暗号学園のいろは
西尾維新がWJの連載に現れるのは15年近く前の『めだかボックス』以来だ。あちらも大概情報量の多い漫画ではあったが、『暗号学園』は全ての回が『めだかボックス』の一番重い回と同じくらい重かった。
もっとも、この漫画のテーマが「暗号」である以上はそれもやむを得ないことかもしれない。暗号とは表面的な記号の裏に本当に伝えたい真意を隠す営みであり、それ故にハイコンテクストな情報の塊を生み出さざるを得ない。
そういう「暗号感」は作品全体に通底しており、セリフ回しやキャラクター造形からバトルに至るまで縦横無尽に暗号が充満した秀逸な漫画だった。
言葉遊びも暗号みたいなもんやし
少しフォーマルに言えば、暗号とは第三者からの盗聴に備えて伝達情報を難読化する手法である。
逆に言えば「第三者以外=本来の関係者」に対しては正しく情報を伝える必要があり、このために暗号は「正しく読み解いた者だけが真意を知る」という謎解き要素を含むことになる。
こうして謎解きという角度で見れば、暗号ほど西尾維新と相性の良いテーマもないだろう。彼がデビューから一貫して得意としている「言葉遊び」もまた、読んだままの表面的な意味の後ろに真意を隠す謎解きの一種だからだ。言葉という記号を介した隠蔽の手ぶりは暗号と謎解きで同型であるとも言える。
暗号と言葉遊びの共通点について、作中から一つ例を挙げてみよう。
西尾維新の作品では登場人物の名前を用いた言葉遊びが定番だが、例えば『暗号学園』にも「凍」という名前のキャラが存在し、彼女の口癖は「大きな声じゃ言えないがね」だ。
つまり「凍(こごえ)」と「小声(こごえ)」がダブルミーニングになっているのだが、これは名前を用いた言葉遊びであると同時に暗号の一種とも解釈できる。「凍」という表面的な記号を正しく言い換えて読み解くことができれば、「彼女は小声で話す=裏方でこそこそ動くキャラクターである」という深いキャラ造形の情報にまで到達できるからだ。
このように拡大解釈していけば、『暗号学園』においてテーマである暗号、ないし作家性である言葉遊びに由来するハイコンテクストぶりは台詞や作画や動作や設定にまで及んでいると見ることもできる。
例えば登場人物たちは必ずしも暗号ではない台詞においても言外の皮肉や意趣返しを重ねていることが多い。文字通りに留まらないメッセージは傍点の多用に象徴されるほか、逆に「相手の言葉をそのまま真に受ける」「何の裏も含みもない台詞を発する」ということ自体がギャグシーンや見せ場として機能したりするのが面白いところだ(普通は逆だろう)。

そして作画におけるハイコンテクストも枚挙に暇がない。
単行本巻末で紹介されているように、単にストーリーを進行する以上のモチーフやギミックがコマの端にイースターエッグとして仕込まれていたりするし、もっとキャラと紐付いた描写では「匿名希望」の振る舞いは特に暗号的だ。第四の壁を認識していると思しき彼女はページ中央を避けたりコマに手をかけたりと彼女だけの真意が含まれた行動をとることが多く、作中ストーリーからズレたレイヤーでの読解をいちいち読者に要求する。
更に言えば、作中で頻出するダンスも暗号的と言えるかもしれない(この漫画のキャラは事あるごとに踊り出す)。
というのも、ダンスは行為としては単なる物理動作でありながら、そこで真に意図されているものは単なる物理動作では全くないからだ(ダンスが持つこの側面は「戦場の踊り子」絡みのエピソードで強く提示されていた)。そう思うと、彼女らが徒党を組んだときにビシッとかっこよくポーズを取る扉絵風のカットインなども彼女らの並々ならない関係を示す暗号なのかもしれない。
これ以上掘り下げようとすると「そもそもイラストとは対象そのものではなく記号的な表象に過ぎないのであって……」というにわか仕込みの芸術表現論に進みそうになるが、今回はその方向性は永久に保留してもっと具体的なキャラクター設定の話に移ろう。
上滑りする過去エピソード
気を取り直して『暗号学園』をWJらしい娯楽漫画として読んだとき、印象的なキャラクター設定群にも暗号的なハイコンテクストが付きまとう。
と言って指しているのは、暗号学園の生徒であるキャラクターたちが軒並み持っている膨大かつ異常な重さの過去エピソードについてだ。それは絶対的な主従関係だったり、軍需産業を推し進めた暗い過去だったり、シンプルに犯罪歴だったり、一人につき一つは小説が書けそうなハードすぎる背景を備えている。
