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26/2/7 超かぐや姫の感想(ネタバレあり) 言うほどパンケーキ食べたいか?

※この記事には『超かぐや姫』のネタバレが含まれます

ネトフリに加入して超かぐや姫を見た。
まあまあ面白かった、ヤチヨと乃依が好きです。

ハマり役

別に声オタではないが、今まで数多見てきたCV早見沙織キャラの中で一番ハマっていた気がする。安定してるけど安定しすぎて却って無機質にも聞こえる特殊な声質がAI歌姫というキャラにフィットしている。

3秒止まったら死ぬ映画

捲し立てるようなセリフ、オーバーに強調される動き、ひたすら輝き続けるエフェクト。
あの手この手で有り得ないくらい動き続けるので刺激を求め続けるドパガキにとても優しい。その割には作画が全然崩れないのも偉く、何の小細工もなく単なる質で二時間以上押し切っているのは異様ですらある。これがネトフリマネーの力なのか?

一番止まらない人

動かない会話シーンですら動きっぱなしなので、動くシーンでは動くどころではない。
ライブパートでふつうに歌って踊ることすら拒絶し、歌唱や進行にことごとくアレンジを加え、いくつあるのかもわからないカメラが視界を落ち着けることを許さない。
中盤のクライマックスとして、ポケユナ系のチームバトルゲームをモチーフにした合戦パートも圧巻だった。それまで単なる人気者でしかなかったヤチヨが初めて実力と人格を披露し、イロハとミカドの兄妹関係も明らかになってキャラ同士の関係も動き出す。
全てが見せ場のような作品なので人によって好みは大いに分かれそうだが、俺は合戦シーンが一番楽しめた。

「極めて現代的」という月並みなフレーズ

自分で言っていても陳腐な言葉だとは思うが、やはり「極めて現代的」という月並みなフレーズを使わずにこの作品を令和8年に語るのは不可能に近い。

補足639:「極めて現代的」とはその定義上いつでも使えるため常に陳腐な言葉なのだが(江戸時代でもシャポポ時代でも使える)、しかしそれが発された瞬間に限っては今ここを無前提で最も正確に語る言葉でもある。ちなみに、この両極は時間そのものの性質に由来する。

情報量が多いショート動画的な進行に加え、AIやアバターやバーチャルやライバーといった現代的なモチーフがふんだんに登場することも月並みなフレーズを用いる理由に加えてよい。
しかし真に現代的と評すべきなのは、単にそうしたモチーフが現れることというよりは、むしろそれらに大した関心を向けていないことかもしれない。

例えば、大人気ライバーであるヤチヨが「AItuber」であることは誰も気にしていない。イロハは何の衒いもなくAItuberを推していて、「中の人」がいるとかいないとかいう、AIやアバターにありがちな問題意識は最初から存在していない。
中の人が気にされないのはヤチヨ以外のキャラについても同じだ。かぐやはアバター利用と並行して顔出しでも活動しているし、ツクヨミでの友達はリアルでも友達。
強いて言えば「ミカドはイロハの兄だった」という種明かしは「中の人ギミック」に見えるかもしれないが、しかしこれもよく考えるとアバターに由来するものではない。本人たちにとって兄妹関係は最初からお互いに了解されているし、他の人たちにとってもアバターを用いなければ生じなかった事態ではないからだ(リアルでの種明かしと特に変わらないということ、ヤチヨ=カグヤについても同様)。
総じて、アバターを扱う割には「中の人問題」が等閑視されている印象がある。「中の人はいったい誰なんだろう」という関心や、「リアルとアバターのギャップが凄い」というキャラは描かれない。

もう少し大きく語るなら、「バーチャルを扱う割にはその虚構性には全く踏み込まない」と言ってもいい。
バーチャル空間ツクヨミはリアルと地続きで存在するちょっと華やかな空間でしかない。リアルのステータスとネットのステータスは概ね一致していて、VRからARへはシームレスにスライドできるし、ツクヨミに出かけるのは渋谷の繁華街に出かけるのと大差ない。バーチャル空間そのものを物珍しそうな目線で見つめる時代はもう終わったのかもしれない。

