タイトルにある通り、センスとは何か、という本
ここでいうセンスとは、美的直観とか美的判断とかいってもいいものだと思う(本書では、直観的な(非推論的な)判断力のこと、と言っている)。
また、本書は、芸術作品と日常生活を連続的なものとして捉えている。つまり、ここでいうセンスは、芸術に対しても日常に対しても使えるもの。また、鑑賞と制作もやはり連続的なものとして捉える。同じ原理が、鑑賞にも制作にも適用できる、と。
具体的に本書で出てくる原理は、リズムで、リズムとはビートとうねりの2つから出来ているという。
この本、『勉強の哲学』『現代思想入門』とあわせて千葉の哲学三部作を成す、というものらしい。これはカントの三批判書を少々意識しているらしい。
この本は、あまり専門的な内容にならずに、読みやすい文体で書かれている。では、専門性がないかというと決してそんなことはない。哲学や美学についてほとんど何も知らないという人にとっても読みやすいし、ある程度知ってる人であれば、何を踏まえた話なのか分かるし、そこでの面白さもあると思う。
その上で、本書はフォーマリズム・モダニズムの立場にたった本となっている。
そのこと自体は本文にも書かれており、隠されてはいないが、しかし、ほんの少しでも美術史をかじったことがあるならば、2024年に書かれた本で、なんの留保もなく、モダニズム・フォーマリズムが前提とされていることに、驚かされるかもしれない。
フォーマリズムはあくまで1つの立場・主義であって、絶対ではなく、これに対する批判というのも色々あるわけだが、そういうことは書かれていない(巻末の読書ガイドで言及されているが)。
このあたりは、入門書であるがゆえに、今何故あえてフォーマリズムなのか、というような議論を思い切って省いたのではないかな、と推測している。
また、上述した通り、本書は、芸術と日常を連続したものとして捉えているし、観賞と制作も連続したものとして捉えているが、やはり、これらもまた1つの立場であって、無前提でこの捉え方が正しいといえるわけではないと思う。
このあたりは、筆者自身も、自分の来歴(制作にも携わっている)からこの立場に至った理由を説明しているくだりはあるものの、こうした立場を積極的に擁護する議論は特に展開されていない。
もっとも、自分はこうした議論がないことが、必ずしも悪いとは思っていない。
こうした議論を省くことによって、本書は非常に読みやすいものになっているし、こうした議論をいちいち展開するのは、本書の趣旨にも沿わないと思う。
ただまあ、読者側は読者側の責務として、省かれた部分は補っておいた方がいいと思うので一応書いておいた。また、そういう議論をねちねちとやっていく哲学もある。それを面白く感じるか煩わしく感じるかは、色々分かれるところだろうけれど、個人的にはそういう哲学に親しんでいるので、「あ、ここに、擁護の議論がなされていない前提があるなあ」と思った次第。
とはいえ、自分は、筆者の立場とわりと近いので、無前提に展開されてもそんなに気にならずするっと読めた。
本書は「センスの哲学」と銘打っていて、美学とか美的とかいう言葉はあんまり出てこないが、インテリアの選び方とか料理の味わい方とかいった日常生活の事例がよく出てきていて、近年の英語圏の美学で日常美学が勃興していることとの並行性みたいなことも感じる(本書で日常美学は参照されていないものの)。まあ、センスという言葉は、圧倒的に日常生活の中で使われるのは、当然といえば当然ともいえるが。
内容の話をすると、上にも少し書いたが、自分も立場が近いというか、わりと、自分も似たようなことやってたり考えたりしてたかもな、と思うところもあって楽しかった(本書が「センスが良くなる本」だとすると「自分、すでにある程度センスよかったな」と思えて気持ちよかった、というのは半分冗談だけど、そういう風に読者をくすぐるところはあると思う)。
(自分の場合は主に美術鑑賞においてだけど)意味ではなく形や色の配置(リズム)を捉えようというのは、そうだねえ、という感じだったんだけど、リズムをさらにビートとうねりに分類しているあたりとかは、とても興味深かった。
ビートとうねりの配分を、エンタメ性と芸術性の関係として捉えているところとか。
あとは、崇高の話とか、反復と個性の話とか。
以下では、気になった箇所をゴリゴリ書いたので、もしかしたらネガティブな感想にも読めるかもしれないけど、面白い本だった。
