の最序盤で俺をノックアウトした。

 スズキタゴサクの相手をしているのは、刑事組の中で、中心人物の一人となる等々力(とどろき)である。冒頭から、仕事にあまりやる気がなく後輩にも慕われていないことがうかがえる等々力だが、ささいな直感からスズキの異常さを認識する。

 スズキの発言に潜んだ時間の経過に関する不審点について、等々力がするどい質問を発するのを見て、読者は「おっ」と思う。こいつは、単なるぐうたらじゃないな、と思う。

 それまでゆるんでいた等々力がギアを上げる瞬間については、特に細かく描写されない。へらへらした怪人に向き合っていただらしない刑事が、いきなり切れ味を増してみせる。これがいい。

 そして、それに対するスズキタゴサクの反応が、さらにしびれる。スズキも即座に、等々力の本質を理解して見せ、今後の自分の相手として等々力を指名するからだ。

 素晴らしい応酬である。すごくて笑ってしまった。そして、このテンションのまま最後まで行ったら、すごい作品になるだろうな、と思った。

 実際、最後まで、このまま行くのである。だから『爆弾』はすごい作品なのである。小説というメディアのすさまじいエネルギーを感じられる作品である。

 ネタバレなしの感想はここまでにする。みんな読んでほしい。

 

対スズキの「継投」

 以下は、作品の具体的な内容も紹介しつつ、『爆弾』という小説の魅力についてあらためて分析してみる。

 未読で、今作に興味がある人は、読んでからお会いしましょう。

 

 

 警察の取調室における対スズキタゴサクは、野球でいえば継投である。最初が等々力、次が清宮、最後に類家(るいけ)という三人の刑事が、順番にスズキと相対して、この怪人の正体と狙いを探り、都内に仕掛けられた爆弾を無力化しようとする。

 

 読んでいて同じ感想だった人も多いと思うが、スズキの相手となる刑事たちが、価値観の異なるキャラクター同士、うまくばらけていると思う。

 卓越した直感を持ちながら、過去の出来事が原因で自分にとっての正義が定まらず、仕事に身が入らない等々力。

 強い職業倫理と高い知性、自制心を持ち、怪人相手にも礼節を守る清宮(『爆弾』という作品において、いわゆる正義の味方がいるとしたら、彼である)。

 清宮でさえ舌を巻く驚異的な頭脳の回転を誇る一方、道徳観には疑問があり、場面によってはスズキの同族にも見える類家。

 彼らが何のために刑事をしており、何が誇りで、強さで、それと裏返しの弱点はどこにあって…というのが見事にバラついている。

 彼らは基本的にスズキにやりこめられてしまうのだが、それぞれ苦渋の舐めさせられ方が違うし、プライドを守る最後の一線やスズキへの一矢報い方に、各々のキャラクターが表れていて、読んでいて飽きない。

 また、刑事たちの違いを魅力的に演出するうえで、ある要素が大きな役割を果たしていると思う。それは、怪人・スズキタゴサクが見せる、それぞれの刑事たちへの向き合い方である。

 スズキは、一貫して人を食った態度で取り調べに応じているだけに見えて、刑事によって態度を使い分けているように感じられる。

 等々力に見せた「無邪気」な面、刑事の理想を象徴するような人物である清宮を原始的な憎しみに突き落としてやろうとする面、退屈な仕事で才気を飼い殺しているような類家に理解を示す面。怪人が見せる使い分けは、スズキタゴサクというキャラクターの本質を考える上で大切だと思うので、次で詳しく書く。

 

怪人の強みと弱み

 なぜ、この社会は不平等なのか。

 なぜ、他人に親切にしなくてはいけないのか。

 なぜ、正しい人間が多数であるはずの世界に、理由のない暴力が渦巻いているのか。

 そして、なぜ、本当はみんな社会を良くすることを諦めているし、他人なんてどうでもいいと思っているのに、そうではないフリを続けているのか。

 

 スズキタゴサクはこうした質問を刑事たちに投げかける。

 ただ、俺はこれが、スズキと刑事たちとの倫理をめぐる質問と会話とは思わない。これは単純な対峙ではなく、もう少し屈折した構造だと思う。

 それは、おそらく、スズキタゴサクにとって、自分が投げかけた質問への回答などどうでもいいからである。

 スズキは、正義と秩序の側にいる刑事たちにとって挑発として有効だから、こういう質問を投げているだけである。相手が冷静さを一瞬失ってくれればいいのであって、返ってくる回答に興味などない。