いつでもどこでもお友達ズ

まだまだある。中盤の展開を牽引したライバーのフォロワー獲得争いにおいて、アテンション・エコノミーに係る課題は全く描かれなかった。
ヤチヨとのコラボという報酬が法外に有益であることは多くの者たちに認識されていただろう。超人気ライバーとのコラボによって人生を変えたい人、莫大な富を得たい人、承認欲求を満たしたい人は無数にいただろう。そこを切り口としてライバーというテーマを掘り下げることも可能だったはずだ。少し前までのアイドルコンテンツでは、キラキラした見かけと対比させてドロドロした裏面を描くのが流行っていた。
しかしこの作品ではそういうシリアスさにカメラが向くことはない。カグヤには人気者としての天賦の才があって、イロハには裏方としての天賦の才があって、友達は二人ともインフルエンサー、それで終わり。

補足640:主人公とヒロインを両方とも女性にしてカジュアル百合の文脈に仕立てたこともここに並べていいかもしれない。協調するのが男女だったりシットリした関係の女同士だったりすると恋愛感情に係る駆け引きとかを深読みされるのが面倒臭いが、友達程度のカジュアル百合ならフラットなままでメインキャラ同士の信頼関係を把握できる、つまり「恋愛問題」を掘り下げずにいられる。ちなみにここで俺が言っているのは「少なくともマジョリティはレズビアンの真剣な恋愛を念頭に置かないだろう」という推定までで、「マジョリティはレズビアンの真剣な恋愛を念頭に置くべきではない」という規範については何も述べていない(このポリティカルな留保が必要な時代なので補足に回した)。

それはもう問題じゃないから、フラットに行こう

つまりこういうことだ。
AI、アバター、バーチャル、ライバー。そういう現代的なモチーフは扱う。
しかし、AI問題、アバター問題、バーチャル問題、ライバー問題。そういう現代的な問題は扱わない。しかしなぜ?

一つには、単にそれらのトピックが登場してからもうだいぶ時間が経ったのが令和8年という現在地だからだ。
真に浸透したものは透明化するものだ。わざわざアバターについて深く考えて穿ったことを言ってしまうのはまだアバターを見慣れない世代だからで、最初から「そういうものがある」という認識になればいちいち意識することもなくなる。

補足641:ベンヤミンの映画論とかを読んでいるとき、「何故そんな当たり前すぎることをわざわざ感慨深そうに言っているのか」と温度感に引っかかることがあるのに似ている。スローモーションという概念がまだ新しい世代はその効果を考えずにはいられないが、生まれたときからスローモーションを目にしていた世代はわざわざ意識に上げて焦点化しない。

もう一つは、種々のトピックが持つ負の側面をオミットしたかったからかもしれない。
トピックを掘り下げたとき生じるそれらしいテーマ、「問題」とか「論点」とか「葛藤」とかいうのはいずれも対立ではあって、対立であるということは考え方が分かれ得る。AIの人格をどう見るか、アバターの中の人についてどう考えるべきか、バーチャルからは何を得るのか、ライバーとの距離感はどう保つべきか。
鑑賞者が持っている一家言と作中でうっすらとでも称揚されたテーゼが噛み合わなかった場合、視聴体験に不要な軋轢を生じてしまう。

補足642:旧エヴァに精神を破壊された世代がバーチャル空間を扱う映画を見るたびに「現実に帰れ」という幻聴を聞いてヒステリー発作を起こすように。

安直な社会反映論に持ち込む気はないが、そういう礼儀の感覚を現代的と言って怒られることもないだろう。地雷が埋まっていそうな話、シリアスになりそうな話、思想がありそうな話、そういうリスク因子はお互いに不快にならないように避けて通った方がいい。

やっぱクリエイターというよりはマーケター

ところで、ここまで感じたような印象は監督自身がもうだいたい語っていることでもある。
kai-you.net例えばあの手この手で関心を引き続けることの重要性、そして闇っぽい要素の不要性については以下の通りだ。

盤外戦術の部分で知名度を上げて、この後にあのキャラクターや曲が出てくるんだって期待を持ってもらった状態で、やっと耐えてもらえるのが24分という時間。この工夫ができなかったら無理な構成ですし、いかに興味を持続してもらうかは原作の無いオリジナルなら絶対に気にしなくてはいけないポイントです。

全体の傾向として、なんとなく雰囲気が重苦しいものが多いとも思っていたので、絶対に暗い雰囲気の作品にはしないようにしました。やはり人間の闇みたいな部分を思い切り表に出すと、単純に見ていたくなくなると思うんですよね。