千葉雅也の文章を読むのは、なにげに初めてだったかもしれない。
ところで、全然どうでもいい話なんだけど、千葉雅也のこと、twitter(X)のアイコンに使われている写真で長年認識していたので、本書の近影見て「あれ、俺が千葉雅也だと思っている人って別の人か」って戸惑った。ググると、両方の写真が検索結果に並び、見比べると同一人物であることは納得できると同時に、髪切ると結構印象変わるなあとも思う。
ちなみに、本書を読もうと思ったきっかけは、センスが良くなるだけでなく、新しい目を得る一冊『センスの哲学』: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
「「予測誤差の最小化」という視点からの芸術論」
「対象をリズムやうねりとして「脱意味的」に楽しむ―――この考え方は、ゴンブリッチや佐藤亜紀の指摘で薄々気づいていたけれど、こう順序だてて明確に述べられると、沁みるように分かる。」とあったので。
予測誤差の話については後述する
ゴンブリッチや佐藤亜紀云々はむろんdainさんの感想なので、どこがどうゴンブリッチや佐藤亜紀なのかは、自分でちゃんとゴンブリッチや佐藤亜紀読まないとダメだな、と思った(本書内にゴンブリッチや佐藤亜紀への言及はない)
はじめに 「センス」という言葉
第一章 センスとは何か
第二章 リズムとして捉える
第三章 いないいないばあの原理
第四章 意味のリズム
前半のまとめ
第五章 並べること
第六章 センスと偶然性
第七章 時間と人間
第八章 反復とアンチセンス
付録 芸術と生活をつなぐワーク
読書ガイド
おわりに 批評の権利
はじめに 「センス」という言葉
この本がどういう本か、について。
センスが良くなる本、と謳うわけだが、センスっていうのは生まれつきの才能なのではないかとか、文化資本のような幼い頃からの蓄積が必要なのではないか、という点について、確かに、文化資本の蓄積があって量こなしているのが有利なのは確かなのだけど、ある程度、意識的にセンスをよくしていくこともできるでしょう、と。
第一章 センスとは何か
「センス」という言葉には辞書的には「意味」「感覚」「判断力」という3つの意味があって、本書で扱うセンスは3番目の意味でのセンス。カントが判断力といった奴
上手い/下手/ヘタウマ
まず「上手い」というのは、モデルをそっくり再現できていることを指す(少なくとも、世間一般で、絵が上手いね、というとそういう再現性の高さを指す)
次に「下手」というのは、再現しようとして失敗していることを指す
ここでは、下手=センスに対して無自覚(「センスがない」という表現を本書は「センスに無自覚」と言い換える)。
例えば、アンティークな部屋を作ろうとして、アンティーク風の安物を置いちゃう、とかが下手=センスに無自覚
これに対して、そもそも再現を目指さない=ヘタウマが、センスをよくする道なのだ、という。
例えば、ゴッホとかモネとか再現的ではないでしょ、と。
色々とモデルになるものをインプットするのは大事だけど、それをそっくりそのまま再現しようとするのはよくない、と。
ゴッホとかモネとかもある意味ヘタウマなんですね、ということが書かれていて、一瞬びっくりする。無論、この本においてヘタウマとは、再現性を目指さないことを指すので、その意味ではその通りである。
ただ、ヘタウマって言葉はもともともう少し「サブカル」っぽい文脈の言葉だったと思うので、自分はそのあたりよく知らんけど、なんか若干のフォロー(「元の意味とは少し離れますが」だけでいい)があってもよかったのではなかったか、と思わなくもないでもない(気にしすぎか)。
第二章 リズムとして捉える
では、再現性を目指さない、というのは具体的にどういうことかというと、この章題にある通り「リズムとして捉える」ということになる。
「意味から強度へ」というフレーズが参照されたりもしているが、意味として捉えるのではなくて、リズムとして捉える。
例えば、スタンドライトについて、形のリズムを見てみる。丸い部分があって細長い部分があって傘状の部分がある、みたいな。
あるいは、餃子について。味のリズムを捉える。熱さとか辛みとかが、バッと出てきてジュワーっと広がる、みたいな。
本書の表紙にも使われているラウシェンバーグの作品についても、色のリズムとして記述していったりして、餃子と一緒だよね、と言ったりしている。
