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銭清弘『芸術をカテゴライズすることについて』

サブタイトルは「批評とジャンルの哲学」
批評というか、批評のことをも含む芸術鑑賞のことと、ジャンルについて
銭さんの博論の書籍化だが、博論からだいぶリライトしているとのこと
もともと、例えば応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2などで、もとになるアイデアについては触れていたが、こうして一冊の著作として読むことができてよかった
刺激的だし、ジャンル実践について説得力のある議論だと思った
一方、一般的な、通俗的な、あるいはぼく個人の直観とは異なるところもある。そうしたところへのフォローもなされてはいるのだけれど……。色々な人の感想も聞いてみたい。
自分はジャンルについての伝統説もそれなりに惹かれる

はじめに
第一章 批評とは鑑賞のガイドである
第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない
第三章 鑑賞とは卓越性の測定である
第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する
第五章 カテゴライズは単なる分類ではない
第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである
第七章 ふさわしいジャンルとは制度である
第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

はじめに

この本で何をどのように論じていて、何を論じていないかが書かれている。
さーっとひっかかりなく読んでいたが、ブログのために見直した際、本書では、経験主義を擁護することなく採用してる(が、その前提を今は疑っているとも)と書かれているのに気づいた。
アリストテレス的説明とか、あんまり経験主義的ではないのではないかと思ったのだけど、7章の鑑賞の最適化とかが経験主義なのかな。

第一章 批評とは鑑賞のガイドである

 1 批評とはなにか
 2 鑑賞ガイドではない批評があるとする反論に応答する
 3 批評ではない鑑賞ガイドがあるとする反論に応答する
 4 酷評も鑑賞ガイドなのか
 COLUMN 選択ガイドとしての批評

鑑賞ガイドではない批評や、批評ではない鑑賞ガイドもあるのではないか、という反論に対して答えている(必要性と十分性の検討)


批評ではない鑑賞ガイドもあるのではないかを検討する中で、サティの曲に対する2つの対照的な演奏を例に出して、こうした曲に対する解釈がなされた演奏も、サティの曲の鑑賞ガイドとして機能しているので、批評といえる、という主張がされている。
「批評的だ」と言われる時の用法の少なくとも一部は拾っているといえそうで、妥当だとも思える反面、批評っていうのはあくまでテキストであって、そうではないものを「批評的」とか「批評性がある」とかいうのは比喩表現なのではないか、と考える余地もある。
「鑑賞のガイド」という考えは、基本的にはしっくりくるのだが、「批評」という言葉の定義として用いるには広すぎるような気もする。


選択ガイドは批評ではない
どれを買えばいいよ、的な奴は批評じゃないよ、と。それも批評だというと、Amazonのリコメンドのアルゴリズムも批評ということになってしまう。

第二章 鑑賞とは単なる好き嫌いではない

 1 芸術鑑賞は好き嫌いの問題なのか
 2 素朴な主観主義に反し、鑑賞は単なる好き嫌いの問題ではない
 3 ヒューム的説明――鑑賞は好き嫌いの問題だが、鑑賞者については有能さが問えるとする見解
 4 ヒューム的説明の問題点――理想的鑑賞者は一方で十分な権威を持たず、他方で過度な権威を持つ

主観主義に対して、芸術鑑賞には深刻な意見対立があるという事実と教育可能性の観点から、素朴な主観主義は成り立たないことを指摘している。
主観主義が支持されるのはむしろ客観主義への反発だろうとした上で、客観主義は「正解」があるということではない、としてその反発を和らげる。
鑑賞を説明する理論は「主観制約」と「客観制約」を満たす必要がある。


主観主義の代表例である「ヒューム的説明」
理想的鑑賞者により、客観制約を満たそうとする。


理想的鑑賞者の問題点

  • レヴィンソン

→なぜ「私」が理想的鑑賞者の意見を気にする必要があるのか
→快楽の最大化のため

  • ジェームズ・シェリー

→レヴィソンの説明は、過小評価をやめる理由にはなるが、過大評価をやめる理由にはならない

  • アレクサンダー・ネハマス

→画一化の問題(ネハマスの悪夢)

第三章 鑑賞とは卓越性の測定である

 1 鑑賞の客観的側面から出発する
 2 アリストテレス的説明――鑑賞は好き嫌いの問題ではなく、特定の目的に照らした測定だとする見解
 3 主観制約を満たさないことは美的なものと芸術的なものの区別によって正当化される
 4 アリストテレス的説明に残された課題――観点選択の問題
 COLUMN ムーア的説明?