もちろんフィクションにおいてキャラクターが濃密な過去を持っていることは全く珍しくないが、特に『暗号学園』に限ってそれらを「暗号的」と表現したいのは、この漫画における過去設定は常に上滑りしているからに他ならない。
シリアスな設定の数々は暗号を巡る訓練の中で思わせぶりに開示されるに留まり、そこで示された重大な要素そのものに直接アクセスするシーンは全くない。主人公ですら戦場での経験は台詞で何度か言及されるだけで、実際に恩人その人に対面するのは最終話のオマケでようやくだった。過去の謎が充実している割には現在への接点が異様に薄いというか、表面的な文字設定の発露に留まっているというか、あまり回収する気がない裏設定が無数に配置されているような印象を受けるのは自分だけではないはずだ。
「単に連載期間が短くて回収しきれなかっただけ(もし連載が続いていればきっちり決着が付いた)」という見方もあるが、個人的にはそれは疑わしいと思っている。明らかに既存設定の回収ペースより新キャラの登場ペースの方が早いからだ。一つの謎が僅かに回収されたところで次々に新しい謎が畳みかけてきて、謎の微分値は常にプラスである。
実際のところ、西尾維新が裏設定に偏重して風呂敷を広げすぎることはそれほど珍しくないのだが、しかし「暗号」がテーマである今回に限ってはそんな設定の上滑りを「暗号的なキャラクター」の基本設計として肯定的に捉えることもできる。
つまり、暗号をテーマにした漫画のキャラクターは常に暗号めいているべきなのだ。言い換えれば、一読しただけですっと理解できてしまうような造形であるべきではない。キャラクターが大量の謎を抱えていることはサスペンスの力学による物語的な要請ではなく、暗号というテーマからの要請であると言い換えてもいい。
台詞や作画にまでハイコンテクストが満ち満ちているからこそ、キャラクターも上滑りするほどの謎めいた過去設定を持つ、いわば「暗号的なキャラクター」であることに筋が通る。最後まで回収されなかった要素が無数にあるにも関わらず消化不良感がそれほどないのは、暗号感を単なるお話レベルではなく全体テーマレベルで表現することに成功していたからだとも言える。
暗号バトルってなに!?
ここまで暗号的な要素として台詞やキャラクターについて見てきたが、その極地がバトルであることは間違いない。
それは作中ではっきり命名されている「暗号バトル」のことだ。暗号バトルがどのようなバトルなのかまず復習しておけば、単に「暗号を出し合って解読できるかどうかを競うバトル」ではない、というのが難解なところだ。
何故なら、本当に暗号バトルがそれだけのバトルなら、絶対に解けない暗号を出すだけで全戦全勝できてしまうからだ(オリジナル符号を用いたオリジナル暗号を出せば解けない暗号を作ることは全く難しくない)。それなのに登場人物たちが頭を捻れば解ける程度の暗号しか出さないのは勝つ気がないか、さもなければ漫画的な都合ということになってしまう。
しかし、暗号バトルでは頭を捻れば解ける程度の暗号しか出題できないことには実は暗号の本旨から導かれる合理的な理由があるのだ。
暗号バトルを理解するため、しばらくは暗号の構造と目的について考えてみよう。
そもそも暗号とは平文を何らかの法則に基づいて暗号化したものだ。送信者が平文を暗号化して受信者に送り、受信者は受け取った暗号を何らかの法則に基づいて平文に復号する。

この図を見ていると一つ気になることがある。なぜ送信者はわざわざ平文を暗号化するひと手間を挟んだのだろうか? 平文を平文のまま送って平文のまま読んでもらえれば、暗号化するコストも復号時に誤読するリスクも生じない。
答えは「第三者に情報を盗まれないようにするため」である。
現代において情報にはダイヤや現金に匹敵する価値があり、人の手を離れて無防備な通信路を流れる送信時は絶好の攻撃チャンスになる。だから情報を通信路に乗せるときは暗号化しておくことで、もし攻撃者に傍受されても解読できないようにして情報を守るのだ。
重要なのは、暗号の目的は「通信路上の情報を傍受されない」ではなく「通信路上の情報を傍受されても意味を取らせない」であることだ。暗号とは通信路自体はガードしない代わりに「暗号が解読されないこと」に全てを賭けたセキュリティシステムである。逆に言えば、攻撃者は独自に暗号を復号できれば普通に情報を盗める仕組みになっている。

この図から明らかなように、暗号とは本質的に最低でも三者が必要な営みだ。
送信者と受信者しかいないならばそもそも平文を暗号化する意味がない。言い換えると、わざわざ情報を暗号化する時点で攻撃者の存在が前提されている。