リズムについて説明する際に、DAWの画面を示してマルチトラックを一緒に説明している。音楽も餃子も、マルチトラックだ、と。
ところで、本書で制作の話が出てくるのは後半からだけれども、ここでDAWの画面を出してくることで、あとで制作の話へつなげやすくしているなあと思う。
第三章 いないいないばあの原理
リズムについて、もう少し細かくみていく
リズムには、2つの原理がある。
- 0と1のビート(存在と不在)
- 複雑なうねり(生成変化)
対立するものというわけではなく、リズムには両面がある
リズムというのは、連続的に変化していくもの(うねり)としても捉えられるし、それを離散的なビートとしても捉えられる
(例えば、濃い茶色の部分と薄い茶色の部分があったとして、それは色の連続的な変化(うねり)としても捉えられるし、濃い部分を1、薄い部分を0として捉えることもできる)
ハラハラドキドキ、サスペンスを楽しむのが、ビートとして捉える楽しみ方
サスペンスは、0という不在の解消と言える。
もう少し微妙な面白さ、味わいみたいなのを楽しむのが、うねりとして捉える楽しみ方。
第四章 意味のリズム
センスとは、脱意味的にとらえること=リズムとして捉えること、だとしたが、本章では、意味もリズムとして捉える
具体的に言うと、絵画とか音楽とかではなくて、小説とか映画とかの作品の鑑賞の仕方の話
物語全体でどういうようなことを言っているのかを「大意味」とすると
物語の部分部分(「小意味」)についてに着目しよう、という
つまり、大雑把に言うと「愛は大切」とか「戦争反対」とかいうメッセージの作品だったとしても、部分部分では、もっといろいろなことが描かれていて、それらの組み合わせがリズムとなっている、と。
大意味に対する感動を「大まかな感動」、部分部分の織りなすリズムを見ていくことで得られる感動を「構造的感動」と呼び分けている
またここでは、意味というのは距離のことだ、というLLM的な意味観をスプリングボードにして、物語のリズム(特にうねりとしてのリズム)を捉えるのは、意味の距離をとらえることだ、としている(近くなったり遠くなったり)
第五章 並べること
リズムというのは、要素の並びである。
リズムとして捉えるというのは、あらゆるものを「並び」として見ることでもある。
並びとして見る、といえば鑑賞者の立場だし、「並べる」といえば制作者の立場になる
「並び」というキーワードで、鑑賞と制作が橋渡しされる、と。
で、映画が例に出される。
前衛映画とか、突拍子もないショットの切り替えとかあって、訳が分からないと思うかもしれないけど、あれは並びのかっこよさともいえるのだ、と。
この章の後半から、予測誤差の話が出てくる。
人間の脳は、予測誤差を最小化しようとする。それは、予測誤差というのは危険なものであり、生物としては安定した状態を求めるから。でも、人間は、予測誤差を楽しむところもあるよね、と。
本書では繰り返し、リズムというのは、「反復と差異」=「規則と逸脱」であるとしている。で、この差異ないし逸脱というのが、予測誤差だろう、という話
これを精神分析側からも説明していて、フロイトの快原理というのは、安定状態を求めるもので、それに対する死への欲動は、逸脱を求めるもの。で、これが、ラカンのいうところの享楽でもある、と。
さらにいうと、ラカンの享楽を、予測誤差の残留として説明しようとしている研究も存在しているらしい。
ラカンの享楽ってあんまりよく分かっていなかったので、そういうことなのかーへーと勉強になった。
で、予測誤差の話なんだけど、なんか分かったような気にはなるんだけど、本当にそれであっているのか、というのは思っている。
美学的な話と予測誤差の話を組み合わすことができたら面白そうだなというのは以前も考えたことがあるんだけど、本当にそれでうまくいくのかな、というのは自分の中の理解不足もあってよく分かってない。
神経美学と自由エネルギー原理? - logical cypher scape2
予測誤差の話って、まずはわりと低次な知覚とか運動とかを説明する理論であって、無論、この理論は、高次なものも同じ原理で説明できるよ・応用可能だよということを主張はしているんだけど、そこは本当に応用可能なのかどうか正直よく分からない。
予測誤差の残留とか、あるいは、6章では予測誤差が小さい場合と大きい場合とで区別していたりすんだけど、そういうのを予測誤差理論でどう取り扱えるのか。
