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ダフネ・デュ・モーリア『スケープゴート』感想〜役に立たない家長と、その不在

みなさんと同じようにわたしも、『レベッカ』からダフネ・デュ・モーリアの作品世界に惹かれるようになったひとりですが、著者の他の作品がなかなか手に入りにくかったのがずっともどかしかったのです。このたびは待ち望んでいた長編の新訳が出て本当にうれしい。おめでとうございます!

スケープゴート (創元推理文庫)

といいつつ発売前にあらすじを読んだ時には「女性主人公じゃないのか〜」と正直思いはしたけど、いやいや。読んでみるとこれは『レベッカ』の変奏であるとさえ思える小説だった。

(以降、結末に触れるネタバレしてます)

そう、たとえばいささか精神的に未熟な主人公が運命的な出会いをし、不在となっただれかの「身代わり」となって巨大な城に住まうことになるという導入。城内に漂うのはどことなく閉鎖的で不穏な雰囲気。屋敷もろとも破滅への道を歩いていくのを、そこに住まう誰もがあきらめきっているような。さらにその城には、どうやら過去に血の匂いのする秘密があるようで……

こう捉えると完全に『レベッカ』ですし、身代わりとなって現れた主人公がそうとは知らずに致命的なミスを犯して場の空気を凍らせてしまう場面なども『レベッカ』の前半のラストのあのシーンなどを彷彿とさせる。(本書ではあれほどドラマティックではなく、むしろコメディみがあり、人によっては共感性羞恥が呼び覚まされてしまう仕上がりになっているが。)

だけどこの小説がレベッカと最も違っているのは、結末が「破滅」ではなく未来へ向かう希望を残して終わること。他者への愛、あるいは優しさ、諦めずに投げ出さずに向き合うことで人は変化するし成長もするという、真っ直ぐな倫理観の作品なんですよね。

 

一方で、(入れ替わった主人公の妻)フランソワーズは何故死ななくてはならなかったのか?と考えると、この物語には、家父長的・血縁的結束への反逆心も編み込まれているように思える。

ジャン・ドゥ・ギは後継ぎの息子と妻を同時に失う。家業さえも実質的には長姉のものになる。このあとジャン・ドゥ・ギにのこされたのはもはや「娘の父親」という役割だけ。一族の者たちにとっては、フランソワーズの死が、拘束された自己を解放する清々しい人生への扉だった。結末はジャン・ドゥ・ギの一族において家父長制を退けることが幸福なのだと示している。

物語のなかで、ジャン・ドゥ・ギは長姉から数回「家長とは認めない」と宣告されている。事実、ほんもののジャンはその立場と財産、そして人間関係の全てを投げ出し逃亡していた。実際に一族を停滞と閉塞から救い出したのは、なりかわったジョンという赤の他人。外から来たジョンが持ち合わせていた共感性、つかのまの家族関係でありながら芽生えた愛着心。そんな感情が、姉の心の傷やトラウマに苦しむ母親に寄り添ったり、娘へのケアといった行動にあらわれる。この行動の積み重ねが、一族を破滅の道から救っていく(ひとまずのところは)。ジョンは男性だけれど、圧倒的な知性やパワーに基づく上からの采配なんかではなく、ジェンダーとして女性に割り当てられることの多い〈ケアの役割〉をなすことで、家族を救うというのが面白い。

一方でこの結末をもたらすには、嫁の犠牲という痛みを伴わなくてはならなかった。これは常に家の犠牲になる存在でありながら、個人の自由を阻害してもいる〈嫁〉という存在のジレンマだと思う。物語世界の中で、フランソワーズはただのひとりの「フランソワーズという女」として存在することはできなかった。妻として、母としてしか。彼女がただの自分自身である証であるはずの陶器の置物は、割れてしまって元に戻らない。それどころかひそかに新品に置き換えられる。

これってもしかして、新品の置物を用意したベーラ(ジャン・ドゥ・ギの愛人)こそが、家における〈正妻〉よりもジャンまたはジョンの〈パートナー〉に取って代わるのに相応しいという暗示なのかな。家父長を否定するならば、〈嫁〉の存在も表裏一体のものとして消し去らねばならないのだ、ということなのか。(だけど、わたしはフランソワーズだけが未来を無くしてしまうのは本当に気の毒すぎると思う。他にどうしようもなかったのか?)

 

まあ実際には、ほんもののジャン・ドゥ・ギが帰還したこのあと、家族や事業がどうなるかはわからない。もしかしたら一時的かつ表面的にちょっと良い方に向かったように思えただけで、このあとは元の木阿弥なのかもしれない。だけどそもそも複数の人間の人生で構成される「家族の歴史」とはそういうものなのかもしれない、と思う。たとえどんなに幸せな時期があっても、感情の衝突や社会情勢の影響で簡単に壊れてしまう。その一方で、一度壊れてしまったとしても、小さな積み重ねによって少しずつ修復の努力をすることもできる。

壊れたものを壊れたままに、美しい記憶ごと抱きしめていたのが『レベッカ』なのだとすれば、それから20年経って、崩壊した家庭の再生への希望をも書きこむようになったのが、50歳のデュ・モーリアが上梓した『スケープゴート』だったのではなかろうか。

う~んそう思うとやっぱり、デュ・モーリアの他の作品をもっと読んでいたい。今後も少しずつ新訳が出版されますように!

 

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