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なぜ自分の欲望が恥ずかしいのかー『ファンたちの市民社会』を読んで自分をかえりみる

『ファンたちの市民社会』という本を読みました。これをきっかけに自分の趣味にたいするスタンスについて改めて考えてみたら、掘り下げるほどの深みのない自分の幼稚さが明らかに……

 

ファンたちの市民社会 あなたの「欲望」を深める10章 (河出新書)

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本書8ページ

あなたの欲望を吸収する趣味をより深く見つめ直すことで、そこからあなた自身の欲望を取り戻すこともできるのではないでしょうか? なぜなら、そこにはあなたの本当の欲望、人生で本当に実現したいことの片鱗が隠れているかもしれないからです。

これに対してわたしは、「なぜそんなことをするのか?パンドラの箱では?」とメモしている。

本書の主張は、欲望の中にある暴力性に自覚的になろう、ということだと思う。だけど、わたし自身は自分の欲望を言葉にして公開することで、本来秘していれば誰も傷つけなくて済んだ暴力が実際にだれかに届いてしまうことを恐れている。

多分この本はそういう自己検閲みたいなのをやめようという話なんだけど、わたしはそうやって自分を抑えていることにもあんまり気づいてなかった。

第10章「楽しい殺し合いができる相手を育てよう」を読むと、傷を恐れず欲望を見つめて、だれかと一緒ならもっと別の場所にいける、そうして成熟しようみたいな話はすごくワクワクするが。

一方わたしはオタク友達がいなくて、欲望をひとりぼっちで文章化することは抵抗がないけれど、友達のような誰かの顔を見ながら欲望を言語化することに強い恥ずかしさを感じて上手くできないままここまできている。これは本当に昔からで、子どもの時に親にクリスマスとか誕生日のプレゼントに何が欲しいか聞かれても、本当に欲しいものがあるのに何故か言い出せない子どもだった。

だから最終的に他者と「楽しい殺し合い」できる自分になっているところが想像できないのだけど……。でもこうしてブログに感想などを書き、他者のテキストを解釈し恣意的に文節化して、本書でいうところの「盗む」行為を楽しんでることは事実だし、たとえ行動に表さなくても今はわたしはこの按配が満足といえば満足なのかもな〜

 

わたしはなぜ自分の欲望が恥ずかしいのか?

たぶんわたし自身はなぜ自分の欲望が恥ずかしいのか? というところを掘り下げたほうがよくて、それは自分の欲望が社会的に正しくないから恥ずかしいということなんだろうか。

たとえば結婚する時にこの人がわたしの好きな人です、って両親に紹介することは別に恥ずかしくなかった。それは結婚ということが家族という社会において正しい欲望とされてたからなのかもしれない。しかも、わたしの夫はどこからどう見てもわたしの親の目からして遜色ない人間だという計算すらあったかもしれない。

一方でわたしが口にできない「好き」については、本当に好きなもののこういうところが好きなんだよねーと言って「そんなのが好きなの?」と言われるのではないかと疑っている。この本でもワンオペジョーカーや異世界転生の例が挙げられているけど、たぶんわたしが言えない「好き」は自分でも無自覚な弱さと直結してる欲望のことなんだろう。だから、自分の弱さを他人に把握されるのが怖いのかもしれないね。

社会の中で認識されていない欲望のあり方を自分自身で作り出し、社会に対して表現し、そうすることで社会を変えるというのが一つの政治なのです。(第三章 電子版p79)

とあるけど、たとえばわたしはミュージカル好きになったのは実はこの逆だった。自分の欲望はどこにも現実化されてないと思ってたのに、舞台上という空間のなかにおいては実体化されている、しかも生身の人間と立体の舞台セットで!と初めてミュージカル「エリザベート」を観た時にそういう感動があったことを覚えているんですよ。

この点から考えるに、わたしは自ら表現者になるところまで行けていなくて、あくまで自分の欲望を誰かが表現してくれないかなーと待っている、受け身の姿勢ということになる。

 

(他の趣味と比べて)観劇が好きな理由

あと演劇はフィクションであることが大前提の空間なので、そのなかでは自分の欲望に基づいたどんな解釈をしてもいい、という心理的安全性みたいなものがあるのはいいですね。

過去通ってきた趣味で、わたしがフィギュアスケートのオタクになりきれなかったのは、現実の生身の人間である選手(しかも多くは10代〜20代前半)に物語を勝手に読み取り押しつけかねない危うさと、ファンたち自身がその性質を自覚しているゆえにファンコミュニティ内の規範化が息苦しくて楽しめなくなっちゃったというのはあるかもしれない。

長年フィギュアスケートという「競技」のファンをされてる方のほとんどは、そこの切り分けがうまくて、あくまで演技だけをきちんと観て解釈するのが上手いなあと思ってみていた。わたしはそうなりたかった(「競技のファン」ではない「選手のファン」は選手が引退するとともにフィギュアスケート競技のファンコミュニティから自然と去ることになるからという側面もあるが)けど、わたしはそれだけをできる芸術的審美眼を磨くところまでいけなかったんですよね。

正直、ミュージカルを観ても物語と現実を混同し、生身の役者さんに自分の解釈や欲望を投影したくなっちゃうこともあるのだけど、そこはネット上の文章にはしないようにする線引きが自分の中に明確にある感じがする。これはさっき書いてた恥ずかしくて欲望を言い出せないみたいな話とは違って、この欲望を社会化したところでそれをぶつけられた側が迷惑に感じるしかなく何も生まないだろうなという意識があるんだと思う。

この意味ではフィギュアスケートのときにはできなかった切り分けがミュージカルジャンルではできていると言えるのかなあ。

結局、わたしは見栄っ張りで優等生気質なので、心理的安全性が担保されている範囲の中で、「正しい」欲望だという自信がなければ、上手く欲望が表現できないのかもしれない。

この本はその殻を破って別のステージに進もう!という話をしてくれていると思うのだけど。

 

シール交換できなかった平成女児の話

先日、ネイルサロンのネットフリックスで『ブラッシュアップライフ』というドラマを見て思い出した……というより「理解した」のですが、わたしはシール交換をしたことがない平成女児だった。

『ブラッシュアップライフ』では、クラスで勉強できるタイプの子が「特にシール交換とか興味ないのかな?って思って」と気を遣われて楽しく対等なシール交換取引をしてもらえないというシーンがあるのだが*1、わたしはまさにその気を遣われる側の人間だったのだ。

しかも、さらにいえば今もインターネット上であんまり上手く他人と交流ができてないので、結局わたしはこの頃から変わってないのかもしれない。他の人に、「わたしもシール交換とかしてみたいよー」とアピールするのが下手なのだ。

さらに、うっかり「シール交換してみたい」と言ってしまって相手に気を遣わせて自分も気を遣って気疲れ×相手の気疲れを察知する気疲れの相乗効果により、やりたかったことが「なんか疲れた思い出」になってしまうのではないかと事前に気をまわしすぎ、それぐらいなら他の子たちが楽しそうに交換してるのを見てるだけでいい……みたいな気持ちになっている。

なんかこう書いてみると本当に強がって自分の鎧を固めてる可哀想な人にしか思えないのだが、臆病さが好奇心を上回っているせいで人生損してるといえばまったくそのとおりだな。

そう考えると先述した「わたし自身はなぜ自分の欲望が恥ずかしいのか?」の答えは「自分の心を守りたいから人に心を開けない」でしかなく、なんかすごく幼稚な自分が明らかになってしまって恥ずかしいのだった。

 

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*1:ここだけならたぶんネタバレにはならないはず




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