つまり、予測誤差理論って、人間は予測誤差が最小化されている状態が好きだよ・望んでいるよ、ということではなくて、知覚するとか運動するとかって一体どういうことなのかを、数理的にモデル化してみると、予測誤差を最小化していくプロセスとして記述できるのではないか、ということだと思うので、予測誤差をあえて残すんだとか、予測誤差の大きい状態も許容するんだ、とかって、つまりどういうことになるんだ、と。
素朴に考えると、どっちかが間違っているんじゃないの、という気もする。つまり、例えばあるレベルでは、予測誤差の最小化はされていないよね、という話。確かに、本書は、人間は常に予測誤差の最小化をしているわけではない、という話をしているので、予測誤差理論への異議として捉えてもいいのかもしれないけど、そういうニュアンスでは書かれていないような……。
本書は、予測誤差を基本的に危険なもの、ネガティブなものだとしている(だから、それを求めることが「死の欲動」なり「享楽」なりと同一視されるのだが)。ただ、予測誤差が出ていると、ドーパミンが放出されているわけで、別に必ずしもネガティブというわけでもないはず。というか、いかにも危険そうなところ(高所で下が見えている)を恐る恐る歩いてみたら、全然落下しなかった(透明なガラスがはめてあった)! 実は安全だったのか、っていうのも予測誤差だし。
むしろ、予測誤差が大きいと、それは学習のチャンスなので、ドーパミンを放出させているわけで。
予測誤差の話を出してくる面白さとか、それによってわかりやすさのようなものがあるのも確かなのだけど、本当にちゃんと両立している話なのか、というのは正直よく分からない。
話戻って
並びについては、結論としては、何をどう並べてもいい
どんな並びであっても、見る側は何らかのリズムに回収してしまうから。
とはいっても、それを受け入れられない人も多いだろう、と
並びには色々制約を課せられていることが多い。そうやって秩序立てられている
でも、それは、そういう制約を守らないといけない、というわけではない。
そういう制約は、ジャンルを作るもの
クラシックにはクラシックの制約が、ジャズにはジャズの制約が、ポップにはポップの制約がある
クラシック者から見ると、ジャズやポップは音楽に聞こえないかもしれないけれど、それはジャンルが違う、というだけ。
どんな突拍子もない並び方だって、ルールとか設定とかをどんどん抽象化していけば、つながることはつながる。
どんな風に並べてもいい、という最大値から、それにどうやって制約をかけていくと面白くなるのか、という順で考えるのがいい、と。
第六章 センスと偶然性
リズムの面白さとは、ある程度の反復と適度な差異
完全な規則性でも完全にランダムでもない領域に「美」があるんだ、と。
ここでいう「美」はカントのいうところの「美」だ、と。
ところで、規則とランダムの中間領域って、要するに「複雑」のことだよなあと思ったが、本書では、あまりキーワードとして「複雑」は出てこなかった(複雑系の複雑)。
さて、カントと言えば、美に対して崇高があるけれど、ここで千葉は、規則性とランダム性の調和がとれている状態を「美」、そこからよりランダム性にふった領域を「崇高」と捉え直す。
さらにこれを言い直して、予測誤差がある程度の幅に収まるのが「美」、予測誤差がより大きいのが「崇高」としている。
ここで、予測誤差がランダム性とか偶然性とかと結びつけられている。
また、崇高とは、そもそも山岳地帯とかの危険な、それゆえ不快なものに、何故か惹かれてしまうというものだが、ここでも、千葉は、危険ということと予測誤差とを結びつけている。
予測誤差のことを危険と言い換えることで、前の章では「享楽」概念を、この章では「崇高」概念を、「予測誤差」という言葉を使って説明することに成功しているわけだけれど、個人的には、本書における予測誤差の使い方の中で、危険と同一視している点が一番気にかかる。
予測誤差理論と結びつけることで、精神分析や美学が最新の神経科学とも整合していることを示しているようにも読める。
基本的に、人文科学と自然科学とを調停しようとする試みや、哲学者が自然科学を積極的に受け入れていく姿勢自体は、よいことだとは思っているし、人文系の理論にとって、自然科学と整合することは、基本的にはその理論に有利なポイントとなるとも思う。とはいえ、一方で、別に無理して整合性とる必要もない領域もあるんじゃないか、というのも思う。