 

 いくつかの書評で既出の表現だが、スズキタゴサクの本質は鏡であると思う。清宮が徐々に追い詰められ、類家が均衡の上を危うくわたっている、自身の憎悪や欲望のままに行動したいという、ネガティブな感情。スズキは挑発的な発言を繰り返すことで、相手を自分の醜い部分に向き合わせ、自壊させようとしている。これは対話ではない。スズキ自身も興味のない質問を投げかける、向き合う相手によって変化する、一方的な攻撃である。

 

 鏡に映った像を破壊することはできない。『爆弾』という物語は、刑事たちとスズキタゴサクの対決である一方、実はスズキ本人はほぼ、鏡の裏に隠れたまま、勝負の場に上がっていない。

 刑事たちはスズキに敗れるというより、混乱で自滅しているのである。怪人の強みと本質はここにある。そして同時に、弱みもまた、ここにあると思う。

 

 なぜ、これが怪人の弱点なのか。それは、本来ならば警察にとってクリティカルな問であるはずの、「お前たちは、道徳ががらんどうの単なるファッションになってしまった今の社会を、どうとらえているんだ? お前たちは何をやっているんだ?」という質問の切実さを、スズキ自らが損なっているからである。

 スズキタゴサクは、鏡という戦法によって、自分の質問にはまともに取り合う必要はない、というメッセージを発してしまっている(なぜなら、スズキ自身、回答に興味がなく、鏡の裏から出てこないから)。

 これによって、警察の側に余地というか、ある種の逃げ場が生まれる。それは、スズキの問いに完全には答えられなくても、自分たちは誇りをもってこの仕事を続けていくんだ、という点で議論を決着させる余地である。スズキの戦法は凶悪な一方で、社会のいびつさやどうにもならない不条理をめぐる厳しい問いを、刑事たちの心の問題にスライドさせることを許しているのである。

 

 物語の終盤で等々力は、スズキに翻弄されながらも、人間の抱える歪みと正義との間で立ち往生していた過去に一つの決着をつける。

 清宮は、スズキに敗れて退場したのち、自分のあとを継いだ類家の戦いを支援するため、組織の規律を逸脱する決断をする。

 類家は、自分がスズキの同族であることを認めつつ、社会への希望を口にする。

 皮肉でなく、素晴らしい場面である。「砂糖まみれ」と類家が自嘲しても、読んでいて気持ちが熱くなる。

 しかし、同時にこうも言えるはずだ。刑事たちが、挫折からどれだけ美しく立ち上がっても、それが現実の問題にとってはなんだというのか? 道徳が単なるコミュニケーションツールと化し、ルールに沿わないものを排除するシステムとなっている問題、どうにもならない社会の不平等に関する問題は、こんなことでは、一つも解決されていない。

 例えば、スズキタゴサクが本当の思想犯であり、テロリストだったらどうだろうか。本気で、生身で血肉の通った言葉で、社会の欺瞞を告発し、正面から勝負を挑んできたなら、刑事たちが敗北からどのように奮起したところで、読者に与える印象はかなり違ってくるだろう。本質的な問題を棚上げした、自己満足という部分が鮮明になりすぎてしまうと思うのである(ちなみに、まったくの余談だが、俺は現実のテロルを、それが及ぼした影響も含めて絶対に肯定しない)。

 

 しかし、『爆弾』のスズキタゴサクに、刑事たちの決意や宣言を欺瞞だと批判する権利はない。まともに会話を交わすことを最初から放棄しているのは、スズキの方だからである。スズキは鏡という戦法によって無傷で相手を自滅させる代わりに、勝敗の基準が警察の心の中に移っていくことを認めた。これが、スズキタゴサクの弱みである。

 

 なお、『爆弾』が直木賞にノミネートされた際、俺の好きなある作家は、審査員として本作をかなり厳しく評した。

 もしかするとその作家は、『爆弾』が犯人と警察との倫理をめぐる物語のようでいて、実際は少し屈折した構造をしている点を嫌ったのかもしれない。正義に関する正面衝突は存在せず、それゆえに、警察の方に、「それでも、自分たちは誇りをもって秩序を守り、人間を信じるのだ」という甘い感傷に逃れる余地を与えた点を、あの作家はとがめたのかも、と思わなくはない。

 