こうした暗号の基本的な仕組みを踏まえた上で、暗号バトルの参加者、つまり「出題側」と「回答側」は何に模されているのかを考えてみよう。
まず暗号バトルにおける「出題側」は明らかに「送信者」だろう。暗号を作る人はそれしかいない。次に「回答側」は「攻撃者」と見做せる。送信者が暗号を解かれたくない相手は攻撃者しかいない(正規の受信者には解かれても構わない、というか解いてもらえないと困る)。そして「受信者」は暗号バトルでは担当者がおらず空白になり、架空のものが想定される。
つまり暗号の本旨を踏まえてより正確に表現すると、暗号バトルとは「発信者に模した出題側が架空の受信者に伝える想定で暗号を作り、攻撃者に模した回答側は横から暗号を傍受して解読すれば勝ち(情報漏洩)」という営みとして理解できる。
架空の受信者が存在することは暗号概念の大前提である以上、どんな受信者も読み解けないような暗号はそもそも暗号とはみなされない。よって、暗号を出す時点で解ける受信者が存在する程度の難易度であることが要求される。
つまり先ほど指摘した「バトルのはずなのになぜか頑張れば解ける程度の暗号しか作らない」という矛盾への答えは、フェアネスや漫画の都合ではなく、「受信者の存在を必ず措定しなければならないから」という暗号概念の本質に求めることができる。
暗号って青春だ
さて、この状況設定はあくまでも訓練としてバトルの立て付けを作り出すための「見立て」に過ぎないことに注目したい。
というのも、暗号バトルでは出題側は送信者に、回答側は攻撃者に模して敵対していたが、彼らの「本番」であるところの戦争においては彼らは味方同士であるはずだからだ。暗号の設定で言うと、暗号学園の生徒たちは将来的には「送信者」と「受信者」の立場で暗号をやり取りすることになるだろう(「攻撃者」はまだ見ぬ敵兵となる)。
彼らが本来は同志であることを踏まえると、暗号バトルにおいて回答者が出題者の暗号を解読したことは実は出題者にとって一つの成功と捉えることができる。
何故なら、彼らが実際に戦場で行うのは「送信者は攻撃者には解釈されない程度に難しい暗号を作り、受信者に正しく真意が伝われば勝ち(情報伝達)」というゲームだからだ。架空の攻撃者の手を潜り抜けて伝えるべき情報を伝えることがお互いの目的であり、この現場においては受信者が送信者の意図を当てることが勝利条件になる。故に、暗号バトルにおいて出題側が回答側を攻撃者に見立てて絶対に解かせるまいと可能な限り難しい暗号(攻撃者への耐性がある暗号)を作ったにも関わらず、それでもなお回答側が正しく解釈して解いてくれたということは、実際の戦場においては極めて大きなアドバンテージとなる。
つまり暗号バトルが戦争に備えた訓練であることを踏まえると、「出題者が敗北した瞬間に回答者との共同勝利になる」という異常な相転移が見えてくる。だからといって八百長をして勝ちを譲ることには全く意味がない、実際の戦場で攻撃者が容易に復号できるような強度が低い暗号が解けたところで役に立たないからだ。全力で勝ちを目指していればいるほど敗北したときの価値が大きくなる。
さて、この「敗北した瞬間に勝利になる」というバトルは暗号バトルに特有の異様なものなのだろうか? 否である、特に週刊少年ジャンプにおいては。
ジャンプ読者の俺たちは「先週まで殺し合っていた敵を倒したら和解して手を取り合う仲間になる」という展開を今まで何回見てきただろう? 敵対と友好のダイナミクスはむしろ少年漫画最大の見せ場である。実際、『暗号学園』においても暗号バトルを通じて生徒同士がお互いの秘密を開示したり相手の事情を理解したりして相手との親交を深める進行は全く珍しくない、というかそのために暗号バトルが行われている節すらある。
しかし、暗号バトルにおいてはこのような敵と味方の交代が暗号概念の本質から導出できることを忘れてはならない。本来は三者関係である暗号概念を二者関係に圧縮することで敵対と友好の間をスイッチする契機を生じさせ、暗号概念に少年漫画を結合させた暗号バトルは間違いなくこの漫画最大の発明だろう。
補足554:個人的に、西尾維新を単なる衒学作家ではなくWJにまで掲載するエンターテイナーたらしめているのはこの能力だと思う。つまり色々と小難しいことをやっているように見えて、肝心要のところではシンプルなエンタメ要素をきっちりと抑えるバランス感覚を持っている。
なぜ戦争は描かれなかったのか?