鑑賞についての「客観制約」と「主観制約」
前者の方から鑑賞を考える


アリストテレス的説明=目的論的アプローチ
卓越性の測定としての鑑賞
芸術的価値の多元主義にコミット


主観制約を満たさない
→美的と芸術的を区別することで正当化


芸術的価値の多元主義
(1)卓越性は、ある目的を首尾よく達成できる限りにおける良さであり、端的な良さではない
(2)美的価値は、芸術の種類によって卓越性に寄与することもあれば、そうでないこともある
(3)有能な鑑賞者の普遍的な基準は存在しない(ネハマスの悪夢の回避)


アリストテレス的説明にとって、観点選択が課題


理屈としてはわりと納得できるが、感覚としてはなかなか
確かに、美的経験を伴わない芸術作品もあるわけだし、主観経験に重きをおくのもおかしいよね、というのは理解できつつ、しかし、「卓越性の測定」なんて実際そんなやってないのでは、という気もする。
もっとも「鑑賞」という言葉はそもそも多義的である、という予防線も張られているのだが。

コラム ムーア的説明?
  • ケレン・ゴロデイスキー

良いものは良いと世界の側で決まっているというムーア説を芸術へ拡張した
芸術作品に芸術的価値があるかどうかは世界の側で決まっている
芸術的価値は美的快楽を引き寄せる
美的快楽によって芸術的価値があることを知ることができる
芸術的価値について、形而上学的にも認識論的にも神秘化されている点が問題

第四章 鑑賞はカテゴライズに依存する

 1 カテゴライズが鑑賞を左右するとはどういうことか
 2 反文脈主義から文脈主義への移行
 3 美的判断はカテゴライズによって左右される
 4 美的判断論から芸術批評論へと拡張する

ウォルトン「芸術のカテゴリ」解説
ウォルトン論文そのものだけでなく、論文が発表された当時の文脈や、論文発表後にこの論文に対してなされた解釈も紹介されていて、非常に勉強になる。
特に、2020年に、「芸術のカテゴリー」出版50周年記念でウォルトン自身も含めて再検討されていたのは面白い(ウォルトン自身、当時の自分の意図がわからなくなっているところがあったり、ほかの人の解釈に対してお墨付きを与えたり、していたようだ)

主観的テーゼ:作品を鑑賞するカテゴリー次第で、特徴への重みづけが変わり、知覚される美的性質も変わる
規範的テーゼ:作品には、そのもとで鑑賞するのにふさわしい特権的なカテゴリー(Nカテゴリ)がある。これは、文脈的なものを含む一連の考慮事項を通して決定される
認識論的テーゼ:カテゴリーに依存した美的判断にとって、狭義の知識は必要でも十分でもない。美的判断は知識を動員した推論ではなく、学習を経た知覚だけに基づいて下される。(pp.96-97)

認識論的テーゼについては、認知的侵入説と知覚学習説という2つの解釈があるが、前者ではなく後者だ、とも整理されている(ウォルトン自身が後者の解釈にお墨付きを与えている)。
ウォルトン論文は、反文脈主義から文脈主義へと美学の傾向が変わっていく流れの中に位置づけられている。
が、規範的テーゼが文脈主義的である一方、認識論的テーゼは反文脈主義的である、という複雑なところがある。


エリザベス・シェリケンスによる、美的判断の形成と正当化の区別
→ウォルトンは形成についてのみ述べている
ブライアン・リーツによる、カテゴリーが役割を果たすケースの場合分け
→カテゴリーは様々な役割を果たすが、ウォルトンはそのうちの一つのことしか言ってない


何故ウォルトンは美的判断の正当化に触れていないのか
→シブリーの非推論性テーゼを前提しているから
→ところで、シブリーは知覚的証明、という非推論的な正当化を主張している
→が、実際の批評実践において、正当化はなされているのではないか?
→シェリケンスは、美的判断の形成と正当化を区別することで両立を試みている
筆者:美的性質と非美的性質の正当化構造を実現しているのものこそ、カテゴリー