『爆弾』の巧みさを「勝ち点」から考えてみる

 仮に、刑事たちの見せる誇りや決意が、スズキタゴサクが鏡という戦法をとったがゆえのおこぼれのようなもの、自己満足であっても、『爆弾』というエンターテインメントの価値は損なわれない。むしろ、この作品の面白さ、読んでいて得られる快感は、この点によって支えられていると思う。

 

 例えば、スズキタゴサクと警察の攻防を、都内に仕掛けられた爆弾を計画通り爆発させたらスズキに1点、解除して防げたら警察に1点というゲームとして考えてみる。

 最後まで読むと、警察はこのゲームでほとんど点数を取れずに、スズキタゴサクにいいように点を決められ続けていることがわかる。等々力の閃きや、類家の知能によって、いい場面を作ってはいるものの、基本的にはスズキの圧勝なのである。

 ただ読者としては、怪人にいいようにされてばかりだと、娯楽として少し厳しい。互角、せめて、いくらかは食い下がってほしい…のだが、爆弾は爆発し続けてしまう(メタ的に言うと、爆発が続かないと物語も続かないんだけど)。そのとき、窮地の刑事たちが見せる信念や、覚悟が重要な役目を担っているのである。

 実際のところ、『爆弾』では二つのゲームが並走する構造になっていると思う。表面的には、爆弾を起爆させるか、停止させるか。その裏では、スズキタゴサクが誘惑してくる悪意に飲まれてプライドを破壊されるか、踏みとどまるか。

 爆発をめぐるゲームではスズキの完勝である。そして、悪意とプライドのゲームでも怪人はかなり優位に勝負を進め、実際に清宮に対しては陥落寸前まで追い詰めている。

 しかし、スズキ自身が選んだ鏡という戦略ゆえに、二つ目のゲームに関しては、勝敗の基準が刑事たちの主観にゆだねられることになった。極端な話、警察が「負けてない」と胸を張れば警察の勝ち、スズキタゴサクには疑義をはさむ余地がない。

 そして、怪人はいくらか点を取り返された。刑事たちは、爆発は防げなくても、心までは完全にへし折られなかった。

 こう書くと爆発自体は止められなかったことを馬鹿にしているみたいだが、だからこそ『爆弾』は面白いのだ。二つのゲームの総合得点で、スズキタゴサクと警察の対決は勝負として拮抗しているし、それがエンターテインメントとして素晴らしい体験を読者に与えることなっている、と思うのである。

 

 スズキタゴサクも、警察との勝敗を、爆弾を想定通りに起爆できるかだけでは計っていなかったと思われる。この邪悪な怪人に「人がいい」部分があるとしたら、この点ではないだろうか、と思う。

 スズキは、勝負を爆発と殺傷だけに限定していれば、ほぼ完勝で、勝ち誇ることができた。しかしスズキタゴサクは、おそらく、悪意による支配とプライドを賭けた二つ目のゲームに、かなり高い配点を設定していた。

 物語の最後に語られる「今回は引き分けです」は、そういう意味だと思う。爆発をめぐる攻防で等々力、清宮、類家をほとんど完封した怪人は、最後の最後で、鏡の防御を類家に突き崩され、等々力を取り込むことにも失敗した。

 それが何か? 爆弾は、ほぼ計画通りに作動し、多くの死傷者が出た。平和を守るための組織としての警察の威信はずたずたである。

 それでも、爆弾が爆発するかどうかとは別の勝負に、多くの得点を設定したのはスズキ自身である。そして、警察はギリギリのところで、爆発を防げるかどうかとは別の勝負で得点を拾ったのである。

 この構造、そして、この怪人の弱みのゆえに、勝負は最終的に「引き分け」だった。そして、それがゆえに、『爆弾』はどれだけ爆発を止められなくても(警察の自己満足みたいな部分があっても)、スリリングな接戦であり続け、娯楽として超がいくらでもつく一級品として成立したのだと思う。

 

さいごに

 小説というメディアの強烈な力を、あらためて楽しめる作品だった。

 俺は漫画も映画も好きだけど、やっぱり小説が好きなんだ、バチバチ緊張感のあるシーンや会話を、文字だけを情報として浴びながら楽しむのが好きなんだ、と再確認したし、そんな大げさな話にならなくても、とにかく、もっと多くの人に読んでほしい作品である(ただし、注意点は冒頭参照)。

 

 

 作品に登場する三人の刑事、等々力、清宮、類家というキャラクターを立ち位置で使い分ける書き方は、作品の構造として完璧だったため、続編があったら読みたいな、と思いつつ、蛇足になるかもな、という危惧もあったのだが…。

