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劇団四季「ウィキッド」@大阪四季劇場12月

わたしのウィキッド初見はこれということにします。待望のウィキッド観劇、実は数年前に四季の再演が待ちきれずにブロードウェイで観劇したことがあるのですが、英語がわからなかったことと、観客があまりに観光ナイズされていたこともあってエルファバの感情に寄り添えず、あまり良い観劇体験ではなかったんですよね……。

今回、グリンダからあの帽子を受け取ったときのエルファバのうれしそうな顔を見て確信した、わたしが『ウィキッド』に期待していた物語が観られることに間違いはないと。

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あの不器用なダンスを一緒にやってくれる友達がエルファバにできたことが、わたしにとってはずっと見たかった風景、希望のファンタジーすぎてもうえも言われぬ気持ち。じつはわたし、高校時代にじっさいに体育や学校行事のイベントでダンスをする機会が複数回あり、友達(だと思っていた人たちだが今思えばそうではなかった)にほとんど悪口みたいな言葉で笑われて「そうだよね」って一緒になって笑うふりしながら内心泣きそうだった思い出があるのです。昔の自分に教えてあげたいよ、あなたの知らない場所にこういう物語が繰り広げられてるってことを……。

さすがに30代にもなってもう他人の思い出みたいになっていたはずだったのに、まだ覚えていた。友達がいなくてひとりぼっちで「人からどうみられるか、気にしてないんじゃなくて気にしてないふりをしてるだけ」だった10代のわたしがこれを見た瞬間に癒されて、泣いてしまった。

 

そういう個人的な思い入れはさておき。

改めて理解できる言語で通してみてみると、グリンダが幸せアピするけど実は空虚さを抱えてるキャラ設定が、現代のおとぎばなしとしてすごくフィットすることに驚いた。そういう誰にでもあるささいな虚栄心、それが少し強めの子がポピュリズムに利用されてしまうところもむしろ今の子どもたちが見るにあたってリアリティがある気がする。

あと、フィエロが思ってた以上に軽薄だった。笑 グリンダとの間で揺れる様子は描かれつつ、それでもあっというまに掌返したな…とさえ見えてしまう。エルファバに啓蒙されて思慮深さを獲得したというよりは、本当にエルファバの人柄に惹かれて好きになったんだろうな、と思えるフィエロ。ダンスが上手い役者さんだったので余計にそう感じたのかも。

だけど、作品としてはフィエロって王子様的な完璧男子じゃなく、エルファバを想いながらもグリンダと付き合ってる打算的なところがある人として描いているのはいいなと思った。等身大の人間だからこそ、彼の選択の尊さが輝くのではないかと思うから。

ただ、ラストについてはエルファバの幸せってフィエロと結ばれることしかなかったのかなと一瞬思う。わたしはフィクションの中のロマンティックラブを好むほうの人間ではあるのだけど、この話ってグリンダENDもありえるんではないだろうかとはつい考えてしまいますよね。

とはいえグリンダとずっと仲良くいられないのは、考えてみればものすごくリアル。「誰も知らない土地へ行ってやりなおす」夢、「戦いたくない、普通の女の子として他に誰も知る人のいない場所で、自分のことをわかってくれる好きな人と支え合って暮らしたい」と思ったときに、男とふたりならできるけど、性格もそりも全く合わない女どうしふたりだけでは、ハッピーエンドになりえない。

ただ人生の一時期だけだったとしても、あなたがいるおかげで一人ではできないことができた。こういう経験自体に覚えがある人は多いと思うけど、男性と人生を過ごすために、その友情が過去のものになってしまうこともまた我々が経験してきたリアルなのだ。だから泣いちゃうんだよなあ…………

 

あとネッサとボックのサイドストーリーが思ってた以上に救いがなさすぎて辛い。このへん、CDでは入ってないエピソードだったのでこんなことになってるとは……。いやこの人たちの存在、『オズの魔法使い』の前日譚としてつじつまが完璧に合っており、ネッサはたとえそのために生まれたキャラだとしても『ウィキッド』自体のストーリー上の必要性がきわめて強いので(ずっと従順な優等生だったエルファバが父に命じられた役割=ネッサの世話から自分を解放し、父的なものに逆らう=オズの魔法使いに反逆する、というストーリーだったから)、よくできたお話だな~という意味では非常に感動するのだけども。

グリンダもエルファバもフィエロも現実に直面し変わっていくなかで、総督という地位を得ながらも根本的に自身の現実を受け入れることができなかったネッサ。彼女のしようとしたことはグロテスクで、だけど簡単に断罪することはできない。マダム・モリブルのように自分自身の邪悪さに自覚的に力を振るった人間とは違って、ネッサは自分が邪悪になっていくことが半ばわかっていながらもそれ以外にやりようがなかったと思うのだ。そう考えるとネッサって、このウィキッドという話において、権力のあやうさを別の角度から示している例だとも思える。ネッサのように、痛みを知るはずの弱者の女の子だとしても、ひとたび権力を握れば邪悪になりうる可能性があるのだ、という。

そう考えるとやっぱり『ウィキッド』って権力というものを徹底的に疑っている話なんですね。

グリンダの話に戻るけど、たとえ最後にグリンダとエルファバが手を取り合って終わったとしたら、なんとはなしに「マイノリティであったエルファバが権威的なものに"認められる"」みたいな構図になりかねない。それは明確にこの話の目指すところとは明確に違うと思うから。やっぱりエルフィとグリンダは、別々の場所に離れて自由を追求するのが正しいハッピーエンドなんですよね。




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