傷と回復についての短編集。ハン・ガンという人は、ほんとうにずっと人間の内面がうける傷と痛みに向き合い、だからこそ見える光を書いている。並大抵の精神力ではないのではと読むたびに思う。
「明るくなる前に」
午後三時のたとえを読んだ瞬間から、次から次へと文章が胸につきささってくるようだった。「私」が繰り返し見る旅行の夢。
そこにいられる時間は一日だけなのに、あれこれわけがあってまだ宿から出られずにいる。…(略)…このまま夜になったらだめじゃないのと焦りながら時計を見たところで、目が覚めたりしていた。
……だけど、それ、旅行の夢ではないみたい。
その瞬間気づいた。何気なく打ち明けたその夢が、どんなに赤裸々な告白だったかということに。今私がいる地点が、午後三時だということに。もう時間が残されていないということに。一度しかない一日をぎゅっと握りしめたまま、どうしたらいいのかわからず、握りつぶしてきてしまったのだということに。
この夢の話を聞いた「ウニ姉さん」がこのあと、自分自身もよく見るという悪夢について語る。傷ついたことを打ち明けることが、もうひとつの傷についての語りを引き出す。
物語はこのウニ姉さんが生涯心に負いつづけた悔恨を軸に進む。そして語り手の「私」自身もがんを患っており、自分の人生の痛みを、終わりがあることを知っている。だからこそ、声にならない呼びかけが、互いの痛みへの静かな共感と、回復への信頼になる。
そんなふうに生きないで。私たちに過ちがあるとすれば、初めから欠陥だらけで生まれてきたことだけなのに。一寸先も見えないように設計されて生まれてきたことだけなのに。
ウニ姉さんは、回復を信じた異国の地で思いがけなく病死してしまう。大切な人にかけられなかった言葉ややさしさへの悔恨で、残された人の心は常に満ちている。先に引用した呼びかけも、「私」がウニ姉さんに結局、直接かけられなかった言葉だ。だけどそれは、回復することを信じていたからなのだと思う。信じていたからこそかけられなかった言葉。残された「私」が祈りのような小説の一文で死者を語る言葉は強靭だ。
「フンザ」
具体的に何が起こったのか、直接的なことはあまり書かれていない。ただ、主人公の女性にとってかなり衝撃的な出来事があったのだとわかる。たとえば自分自身も多忙な仕事と幼い子の育児を抱えながら、夫が職を失い、心を病んでいるといったような状況の中で。
受け入れがたい現実のなか、ひょんなことから遠く離れた「フンザ」という土地のことを知る。空想上の自分はフンザに飛ばすことで救われるが、子どもを(精神的に)取り返しのつかない状態にしてしまっているのではないかという疑念が拭いされないまま、ぎりぎりの状態で日々を送っている。
子どもと一緒に過ごす短いひとときだけは、才能の不足を熱意だけで補おうとする喜劇俳優のように振る舞っていた。
彼女ほど極限状況に置かれたことはないにもかかわらず、同じ状況にあったらわたしもこうなってしまうだろうな、と思ってしまう、生々しい距離感の文章である。
「左手」
これだけは、回復しない人間の話だった。ほんとうは回復したいと願いながらも、自分で自分の本心を認めることができない男性。そう、男性の苦しみを真っ向から書いているのがめずらしかった。「左手」は素直に男性が抑圧してきた本心のメタファーで、自分の欲望と社会的にあるべきとされる姿、どちらを心から望んでいるのか分からなくて独り相撲する姿は滑稽でもあわれでもある。
あえて問いを残している気がするのは、第八パート、左手を彼が右手で止めなかった一場面。ごめんと言いながらソンネを自分の左手の破壊に利用しようとしていたのか。あるいはここで左手の暴走を止めようが社会的な「イ主任」の崩壊にはさほどの影響がないから力を込めなかったということなのか。いずれにせよ彼の人格の底にあるずるさが透けて見える場面で、容赦のない書きっぷりだった。
「青い石」
肉体的な弱さも含めて愛した人の、肉体の喪失に際して、どのように乗り越えることができるのか。この短編が個人的には一番好きだった。訳者あとがきによると、後にさらに展開された未邦訳の長編があるらしい。読みたい。