最後に、この漫画で描かれていた「戦争」について考えて終わりたい。
「暗号」が作中で通底するモチーフ的なテーマだとすれば、ストーリー的なテーマは明らかに「戦争」だった。そもそも暗号学園とは戦争で活躍する兵士の育成所であり、あらゆるキャラクターのバックグラウンドは戦争に由来している。個別具体的な背景が色々とありながらも、全キャラクターに共通する論点は戦争との関係だった。
しかしはっきり言って、作中における戦争の解像度は極端に低い。
というのも、「作中で発生している個別具体的な戦争」の描写はほとんど存在しないのである。(訓練生ではない)当事者として提示されたキャラは「戦場の踊り子」くらいだが、彼女にしても結局何の戦争に何で参加していたのかは不明なままだ。キャラクターたちが頻繁に行う戦争への言及は「一般的な戦争についての議論」か「戦争から派生した身の上」の二択しかないし、暗号学園を出た兵士たちが実際にどのような戦場でどのように勤務するのかという具体性を伴った描写は全くなされなかった。
この違和感は学年大将戦が終わったあたりから更にはっきりしてくる。
主人公が学年大将になったあたりで学内のまとまりは一定取れたのでそろそろ学園を出て実際の戦争にコミットしていいようにも感じるのだが、「戦場の踊り子」の一件は一旦ペンディングされてメタバース編が始まってしまうのだ。
戦場の代わりに何でもありのバーチャル空間が提示され、「戦争と関連の深い暗号通貨」というやはり戦争そのものからは微妙に芯を外したモチーフが取り沙汰される。VR機器を通じたペナルティが設けられることでそれなりの緊張感が出てはいるものの、根本的に学内トレーニングである点は脱していない。
更にジャンププラスに掲載された番外旅行編では初めて学園を飛び出したが、ここで描かれたのも実際に起きている戦争を止める様子ではなく人類史における戦争を追悼と共に理解する営みだった。
これは「いわゆる考察」の域を出ないが、旅行編で描かれていた世界は一種のパラレルワールドだったと受け取っている。あの話で描かれていたのは恐らくこの現実世界であって本当の作中世界ではない。
というのも、作中で語られた軍事模様は現実とは明らかに大きく隔たったフィクショナルなものであり、旅行中に提示される具体的な固有名詞や戦争史がたまたま我々の知るものと一致しているとするのは設定としてほとんど破綻している。あえて現実世界におけるリアルを描くことで、作中世界におけるリアルな戦争を描くことは最後まで徹底的に避けたともとれる。
さて、「なぜ戦争をテーマとしながら戦争を描かなかったのか」には色々な答え方がある。
そもそも彼らが学生だからとか、暗号兵はいわばホワイトカラーの軍人であって現場職ではないとか、単に「戦争編」に到達する前に連載が終わっただけだとか、一つ一つの戦争ではなく一般的な戦争論こそが論点だったからとか。
そのどれもが一定の説得力を持っているが、個人的には「戦争編では暗号というコンセプトが減退してしまうから」という説を唱えたい。つまりここまで語ってきたような暗号的なキャラクターや暗号バトルの魅力は訓練ではない戦争状況下では描くことが難しいのだ。
はっきり言えば、この漫画で戦争編が描かれたところで大して面白くなかっただろうと俺は思っている。一番最初に「あまり長くやる内容でもない」と書いたのもそのためだ。
既に書いたように、キャラクター造形が暗号的であるためには彼女らが持つ「暗号」は解明されてはならない。
戦争という圧倒的な現実においてはキャラクターたちは様々な真相に対面していかざるを得ないだろうが、その過程でキャラクターの秘密が否応なく剝がれていくことはむしろキャラクターの魅力を毀損する方向に働く。「暗号的なキャラクター」を強みとするこの漫画に限っては「キャラクターの背景がわかればわかるほど魅力が削がれていく」という、通常の漫画とは真逆の事情が有り得る。
また、暗号バトルの白眉である「敵対と友好がダイミナックに移行する」というポイントも戦時下では損なわれざるを得ないだろう。いくら少年漫画とはいえ、敵兵と和気藹々と暗号バトルをこなして仲良くなる展開はやはり戦争の重みを毀損するものでしかない。敵対と友好のダイナミクスが動かない前提で淡々と暗号を作ったり見破ったりして戦ったところで、それはあの「暗号バトル」にはなり得ないのである。
主人公たち暗号兵士は実際の戦場には出向かなかった。しかしそれは暗号というテーマから要求される一貫性であり、そのあたりが引き際だったのだと思う。
この漫画のタイトルはあくまでも『暗号学園のいろは』であって、『暗号戦争』でもなければ『もせす』の終わりを見るものでもない。