特に「享楽」概念や「崇高」概念は、予測誤差理論と整合しようがしまいが、価値のある概念ではないかと思うし、さらにいうと、予測誤差という言葉を用いなくても十分に説明できる。本書において、「享楽」は逸脱から説明されているし、「崇高」はランダム性・偶然性から説明されている。
そして、千葉自身が述べているように、崇高を偶然性で説明するのは千葉オリジナルの議論で、それだけで十分面白いものになっていると思う。
話を戻すと
偶然性とどう向き合うかが、その人の個性となる、と
これを運動性とか身体性とかとも結び付けている
モデルに対して届かないズレと余っているズレがあって、前者は下手、後者はヘタウマなのだ、と
楽譜通りに弾く練習ももちろん大事だが、勢い任せに指を動かしてみる、というのも大事、と
それから、自分固有の偶然性を受け入れるのが大事、と。
筆者本人の話として、ジャズピアノを習っていて、まあある程度は弾けるようになったけれど、完全にルール通りに弾けているわけではない、と。で、ある時、それはもう、自分にとって不足ではなく、過剰なのだと思うことにした。ある意味では、開き直った、と。
で、これは、本書を通じて度々出てきていることだと思うけれど、芸術と日常を連続的にとらえている本書では、芸術制作とか演奏とかに趣味として携わることを推奨している感じがあって、それは結構いい観点だな、と思う。
ところで、ランダム性、偶然性、運動性、身体性といった概念が、なんとなく類似しているよね、という感じで、矢継ぎ早に結びつけられていった気がする。
このあたりって、何となく、現代思想系でのキー概念っぽいよなあ、と思うので、「お、キー概念が次々出てきたぞ」と思いながら読んでいた。
ただ、自分はそのあたりに疎いので、十分にはその結びつきなどが分からなかった。
崇高を偶然性と結びつけるとか、もう少し面白がれる余地がありそうだなと思うんだけど。
第七章 時間と人間
芸術とは時間をとること
目的や結論にすぐにたどり着くのではなく、遅延すること、ぶらぶらすること。時間をとることはそれ自体がサスペンスである
時間についてベルクソンへの言及も少しある。無機物、生き物、人間の違い*1
可能性が色々あると、どうすればいいのかわからなくて不安になってしまう。が、そこでまず動いてみる、リズムを作ってみる(まず動こうは、森田療法の考えでもある)
そうやって、何らかの有限性の枠の中に「仮固定」する。それが大事、と。
第八章 反復とアンチセンス
本書は繰り返し、リズム=反復と差異のバランスにセンスを見出してきた。
特に、予測誤差云々の話あたりは、差異に着目していたともいえる。
しかし、ここで反復と差異のバランスをうまくとれればいいのだとすれば、AIにだって同じことができるのではないか。AIが作るものと人間が作るものは同じなのか。
千葉は、確かにそれだけならAIにも同じものが作れるだろうという。また「崇高」にしても、ちょっとパラメータを差異寄りに振ればAIでも作れるだろう、と。
しかし、芸術は人間が作る意味があるのだ、と。
ここで逆に「反復」へと着目する。
同じ作者の作品を見ていると、何度も同じモチーフなりなんなりがでてくることがある。そこに筆者の抱える問題・こだわりがある。
公共性とプライベートなどうしようもなさとの間の葛藤・ジレンマ。その時、どうしようもなさの方に軸足を置くのが芸術
個性には、典型性(テンプレ、ステレオタイプ、クリシェ)の反復がある。
アンチセンスの陰影を帯びてこそ真のセンス
付録 芸術と生活をつなぐワーク
1.作品をリズムとして捉える
2.教養(美術史などの勉強)
3.生活をリズムとして捉える
1と2についてわりと具体的な方法が書かれている。
読書ガイド
フォーマリズム、美学、予測誤差、精神分析の本の紹介など
おわりに 批評の権利
これは、筆者の高校時代から現在までの話。
高校の頃、美術批評を書いたことがあったけど、批評する権利について思い悩んで、いったん離れていたんだけど、ある時期にまた戻ってこれた、みたいな話だったかな。
*1:リアクションに遅延があるかどうか。石は蹴飛ばしたら物理法則に従って即座に動く。でも、動物とか人間とかだったら、色々違う反応が出てくる。石のように蹴られて飛んでく、ということはおそらくないだろう。蹴り返してくるとか、威嚇してくるとか、逃げ出すとか、注意してくるとか。(蹴られるという)作用に対して、「時間をとって」からリアクションを返してくる