 

 来る。

 

 

 もちろん、読む。

 ここまでの感想で書いたとおり、第1作はとても、キャラクターの設定や、爆発続きの事件をいかに拮抗したものに見せるかなど、「構造」を意識したつくりになっていると思う。第2作がこの構造をどう壊すのか、もしくはどう利用するのか、楽しみである。

最近、好きなホラー漫画3つについて(『オカルトジャーニー【閲覧注意】』『ニクバミホネギシミ』(『裏バイト:逃亡禁止』))

はじめに

 『オカルトジャーニー』と『ニクバミホネギシミ』が面白い。『裏バイト』は言わずもがな。

 それぞれ、ホラーとしての見所が少しずつ違うのも興味深くて、他の作品との比較もしつつ、整理してみようと思った。

 

『オカルトジャーニー【閲覧注意】』

 駒魔子作。ヤングジャンプ派生のwebメディアである、となりのヤングジャンプで連載。

 借金暮らしでぐうたらな干物女・杉山ノリコが、借金先である反社の浅井と組んでオカルトテーマの動画配信に挑み、バズって広告収入&借金返済を目指す、というバディストーリー。

 

 いきなり脱線するが、あらためてかんがえてみると、『オカルトジャーニー』に限らず、『ニクバミホネギシミ』も『裏バイト』もバディものである。

 コンビがホラーに挑むという物語の利点を考えると、まず、危機的状況を描きやすい、というのがある。一方がピンチでも、もう一方が助けに来てくれるので。

 単独で怪異に向き合う場合、ピンチから脱出する方法を考えるのが大変であり、その点、バディは便利である。

 あと、ホラー作品における演出の基本が、「安心」から「恐怖」の落差だと考えると、コンビの方がやりやすいと思う。

 例えば、コンビで漫才みたいなかけ合いをしている場面で、背後から化け物がヌッ、みたいな展開を考えるとわかりやすい。一人で化け物と向き合うより、平穏と異常の振れ幅をつくりやすくなるという点でも、バディはホラーと相性がいいんだと思う。

 

 閑話休題。『オカルトジャーニー』の話に戻る。

 ホラーの主役はある意味で人間ではなく化け物であり、オバケのクオリティで作品の評価が決まるとも言えるが、『オカルトジャーニー』のオバケは、『ニクバミホネギシミ』や『裏バイト』とは違う意味で独特である。なんというか、「薄っぺらい」のである。良い意味で。

 1巻で登場した風俗店の怪異とか土俗信仰みたいなやつには、まだ化け物としての因縁らしきものがあったが、人探しの怪文書はかなり正体不明だったし、これが2巻に入ってさらにペラくなっていく(しつこいけど、良い意味で)。

 中でも「テキサス宮」の薄っぺらさは出色である。これは神社の模型にカウボーイハットが引っかかっているというものであり、供え物をすると、相手に呪いをかけることができるという、負のパワースポットである。

 神道アメリカファッション?の組み合わせも奇妙なら、名前の投げやり感も相当おかしい。そして、主人公たちが調べたところ、神社とカウボーイハットには、そもそも何の関係もなく、大学の企画でつくって捨てられたミニチュアの社に、誰かが後から帽子をかぶせ、さらに供え物までされるようになった、ということがわかる。

 つまり、成り立ちの一つ一つがまったくかみ合っていない。それでいて、実際に強烈に祟るのである。

 え、何それ? という真相だ。ここで、「まあ、都市伝説とか呪いとか、実際はそういうもんだろう」とうなずくこともできるけど、とにかく、他のホラー作品で重厚な因縁や世界の深層が扱われているのに対して、この薄っぺらさがものすごく印象的だった。

 

 オバケのビジュアルも具合が絶妙で、ホラーとしての格式とか奥行きみたいなものがあんまりなく、キッチュというか、アートで言ったらウォーホルみたいな、考察する前に半笑いになっちゃう感じというか。でも、ちゃんと不気味で怖いんである。

 

 2巻の終盤では、このジャンルではお約束の強強除霊師が登場。その正体には裏があるが、実力は本物である。

 ゆがんだ見方かもしれないが、ホラーというジャンルにおいて、有能なプロフェッショナルの最大の見せ場は、オバケに無惨に敗北するときだと思っている。

 もちろん、必ずしも負けなくてもいいのだが、『オカルトジャーニー』にもいつか、そういう展開が来るだろうか? と思って楽しみにしている。

 

 