第五章 カテゴライズは単なる分類ではない

 1 ふさわしいカテゴリーと属するカテゴリー
 2 芸術作品は属するカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるとは限らない
 3 芸術作品は属さないカテゴリーにおいて適切に鑑賞されるかもしれない――奇妙さからの論証
 4 純粋な認知主義との決別

  • NカテゴリーとCカテゴリーの区別

Nカテゴリー:ある作品をそのカテゴリーのもとで鑑賞すべきカテゴリー
Cカテゴリー:ある作品が所属するカテゴリー

  • NカテゴリーではないCカテゴリーはあるか

→ゲルニカス
→そもそもウォルトンがNカテゴリーを選ぶ考慮事項に意図や確立を挙げていた。Cカテゴリーの中からNカテゴリーを選び出すため。

  • CカテゴリーではないNカテゴリーはあるか

筆者は、革新的な作品における奇妙さのパラドックスを提示している
これがパラドックスなのは、NカテゴリーはCカテゴリーでもあるという前提の時
背理法的に、NカテゴリーはCカテゴリーではないことがあることが導かれる。
「4分33秒」は、古典音楽として聞くと奇妙な作品であり革新的であるが、コンセプチュアル・アートとして聞かれる場合はそうではない。そして「4分33秒」のCカテゴリーは、古典音楽ではなくコンセプチュアル・アートである。しかし、「4分33秒」は、奇妙で革新的な作品である。

  • 純粋な認知主義との決別

作品がどのカテゴリーに属しているかと、作品をどのカテゴリーのもとで鑑賞すべきかは別問題
=カテゴリーに依る芸術鑑賞(「カテゴライズ」)は、単なる「分類」ではない

第六章 ジャンルとは鑑賞のルールである

 1 ジャンルとはなにか
 2 ジャンルとは作品を分類するための諸概念であるとする見解 
 3 ジャンルとは鑑賞を統制するルールであるとする見解
 4 作品はジャンルへと分類されるのではなく、ジャンルのもとにフレーミングされる
 COLUMN 1 伝統としてのジャンル?
 COLUMN 2 ジャンルとしてのカラー写真

カテゴリにも色々な種類(メタカテゴリ)がある。
メディウム、形式、様式、そしてジャンル
本書は、ジャンルを分類概念として捉えることに反対し、分類説に対して統制説を提案する。

  • 分類説

分類ルール:作品Xが性質Fを持つならば、XはジャンルKに属する。
ジャンルをほかのメタカテゴリからどうやって区別するか
追跡する特徴の種類によって区別できるのではないか
分類説の問題点 
→追跡する特徴が多様で、ジャンルというメタカテゴリの個別化ができない


ジャンル理論が捉えるべき二つの側面
(1)ジャンルは鑑賞や批評を左右する
(2)上述の規範的な効力と無縁でない仕方でジャンルは社会的


ジャンルは、評価、解釈、鑑賞的反応を統制する
ジャンルは批評的理由付けの背景となる

  • 統制説

鑑賞ルール:作品Xが性質Fをもつならば、Xに対して鑑賞的反応Rをせよ
鑑賞的反応=評価、解釈、想像、知覚、注意、共感、知識形成など
分類ルールは構成的ルール、鑑賞ルールは統制的ルール


リーツによる、カテゴリーが関与する場合分け
(1)直接的に関与的なケース(贋作とか)
(2)比較において関与的なケース(ヒッチコック映画とか)
(3)目的論的に関与的なケース
いずれもルール化できる


ジャンルのルールの明確化
(1)鑑賞ルールの入力には限度がある
(作品のあらゆる要素が入力になるわけではない)
(2)ジャンルのルールの出力ははるかに広い
(本書では「鑑賞的反応」と鑑賞者に限った話をするが、創作や編集、修復、キュレーションなど様々な関与を統制しうる)


ルールは何でもジャンルになるわけではない
有効なルールだけがジャンル
→ルールのセットアップ
作品の理由付けの背後にジャンルが位置づけられる
(このブラシストロークがあるから優美だ、というのが理由だとして、ブラシストロークが優美になりうるのはその絵画が印象派だから、というのが理由の背景にあるルール)
ジャンルをセットアップする社会的基盤とは何か?
→共有された信念? 人々のふるまい?


