念願の『シャーリイ』をみてきた。本国では2020に公開されたらしいのだけど、わたし個人としては何年か前に『ずっとお城で暮らしてる』を読んで以来、数年かけてじわじわとシャーリイ・ジャクスンにはまりつつあるので今公開してくれて本当にうれしい。
揺れる画面、ベッドリネン際でふかす煙草、乱雑に積まれた本の上のグラス、大量の飲酒と煙草、大胆でふざけ混じりの性行為、ひとけのない森のきのこ、割れる卵。絶妙に人を不安にさせる演出の数々。見終わった後も頭がぐらぐらして足元が崩れ落ちてしまうんじゃないかという幻にとらわれると同時に、内側から力が湧いてくるような気もするのはなぜだろう。
シャーリイは人に嫌がられるのを承知で奇矯なふるまいをし、人間の暗部をおもしろがって陽の光のもとにひきずり出すような暗い小説を書いているせいで、近隣の人から煙たがられ孤独を深めている。一方で精神を病みかけてはいてもすっかりおかしくなってしまっているというよりはどこまでもまっとうな神経を持ち合わせてる。だからこそ彼女のいう「女の子にとっては残酷な世界」を生きのびることが苦しくて、そしてまっとうだからこそ不安定さを小説世界の中で完璧に再現できるのだと思った。
シャーリイが生きていたのがもし21世紀のアメリカならと考える。浮気性で嫉妬深いモラハラ男なんかとっくに離婚して自立すればいいのに、と反射的に思ったけれど、しかしこのシャーリイなら、小説世界を維持するために結婚を続ける気もしなくもない。
自分自身も傷ついて孤独でありながら、子どもみたいに他人の誠実さや信頼や愛情をおもしろがってからかうような人、だけれども何の罪もない赤ん坊のことは抱いてゆすってやるような人だ。絶対に一緒に暮らしたくないのにどうしようもなく惹かれて憧れて同化したくなってしまう。ローズにわたしは感情移入し、気がついたら食い入るように画面を見ていた。
ふたりだけの最後の場面、ローズが崖でふらりと足を踏み出してしまったように見えたのに、次のシーンでは怒りをあらわに引越しの車に乗り込んでいる。彼女は足を踏み外すことなく、ただ崖に背を向けて去ったのだろうか。崖で踏み外したローズはあくまでシャーリイの想像の世界の住人、小説世界の中の女の子なのであり、シャーリイのつくった森の中へ永遠に姿を消す。むしろあえてローズに夫の浮気という真実を突きつけることで、シャーリイはローズを〈屋敷〉に取り込むことを拒絶した。小説の中なら、女の子たちを自分たちだけの永遠に安全な蔦の中の屋敷に閉じ込めることで彼女を救うだろう。突き放すのではなく。
それが「お前はここにいてはいけない」というメッセージなのだとしたら、やはり〈シャーリイ〉にとっての小説とは、理性によって現実と夢想を切り分け、作家として以前にひとりの人間としての自分を保つ最後の手段みたいなものだったのかもしれない。
一方、夫スタンリーはなんだったのかと考えたとき、シャーリイにとっての創作がなんなのかという問いの答えは反転する。最後の勝ち誇ったような、それなのにどこか彼から逃れられないことを自嘲するような笑い。自分自身を創作世界の中に囚われさせておくための存在を、むしろ彼女は求めているようで。
作家の深緑野分さんがこの映画の感想をTwitterで書かれているのを見て、シャーリイ・ジャクスンのいくつかの短編で「神に見はなされたものを誘惑する悪魔の手先」(深町眞理子、『くじ』ハヤカワ文庫解説より)として登場するジェームズ・ハリスについて言及されているのがものすごく興味深く分かりやすかった。
そのように映画『シャーリイ』におけるスタンリーをジェームズ・ハリスと重ねたとき、わたしにはエンドロールの流れるシーンが「死と踊る」場面に思えて仕方なくなる。*1古今の男性たちがファム・ファタールに惹かれて必要としてきたように、女性にとっても悪魔の誘惑を擬人化した存在は魅力的である。むしろ、夢想とわかっていながらにしてそうした誘惑に身を任せる愉しみを、フィクションとして消費したい願望があるかもしれない。
踊るといえば、最近『日時計』を読んだときに、終盤の村人を招待した奇妙なパーティでなぜかみんなが乱痴気騒ぎで踊りまくるところが、不気味な違和感とともに忘れられなかった。
全員どうみても笑ってるだろうに、腹の中で嫌悪感を不本意に押し隠しながら憂鬱を空気に溶かしてるようで、それなのに客観的に読んでいると笑えてくるような怖さがあるのだが、まさにこの映画では不穏きわまる学部長のパーティーのシーンで映像として表現されていて凄くどきどきした。
しかしシャーリイ・ジャクスンが小説の中で異化した世界がこれほど演出されているのにもかかわらず、なぜ彼女の小説ではなく作家自身を映画にしたのか。
それはやはり、「男性に依存し、ほんのり不幸な世界に自ら閉じこもることを幸福と思いたい」感情と自立への欲求との間で揺らぎ引き裂かれる女、という図が、まさに現代のファンたちが彼女の小説に惹かれている理由だから、ではないだろうか。我々はシャーリイ・ジャクスンを読み、「ほんのり不幸な幸福」をフィクションの世界に閉じ込めることで、前を向けるようになったのだと。
最近の感想
*1:直接関係はないのだけど、わたしはこのジェームズ・ハリスの存在を知った時にミュージカル『エリザベート』のトートをめちゃくちゃ思い出してしまった。


