映画ウィキッドの2幕みてきました。いや~モヤモヤしたね!(あと無理だけどやっぱり1幕と続けて観たかったな。無理だけど…)
でもこれは今の世界を見渡してこれじゃだめだと思っている皆をモヤモヤさせるために、あえてわかりやすくモヤモヤを提示してくれている映画版だと思いました。
▼以下ネタバレありです

今回の映画、舞台版に比べると全体的にこの作品の政治的な側面がわかりやすくなっていると感じる。冒頭から早速、舞台になくて映画にない、動物たち(同じ国に住むマイノリティ)が奴隷として働かされているという場面が挿入されていて、舞台を知ってオープニングを待ち構えていた人もみんな「うわあ」となりましたよね……。映画の前編では〈オズの魔法使い〉おじさんが「この世界で皆の父親になりたいんだ」と目をキラキラさせていた、あの美しい黄色いレンガの道のヴィジョン。権力が作り出す美しい景色の陰に我々が見ないふりをしているものがある。
エルファバ、グリンダそれぞれに追加曲がありますが、それらもまた、彼女たちがいかに自立して政治的な行動に出るかという信念と決意の語りになっている。
エルフィーの"No Place Like Home"で、「約束であり思想でもある」という詞(訳詞あいまいですが It's a Promise, an idea のところ)、ここは本当にアメリカっぽいな~と思った。少なくとも外部から国家という概念を与えられた日本という国に生まれ育ったわたしにはあんまりない発想だった、この国が「思想」であるという感覚は。ただ馴染んだ場所というだけでなく、皆が平等に幸福になれる思想のもとにある国だから、エルファバはずっと変わらずその信念を愛しているんですね。
グリンダの追加曲は、泡の中で守られてキラキラした夢見る少女のままでいる自分からの決別。グリンダがエルフィーに出会ってFor Goodに変われたことがあったとすれば、きっとそのこと。現実に向き合い自分の力で行動する勇気。最後にグリンダが偽物の杖を置いて All audience!って呼びかけるシーンで、幼い女の子の顔を見て決意するようなカットがあって。守られる女の子から、自分が守る方へ。かつての自分が守られていたように、自分も少女を守る側にまわる。
成長とは孤独になることだというお話である。誰かを守る立場になるためには、一人で決断と責任を引き受けなければならない。だけどもしかしたらその底には、それを精神的に支えているだれかの存在がある(そう、たとえ二度と会えなくても)。その人に恥じる自分ではいたくないという相手が……。その存在が果てしなく続く孤独を支えることもある。そうかもしれない、と思えることが、この映画の一番大きな希望であり夢だと思った。
舞台版では、グリンダが本当の意味での「善き魔女」になれたのか正直なところ分からない。嘘で塗り固めたまま、エルファバの本当の生死すらグリンダには知らされず、巨大な国を背負う孤独だけをグリンダがこの先一生引き受けて、エルファバは何も解決しないままに放りだしてしまっただけなのでは…みたいな疑念さえ浮かぶ。(そのあたりを演じる人や観る人が各々の解釈でこねくりまわす余地があるのが楽しいところでもあるんだけども)
今回の映画はその舞台版に基づく再解釈版。舞台版のメッセージを強化して、エルファバやグリンダの良心と絆を信じた素晴らしい解釈だったなあと思います。ただ、いかにcouldn't be happierに解釈してもネッサがとにかく救われないというところはどう変えようもないな……と頭に浮かんでしまう。
エルファバとグリンダ(とフィエロ)はお互い出会うことで自分が変わる勇気を持てた。だけど自分を変えてくれる誰にも出会えないまま、誰にも愛されないと思ったまま死んで忘れられていく人もいる。
前編のダンスシーンで、互いにお似合いなカップルであるところを認め合っていたネッサとボック。後編ではそれでも気持ちがすれ違い続けた挙句、ネッサが自分の持つ権力を暴力にすることしかできなかった、その過程までも丁寧に追加している。ボックが突然「マンチキン人は自由な移動ができない」って列車の乗車拒否されるところですね。いつでもだれでも暴力を振るう側にも振るわれる側にもなりうる。たとえ弱者であった人間でも。そのことを絶対に曖昧にしたくなかったのだという制作者の意志を感じる。