『ニクバミホネギシミ』

 パレゴリック作。新潮社運営のwebメディアである、くらげバンチで連載。

 いま気づいたけど、となりのヤングジャンプも、くらげバンチも、『裏バイト』の裏サンデーも、全部webなのだな。

 オカルトライターである犬吠埼しおいと、犬吠埼の取材に協力するカメラマンであり霊媒体質の浅間博鷹によるバディもの…なのだが、主人公の一人である犬吠埼は作品冒頭で壮絶な死に姿を見せており、物語は彼女が存命中の出来事を回想するという形式で進められる。

 

 ホラーとしてはいわゆる純和風な作風で、じっとりとした雰囲気、土着信仰、因習、異形、虫…といったテーマの作品。

 この漫画はオバケのビジュアルがとにかく強烈である。変形した人体や虫が苦手な人だと本当にショックを受けるレベルで恐ろしい。

 あと、先に書いた『オカルトジャーニー』の怪異がいい感じに薄っぺらいのに比べると、『ニクバミホネギシミ』のオバケは行動原理がまだ理解できるのも特徴的。ただ、あくまで化け物なので、せいぜい「何をしたいか」がわかる程度だが、これはこれでいいアンバイだと思う。

 

 あと、うまく説明できないのだが、バトル系の少年漫画っぽい演出の巧みさを感じる作品である。

 例えば、呪われた鏡をめぐる章で、犬吠埼が三面鏡をのぞき込む、という場面がある。

 一つのページが四段のコマに区切られていて、三面鏡に映っているものがコマを移るごとに少しずつ変化していく。

 一段目のコマ、二段目のコマまでは、下を向いた犬吠埼の頭部がそのまま映っているだが、三段目で犬吠埼自身はまだ下を向いているのに、鏡の中の犬吠埼は顔を上げており、さらに四段目では…という演出がされる。なぜかここに、バトルものの雰囲気を感じた。

 あと、別の章で登場した不気味な観音像を見て、カメラマンの浅間が持ち前の霊感ゆえに「(観音の)裏に何かあるのか」と尋ねてしまったのに対し、観音を見せた人物が「(思わぬ獲物を見つけた、という感じで)なぜ、そうお思いに?」と不気味に笑う場面とかにも、少年漫画っぽいテクニックを感じる。

 ぎっちり詰まった背景も、質感のある細部も、見ていて飽きない。こちらも追いかけていきたい(ただ、刊行がそんなに早くないのである)。

 

 

『裏バイト:逃亡禁止』

 言わずもがなというか、モダンホラー漫画の大傑作である。

 裏バイトと呼ばれる、オバケに殺される危険があるため、極めて高額な給料が支払われる仕事に、フリーターで行動力に優れる白浜和美と、同じくフリーターで危険感知の特殊能力を持つ黒嶺ユメのコンビが挑む、というあらすじ。

 

 登場する怪異は地縛霊のようなオーソドックスなものから、国を一つ滅ぼすアイテムだったり、歴史を根底からロールバックしてしまう "調整者" だったりと幅が広く、場合によっては異様に殺意が高い(例:呼びかけにリアクションしただけで死亡、など)。

 オバケのバリエーションだけでなく、読者の裏をかくような凝った構成も特徴的である。一件落着…と思いきや全然解決してなかったり、ホラーと思いきやコメディだったり、見ていたものがすべて幻覚だったり…と、ミステリやSFのような魅力も持つ。

 

 最近の『裏バイト』に関しては、批判を多く書きたいと思っている。たぶん、「軍手落とし」あたりから、前ほどのめりこめなくなってしまった。

 先に書いたとおり、ストーリーの構成がかなり凝っているため、恐がる以前に、何が起きたのかを理解するのが大変になってしまった。また、こうした複雑さとも関連すると思うが、一番冷めてきた理由は「あれ、バイト代は結局、何に対して払われてるんだっけ?」というのが、いよいよ、わからなくなったからだと思う。

 

 俺は以前こういう記事を書いていて、何を求められて労働の対価が払われているか、いまいちクリアじゃなかった本作において、初の黒岩案件となるこの章はとてもクリアで、それが素晴らしいと思った。

 怪異そのものの打開は前提条件でしかなく、給与と引き換えに求められるのは、現実的な労働やストレスである、という点も斬新でよかった。同じような理由で、その後に出てきた「仲買人」の章も、労働のクソさが表れていて好きである。