「この作品はホラーだ」という言明は、分類ではなく「フレーミング」
提案行為
セットアップのもとをたどればフレーミング


なぜジャンルなのか
(1)ジャンルはほかのメタカテゴリと違い強引な帰属を許容する
(2)様式や形式はしばし「~を持つ」と言われるのに対して、ジャンルはそのように表現されない
ジャンルとほかのメタカテゴリ(様式・形式)にはこのような非対称性がある
にもかかわらず、ジャンルが分類概念とみなされるのは何故か
カテゴリーは多機能的で、同じカテゴリーがジャンルとしても様式としても用いられることがあるため
(例えば俳句は形式だがジャンルのように機能するものもある)


構成的なルールは統制的ルールに還元可能(構成的なルールは統制的なルールから導出可能)(グァラ)
分類ルールは鑑賞ルールから導出可能

コラム 伝統としてのジャンル

エヴニンの伝統説を紹介している
エヴニンは、ジャンルのもつ規範性を、シェフラーによる伝統の説明を参照しながら説明している
筆者は伝統説の問題点として、全体-部分関係の推移性を挙げている
筆者は、伝統説と自分の統制説がある意味では似ている(規範性や社会性を説明しようとしている点)としつつ、伝統説は存在論的にラディカルすぎるので、伝統説までいかず、統制説で十分と
テローネが、クラスタ説を提案しているが、これは分類説の亜種

第七章 ふさわしいジャンルとは制度である

 1 ふさわしいジャンルはなにによって決まるのか
 2 ふさわしいジャンルは作者の意図によって決定されるという見解
 3 ふさわしいジャンルは制度的に決定されるという見解
 4 いいとこ取りとしての制度主義
 COLUMN ジャンルとしてのヴェイパーウェイヴ

観点選択の問題を解決する
ジャンルの決定について、意図主義に対して制度主義を提案する。


ふさわしいジャンルとは、鑑賞の最適化という課題に取り組むジャンル選択ゲームにおける、均衡=制度
鑑賞の最適化には、個人的なインセンティブと共同体的なインセンティブがある
自分の経験を最大限よくしようというインセンティブと、自分のやり方が周囲の人に受け入れられたいというインセンティブ
ジャンルは新設される
ふさわしいジャンルは偶然的なもので改定可能性をもつ
ふさわしいジャンルは共存することがある(『ねじの回転』は幽霊譚か精神分析小説か、どちらのフレーミングも定着)
作者は、作品にもっとも早くアクセスし、もっとも目立つ形でフレーミングを行うことができる、という点で特権的だが、やっていることはほかの鑑賞者・批評家と同じ


鑑賞の最適化のスタートは、鑑賞者の好き嫌い、という点で制度主義は主観制約を満たす

コラム:ジャンルとしてのヴェイパーウェイブ

自分はこの本の筆者を、まさにヴェイパーウェイブの紹介などをしていた頃に知ったので、いまだにヴェイパーウェイブ好きな人というイメージがあるのだが、当時自分で書いたものの意味がわからなくなっている旨書かれていて、時の流れを感じた

第八章 批評の意義は判断の柔軟性を養うことにある

 1 批評の意義とはなにか
 2 芸術実践をゲーム実践になぞらえる
 3 芸術鑑賞の価値をゲームプレイの価値になぞらえる
 4 芸術批評の価値をゲームデザインの価値になぞらえる

グエンが、芸術鑑賞をゲームプレイに喩えて論じている。
筆者はそれを踏まえて、鑑賞者をゲームプレイヤー、批評家をゲームデザイナーに喩えた描像を提案する(なお、作者ではないのかという点に対して、作者は一番最初の批評家として位置付ける)


批評は鑑賞ガイドであるが、正解へ導くという意味でのガイドではない
観光ガイドのような発散的なガイドであり、柔軟性を養う
主観主義でも客観主義でもなく観点主義




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