こういうスタンスをあっけらかんと語るところはクリエイターというよりはマーケターに近いと思う。
「面白いから見てくれるだろう」という甘えがなく「見てもらうにはどうすべきか」「見る人はどう思うか」を考え抜いていくタイプ、「やりたいこと」だけではなく「やるべきこと」を常に意識しているタイプ、商業的な成功に徹して分析的な最適解を打ち続けられるタイプ。
ちなみに直近のヒットコンテンツである『まのさば』のインタビューを読んだときも全く同じことを感じたし(→)、これはコンテンツ供給過多な現代において明確に成功パターンの王道なのだろう(マーケティングをクリアできなかったコンテンツは単に可視化されないという観測問題でもある)。

一応留保しておけば、俺はこういう商業最適なやり方を批判するつもりは全くない。確かにこれは大衆に阿った迎合的なやり方かもしれない、しかしエンタメが大衆に阿って何が悪い?
「マーケティングとクリエイティブは両立しない」というのも明らかに誤解である。もしそう思ったとすれば、質の低いクリエイティブが身の丈に合わないマーケティングによって目に付いてしまっただけだ。その二つが両取りできるということを示すには、『超かぐや姫』や『まのさば』を多くの人が面白いと思っているという事実だけで十分だろう。

補足643:しかし一応留保しておけば「世の作品が両取り作品だけになってしまっては面白くない」という数量的な問題はあると思う。確かに両立は可能だとして、それで可能なことの幅はそれなりに限られる(両立は制約ではある)。

補足644:ちなみにフォロワーが「こういう作家性で戦っていない作家の作品を批評しようとして批評がバグっているのをいくつか見た」というだいぶ面白いことを言っていて、それはいかにも有り得そうなことだと思う。批評にも無数のスタイルがあるが(批評の定義論争を今ここでやるつもりはないのでカテゴライズ周りは所与とするが)、そのうちのいくつかはマーケタータイプの制作者による作品に対しては厳しい立場に立たされるだろう。例えば、意図を鎹として作家と作品を結びつけるタイプのオーソドックスな批評はかなり機能しにくくなる。作家が「やりたいこと」よりも「やるべきこと」で作品を制作している以上、「この要素にはどんな意図があるのか」と問うたところで返ってくるのは作家の信条ではなく消費者の欲望だけかもしれない。他にも、作品から新たな概念やロジックを発掘しようとするタイプの批評もやや相性が悪い。既に広く共有された快不快への最適化を目指すことは、基本的には新たな論点を提起することの逆を向くからだ。

そうはいっても優しい世界

さて、いかに対立的な事柄が好まれない時代であるとはいえ、本当にシリアスな物事全てをオミットしてしまったら面白くないということには監督本人が言及している(マーケタータイプの監督は言語化能力が高いので自分で全部語ってしまう!)。

とはいえ、ただ単に明るくすればいいというものでもなく、たとえば物語の土台の部分にシリアスな設定があったとしても、察せる程度に表現するなど工夫できると思うんです。なので、暗い部分をなくすために嘘をつくのではなく、うまく隠すというやり方にこだわりました。

例えばイロハは親との関係が順調ではないし、ヤチヨは8000年分の巨大感情を抱えているし、カグヤもいつかは月に戻らなければならない。

しかしここでもコントロールが徹底しているのは、シリアスな要素の中でも「悪意の介在」だけは確実に排除していることだ、キャラが悪意に翻弄される展開は気持ちよくないから。「あっ、いま悪意の気配を明確に嫌ったな」と思ったシーンは二つあった。

一つは月の使者との戦闘。
「カグヤが月に帰らないといけない」というプロット上で最大の障害を実行する主体である月の使者は明確なヴィランであってもいいのだが、それが悪者に見えないように配慮され尽くしている。使者は人格のない無機的なイメージで描かれているし、カグヤ自身も帰還自体には納得しているし、直接戦闘も潤沢な作画リソースを用いてMV仕立てにすることで注目点を闘争から美術にズラしていく。

もう一つはカグヤの帰還失敗は物理的な事故でしかないこと。
8000年待機に繋がった原因もやはり人格的な主体による妨害ではない。業務のためにカグヤを拘束すると月の使者が悪意的な敵に見えてしまうのでその手段は取れず(実際、カグヤは業務を爆速で終わらせたらしい)、代わりに持ち出されるのはただの岩だ。無機物!