 ただ、他のエピソードでは、ホラーのインパクトや謎解きの比重が高く、その辺にちょっとずつ、ズレが溜まっていったような気がする。

 もちろん面白いし、ダメじゃないけど、じゃあ仕事っていうより、お金がもらえるデスゲームとして読むってことでいいのか? っていう(そもそも、そういう要素があることを否定しないけど)。

 

 直近のエピソードである花屋スタッフで、いよいよ物語全体が終盤に入った気配がある。

 花屋スタッフの本編は、やっぱり「何に対して払われた給与?」というのがいまいちわかりにくい。でも、エンディングでの、コメディを加えたエモい場面を前フリにして、一気に絶望感に変換する展開は強烈で、本当にすごいと思う。

 

 前から何度か書いているが、俺はユメちゃんは正直怪しいと思っていて、最後に何もかも暗転するような、すごい喪失と絶望がやってきても、この漫画なら全然おかしくない。

 だからこそ、完全なハッピーエンドにするのも、この漫画しかできないと思う。色々文句は書いたけど、終わるのはやっぱり惜しいし、それでも楽しみだ。

 

 

 いま思い出したけど、『ゆうやけトリップ』もバディものだなあ。ストーリーもいいけど、主役は背景でもある。高低差マニア? はぜひ。

 

 

バトルタワーのライコウと、スカーレット・バイオレットDLC『藍の円盤』に寄せることについて

 ポケットモンスタールビー・サファイアに登場する施設に、バトルタワーというものがある。

 ポケモンというゲームは基本的に、レベルさえ上げれば割と力押しでエンディングまで行けてしまう。ただ、対戦におけるエンドコンテンツ的な要素が強いバトルタワーでは話が別で、技の構成やポケモン同士の相性・役割の補完など、かなりシビアに考えないと先に進むことができない(厳密には、対CPUでほぼ100%勝つための構成と、対人の構成もまた別だが)。

 例えば、ストーリー本編で愛用し、無双してきたポケモンだとしても、タワーでは行程の30〜40%ぐらいで超えられない壁にぶつかって永遠に跳ね返されるつくりになっている。ここから攻略を続ける場合、イチから何体も対戦専用のポケモンを育て直すことになり、大変に面倒だ…なのだが、一方でポケットモンスターというゲームは、ある意味で「ここから」でもあるのだった。

 

 20年近く前、まだ高校生だった頃、このバトルタワーに関する印象的な記憶がある。

 タワー攻略は35連勝が最初の大きな区切りであり、配置されたボスキャラクターを倒すと、次は70連勝、それから100連勝の記念品、最後はどこまで連勝を伸ばせるか、という話になる。その間、CPUが敵として使うポケモンはどんどん強く、えげつなくなっていき、中には運ゲー上等ではじめからこちらとまともに勝負する気なんてないような、製作者の悪意が凝縮されたようなポケモンも登場する。それをかいくぐり、タワーを上に、上に登っていく。

 おそらく、連勝数が60~70を超えたあたりだったような気がするが、CPUが出してきたポケモンを見て、思わず「えっ」と声が出た。相手がライコウを出してきたからである。

 当時、自宅にインターネット環境がなかったため、紙の攻略本と手探りでここまでやってきた俺は、まさかライコウが出てくるとは思わず、GBAを手に少し固まってしまった。

 

 ライコウというのはルビー・サファイアのひと世代前、金銀に登場する伝説のポケモンである。ゲーム中には一匹しか出現しない=一匹しか捕まえられない、特殊な立ち位置のポケモンで、ゲーム内の敵キャラクターが使用することもない。

 言い換えると、ポケットモンスターのゲーム世界において、ライコウのようなポジションのポケモンを使うのは、主人公であるプレイヤーだけである。その原則の外に出るには、自分以外のプレイヤーと通信する=文字通り世界の境界を超える必要がある。

 

 「おお、タワーをここまで登ってくると、敵がライコウを出してくるのか…」

 実際、制作側からすれば、単にステージの難易度を上げて敵のパターンにバリエーションを持たせるための方策に過ぎないだろう。ただ、妙な興奮があった。

 

 あれから長い年月が過ぎ、当時の高ぶりを考えてみると、どうやらいくつかの感情に分解できるように思える。

 

 一つには、大げさに言えば、ポケットモンスターというゲーム世界を覆うテクスチャーを破って、はぎとってやった、という、どこかうす暗いものがあったと思う。

 ポケットモンスターというゲームは、奇しくも初代の赤緑から、特定の手順でコマンドを入れることで、(絶妙にプレイ続行の余地を残しつつ、)バグを意図的に呼び込めるという、当時の子供にとって、自分の手で一つの世界を破壊する原体験になるような作品だった。