ネッサって「家に潰される」っていうところも(オズの魔法使い原作からある表現とはいえ)メタファーになっているのかもしれない……。父から継いだ家督を暴力の道具にして、最後まで個人として自立できず潰されてしまったネッサ。エルファバとグリンダの絆と信頼があまりにも強力で、だからこそ、かえって「わたしは実はエルファバにもグリンダにもなれない。わたしが一番なりうる可能性が高いのは、ネッサなのだ……」と思うと辛い。
Wonderful 〈魔法使い〉のソロ曲のシーンは今回も映像としてのオリジナリティがあって楽しかった〜。前編のThe Centimental Manもそうだけど舞台版だと〈魔法使い〉氏に特に興味が持てず流しがちなので…。あのギョロギョロ目玉が動く地球儀みたいなやつ欲しすぎる。しかしこのシーン、エルフィーが一回〈魔法使い〉を信じちゃうんですね。いやあんな楽しい雰囲気につつまれて自分が楽になれる道を提示されたら信じちゃうよな、もともとはずっと憧れて畏れていた人だったくらいだし。
ディラモンド先生を檻に入れてるのは完全に政治犯の収監であると同時に動物虐待を思わせる描写でぎょっとする。いや動物を檻に入れること自体は実際、申し訳ないことに見慣れてしまっているのだけど…。ディラモンド先生はエルフィーと知性ある対話を交わしていた記憶があるキャラクターで、命あるものの自由を奪うことが本来どれだけグロテスクなのかということを思い出させられるというか。
グリンダの絢爛豪華な結婚式シーンと対比で描かれるのも大変分かりやすい光と闇、真実と嘘。誰かが幸福を感じている同じ瞬間に、必ず誰かが苦痛を感じているということ。
よく考えたらグリンダもラストでモリブル先生を檻に入れているんですよね。まあ確かにそうするしかないんだけど、最後まで「善いかどうかは誰にも言えない」が今回のテーマなのはそういうところだな、と思う。善人も悪人も、みんながニコニコ笑ってお花畑で笑ってるなんてできない。おとぎ話の国でさえ。それを夢見ることはできるかもしれないけれど、それは誰かを守る立場の人間の仕事ではない。〈魔法使い〉の言う「私の故郷ではみんなが真実ではないことを信じている……歴史だ」という台詞、それからエルファバのNo Good Deed…善意からしたことが結果的に憎しみを生むことになってしまったのも。なにが善なのかは歴史の審判を待つしかなく、それが真実とは限らない。
エルファバとフィエロが立ち去るオズの国の外、〈無〉と言われる世界を歩く二人の姿を映像でみていて、ル・グィンの『オメラスから歩み去る人々』を連想した。もちろんオズには為政者がいて、オメラスのように吐き気を催すほどの不幸にまみれた子どもというおぞましい現象はない。だけど、どんな国であってもすべての人が同じように完璧な幸福を享受することは不可能で、だれもが同時に少しずつ不幸であることでしか平等は成しえない。たとえどんなに邪悪な者であっても、自分を不幸にすると分かっている存在であったとしても、だれかの存在を地下に押し込めた上で得られる幸せを、エルファバは選ぶことができなかったのだ。
▼『オメラスから歩み去る人々』はこの短編集で読めます
と、ここまでどう転んでもシリアスになってしまう感想を書いていたら書ききれなかったAs Long As You're Mineのところなんですが、ここは別の意味で子どもに見せにくい映像になっててキャー////ってなっちゃった…。後編序盤からエルファバが隠れ住んでる部屋の描写があり、個人的な思いのある品々が細部までちゃんと用意されていて、あの部屋にすごく生活の雰囲気を感じていたんですよ。そこへ久々に再会したフィエロが来て「へえー、ここがエルファバの部屋、か…」みたいな目で部屋のなか見まわしてて、勝手に恋人が初めて部屋に来たドキドキを追体験する一観客のわたし…。前編でもフィエロ役の方、エルフィーに恋した後に彼女を見つめる「賞賛の眼差し」の演技が素敵だったんですよね。かと思えば二人とも自然な流れで上着脱いでて…あっ、エルファバは自分ちだからそりゃ着替えるか…フィエロも部屋の中でずっと軍服着てたらくつろげないよね…えっ、サスペンダー…も…!?……はわわわわわ
▼映画前編を観たときの感想
▼舞台を観たときの感想
