あじさいが咲くバレンタインの日、少女たちがカードを交換してきゃっきゃしている冒頭の数ページの描写でもう心を奪われる…。これはオーストラリアの話なんですね。たしかに、物語の舞台になるのが闇深い森とか静けき湖とかでなく、巨大な岩だというのがオーストラリアっぽいような…
ピクニックに行く少女たちの全寮制女学院は都市から隔絶された土地にあり、すぐそばには自然がある。お話としてはサイコホラーのようなのだけど、自然描写には不気味さというより、自然の力強さや密やかさへの畏怖の念を感じる。
不可解な失踪事件を扱った物語のようでいて、この小説のテーマってじつは管理・統制しようとする人間社会と・手つかずの強靭な自然との対比なのだと思う。
のびのびと成長しようとする少女たちの感情を抑圧しようとするのが全寮制の女学院であり、彼女たちの抑圧されたなにかが解放された瞬間に奇妙な形で爆発してしまう場が、宙づりになった奇妙な岩場、ハンギングロック。少女たちが二度目の集団ヒステリーを起こす無意味で不条理な体操室のシーンといい、恐怖による支配を敷く校長、他人に無遠慮な関心を寄せる村人たち、複雑に入り組んだ人間関係……。社会がいまよりもっとずっと無神経に少女たちの身体と心を縛りつけていた時代なのだと感じさせるモチーフが散りばめられている。
そしてたぶん全然本筋に関係ないのだけど、個人的にものすごく気になっていることがあるのでこの本を読んだ誰かに相談したい。
失踪した少女のひとりアーマが、37ページでは「あたしだったら、ダイアつきの時計なんて片時もはなさない――お風呂にだって持っていくわ」と友人ミランダのダイヤモンドの懐中時計の話題にコメントしていますよね。つまり、アーマはダイヤつきの時計を持ってないと推測されるのだけど、その後ハンギングロックから救出されてフィッツヒューバート家に滞在しているアーマが待ち合わせで「小さなダイアモンドの腕時計をしきりに確かめる」場面がある。時系列的にここで時計をつけてるならピクニックのときからずっとつけているはずでは…? だって寮の自室に荷物を取りに帰るより前だし、実家にも戻ってないはず。
解説によると作者が霊感を受けて書いた小説とのことなので、ただのミスかもしれないけど、地味に気になる。なにしろ37ページにおいてはその場にいた全員の「時計が止まっている」というのが重要な効果となるシーンだし……。むしろその時点でアーマの時計だけは止まってなかった=だから彼女だけは正気で帰還することができたということ?? 皆さま、どう思われますでしょうか??