あとは中盤で「ここからはハードな展開になる」とヤチヨが明らかに視聴者へのメタ警告メッセージを発しているのも気が利きすぎている。
シリアスな設定を許容可能な範囲に制約した上で、それすらも匂わせる程度に留め、更にそれが描かれる前に注意喚起を配置しておくという三段仕掛けのサニタイズがある。

言うほどパンケーキ食べたいか?

そんなハードな展開の結末として、最終盤にはカグヤがタイムパラドックス的なものに巻き込まれて姿を消し、イロハが科学を頑張ってカグヤの肉体を取り戻す大団円に繋がっていく。

ただこの展開はけっこう不可解ではあり、X上でも疑問の声は散見される。

こうした「そもそも復活したカグヤって誰?(ヤチヨがカグヤなんじゃないの??)」という設定上の疑問をクリアするエクスキューズがどこかの資料で語られているのかどうかは定かではないが、幸いにもマーケターの作品であることを踏まえると商業的な判断としてやりたかったことは完全に理解できる。

「ハッピーエンドの竹取物語」というコンセプトを踏まえて月に帰ったカグヤを取り戻す展開は絶対にやりたい、あと2周目の視聴体験に向けてヤチヨのキャラを厚くするために8000年を背負っていることにしたい、しかしキャラクターIPとして3人ペアで売りたいので誰か1人を消えたままにはできない、その辺りの要請が合流したのがああいう展開だったのだろう。

パッケージ

さて、そんな終盤においてイロハがヤチヨ(≒カグヤ)に身体を与えることを決意した直接の理由は「ヤチヨは身体がなければパンケーキを食べられないから」だが、これはよく考えるとイマイチ腑に落ちない。ヤチヨに「バーチャルパンケーキは美味しいな~」と言わせてはいけない理由はないし、むしろ笑顔でそう言っている方が自然な気がする。

というのも、「ヤチヨがパンケーキを食べられない」という事態は、明らかに「リアルとバーチャルは味覚のような身体性の持ち方が異なる」とか「アバターないしAIの中の人には越えられない味覚の壁がある」とかいう攻殻機動隊のような古色蒼然としたバーチャル観やアバター観を前提としているが、それらはこの映画ではむしろ積極的に踏み越えてきたもののはずだからだ。
ヤチヨはAIと見做されていたときですら他のキャラと同じように豊かな内面を持つキャラだったはずで、「そうは言ってもバーチャルな存在は味覚のようにリアルな要素を持てないのだ」という説明には説得力がまるでない(視覚や聴覚や心情や信念は持っているのに!?)。

補足645:アバター技術がまだ味覚を再現できないことは序盤から説明されているが、それは元よりバーチャルな存在であるヤチヨが主観的に味覚を感知できるかどうかとは全く関係ない。

補足646:外野の「こうすればよかった」は基本的に戯言なので補足に回すが、せっかく冒頭でパンケーキを使った印象深いシーンがあったのにそこを回収しなかったのももったいなく感じる。イロハが貧困ゆえに作っていた水と小麦粉のクソパンケーキをカグヤがなんだかんだで気に入っていて、8000年間どうしても食べたかったけどバーチャルな世界ではどうしても再現できないとか、純粋に味覚だけの問題というよりは二人の絆を象徴するようなエモい読み方を提供しても良くなかった?

この辺りを批判的に見れば、視聴体験に負を呼び込む要素をオミットし続けた歪みが最後に表出してしまったと言うことはできる。
つまりトピックに係る論点と悪意を徹底して回避してきたためにクライマックスで乗り越えるべき課題を連続的には設定できず、今までフラットに透明化してきたはずのAIと人間の区別、ないしリアルとバーチャルの区別という手垢の付いた旧世代的な問題意識を密輸入せざるを得なかったと言ってもいい。

とはいえ、そういう軸で論点を設定してしまうこと自体が旧世代の的外れな期待なのかもしれない。最初から意識していないということは、その気になれば改めて意識できるということと必ずしも矛盾するわけではない。
何より「そうは言ってもこの映画流行ったでしょ?」で無効にできるのがマーケターの最も優れていて最も憎らしいところでもある。




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