 もちろん、俺がタワーで出会ったライコウは正規の仕様なわけで、本質的にバグとは違う。

 ただ、本来なら主人公=自分以外は連れていないはずのライコウを、なぜかNPCがしれっと使役しているという風景に、整然としたゲーム世界の破れ目をのぞいた感覚が、赤緑のときと同じく一瞬よみがえった気がした。

 

 もう一つあったのは、上で書いた世界がほつれる感覚とは反対に、物語があたらしく再構成される感覚だったような気がする。

 ポケットモンスターの本編における大きな目的の一つは、最終盤にあるポケモンリーグというボスラッシュで連勝し、最後にラスボスであるチャンピオンを倒して、自分が新しいチャンピオンになることである。

 この苦難と感動の行程は、しかし、そのあとに始まる対戦用ポケモンのレベル上げという段階に入ると急激に色あせてしまい、ポケモンリーグのボスたちを含め、旅の中で出会ってきた強敵たちは、最終的には経験値とお金を供給するための作業の一部になってしまうのだった。

 ゲーム本編のクリア後、他のどのNPCも持っていないような、強力で変態的な構成のポケモンを連れて、ボスキャラクターが発するセリフをAボタンでポチポチ処理しながらレベルを上げるというのは、当時はなかなか孤独な作業だった(いまなら、SNSとか動画配信とか、いくらでも並行してできることがある…)。‘

 そういう無機質になったゲーム世界において、バトルタワーに唐突に現れたライコウは、例えるなら「ポケモンリーグをとっくに突破したキャラクターたちが実は世界に大勢いて、そいつらは下界には目もくれず、延々とこのユートピアで勝負に狂っている」的な、マンガの新章のような新しい物語を錯覚させた。もちろんそれも、いつかは色あせ、敵が繰り出すライコウも他の伝説のポケモンも、タワー攻略のために淡々と処理する記号になってしまうのだけども。

 

 三つ目の興奮は、二つ目と似ていて、少し違う。

 二つ目が物語の再構成なら、三つ目は物語からの解放だったような気がする。

 伝説のポケモンを唯一連れて歩けるのは主人公の特権だが、同時に、大げさに言えば、主人公だけに負わされた宿命だった。強烈な才能であると同時に、世界を救う英雄の義務、さらに言えば呪いであり、どこかで主人公をさいなんでいた(かもしれない)。

 そのときに出会った、「あれ、こいつもライコウ連れよるわ…」という体験。

 もう、自分だけがヒーローじゃなくてもいいんだな。

 なんというか、そういうことである(かもしれない)。

 

 ポケットモンスターというゲームは、街と街を旅しながら合間でマフィアをしばくというジュブナイルから始まった。

 当時は、ボスキャラクターにあたる各街のジムリーダーも、子どもの目から見る「大人」の印象を上手いこと再現しているというか、旅を続けるために街を去っていく主人公に対して、ジムリーダーは街に残り、以降は物語にそこまでからんでこないところに、成人や自分よりも成熟した青年たちの責任感みたいなものが漂っていた(当時はまだ、各キャラクターを深堀りする開発リソースや容量がなかったからと言えばそれまでである)。

 

 以降も、シリーズ本編において、青春に入るよりもちょっと前ぐらいの子どもが冒険の旅に出る、というフォーマットは変わらないが、物語の規模は段々大きくなり、主人公が背負うものも重くなっていく。

 ルビー・サファイアは世界の地表や海が広がり、最後は移動できるマップまで変形してしまうような話だし、時空間がテーマになることもあれば、主人公の戦いに人類の存亡がかかることもあった。

 

 実は俺は、ポケットモンスターというゲームが、もしも初代から連綿とジュブナイルを一つのテーマにしているなら、シリーズの物語が壮大になる一方なのは、そこまで食い合わせがよくないんじゃないか、と思っている。

 なぜかというと、もしも世界の命運を託される条件に、何か特殊な才能や物語上の幸運(or 不幸)なタイミングがあるとして、主人公が少年/少女である必要性は、相対的にどんどん小さくなってしまう気がするからである。

 一番最初の、「子どもが旅に出て悪い大人を懲らしめつつ、最後はライバルの友だちと決着をつける話」に対して、「無二の才能を持つ誰かが偶然アクシデントに巻き込まれて、最後は世界の危機を救うことになる」、それが子どもの物語である必然性って、商品としてキャッチ―だから、以上の何かであるのか? とか考えてしまう。

 そして、ライコウどころか、世界の摂理自体に干渉できるような神に近いポケモンに好かれるというのは、他の誰にもない選ばれし才能以外の何物でもなく、これが俺の中では、子どもの冒険というくくりとはうまく接合できなかったし、どこかで乗りきれない、押し着せられた宿命に感じるようになったような気もする。

 ただ、これは俺が30半ばを過ぎたオジサンが物語の構造を斜めで見たときの感想で、ルビー・サファイア以降の作品にはじめての体験として接した子どもたちが、物語に自分を投影して夢中になった、としてもおかしいところはまるでない。

 

 その俺が、2022年に出た最新作のスカーレット・バイオレットの物語に完全にノックアウトされた。

 自分でも意外だし、一方で、「このストーリーだからこそ」とも思う。

 正直にいうと、ポケットモンスターのストーリーにはもうあまり期待していなかったのだが、本当に久しぶりに「いいな」と感じてしまった。

 というか、赤緑をプレイしていた子どもの頃の楽しみ方は、没入が強いが故にしみじみ感じ入る感じでもなかったので、「いい話だった…」という満足感は、むしろはじめての経験かもしれない。

 

 先に書いておくと、スカーレット・バイオレットの主人公も、別の時間軸からやってきた、物語の進行とともに地形を攻略すべく自在に変身できるようになる、非常にスペシャルなポケモンを連れるようになる。

 そういった、過去作と同じ無二のギフテッドでありながら、それほどギラついていないのは、スカーレット・バイオレットにおける主人公の物語が、仲間たちのストーリーと関わり合いながらできているから、ある意味、他者の物語の「余白」に成立しているからだと思う。特に、ポケモンリーグのチャンピオンを目指すという過去から続いてきた主軸を、いくつかあるストーリーの一つとして相対化し、主人公を孤高のチャンピオンとしてではなく、その権化のような別のキャラクターに伴走させる役割に変えたのはすごいと思った)。

 今回の主人公は、とにかくまあいいやつで、彼/彼女の活劇は本人の才能や幸運というより、仲間を助け、励ます中で生まれたものという印象がすごく強い。

 最終章でさえ彼/彼女は仲間と一緒にいて、どうしてもエンディングは壮大になったけど、それは他の仲間がそれぞれの役目を負って果たしたように、主人公には伝説のポケモンと一緒に一つの仕事をするという役割があり、その結果として果たされた、という感じだった。

 あの四人で行って・帰ってきたことで、ポケットモンスターは主人公を英雄の宿命や孤独から解放したように、俺には見えた。だから、すごく感動したのだ。

 

 ここまでが長い導入で、何が書きたいかというと、今秋から配信されているスカーレット・バイオレットのDLCのことである。

 なぜスカーレット・バイオレットのDLCかというと、「一つの才能として伝説のポケモンに好かれる『持てる(モテる)者』」としての主人公と、「持たざる者」の悩みの対比が、ここにきて鮮明に描かれているからである。

 ゲームとしてのポケットモンスターは、実はこの点について誤魔化さずに、過去作を通じてずっと描き続けている。つまり、「ストーリーにおいて伝説のポケモンを連れてチャンピオンになることが宿命づけられた主人公に対し、必然的にそれに敗れていくライバルたちは(実は、現実世界の俺たちの多くの分身たちは)、世の中のどこに自分を位置付けるのか」というテーマである。

 

 才能が一つのテーマとしてどうしようもなくフォーカスされるなら、敗れた者についてもボカさない、ポケットモンスターというゲームが、好きは好きではある。ただ、スカーレット・バイオレットは(勝手に)、今回はそういう物語からズレます、という話だと思っていたので、DLCの展開は少し意外だった。

 そんな、才能にまつわる残酷な対比がうかがえるDLCの後編となる『藍の円盤』は今月、14日に配信された。

 持てる者/持たざる者云々という見方は勝手に俺がしているだけだが、仮にそこにDLCの重要なポイントがあるなら、「どこに着地させるのだろう? 」という興味は尽きない(プレイ前である)。

 歳をとると、フィクションで親身に感じる対象も、自分の子どもだったら…という目線で見てしまうのも、どうしても主人公よりはスグリの方である。スグリ君が、苦しい道でも、日が当たらなくても、充実した道を歩けるといいと思っている。




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