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3DCG的な世界でかっこよく生きる(アニメ)っていうこと

まえがき

 雑文です。

 あなたの期待するような溜飲の下がるための文章ではないです。

 物心ついたころから見はじめたアニメのこと、とりわけ3DCGによって作画された、表現されたものについて、ゲーム体験も含めてどのような四半世紀を過ごしてきたか、という個人的な雑感にすぎないものをいまから書く。

 おそらく言及するのは、ガンダムシリーズ(一部)、ドラクエⅦ、ファイナルファンタジーⅧ、テイルズシリーズ(一部)、メタルギアシリーズ、ワンダと巨像、ライフ・イズ・ストレンジ、プリキュアシリーズ(一部)、アイカツシリーズ(一部)、バンドリ(マイゴ/アベムジカ)、シドニアの騎士、ガールズバンドクライ、メダリスト、そして、果てしなきスカーレットについて。

 ほかにも話すかもしれませんが、おおむねこのあたりにおける演出ギミックを話すと思ってください。

 文学フリマで暇なとき、あるいは店番してて暇なとき、あるいは帰りのゆりかもめで読むのをおすすめします。なにしろ長いので。

 では、はじめましょう。

映画『テレビの中に入りたい』本予告映像より。

 あのころ、僕の居場所は――テレビの中だけだった。

 もともと身体が弱く、小児ぜんそく持ちで、いつも熱を出しては小さな医院のベッドで横になっていた。ずる休みをした日とは違っていて、そこには時間を潰すための漫画もゲームも用意されていない。記憶に残っているのは、使い古され、ざらざらした感触しかなくなっているオレンジ色の薄い毛布と、ぶつぶつした黒い穴がある天井のタイル、それから自分の右腕につながっている点滴のチューブだった。

 チューブの先端には小さなつまみがついていた。

 熱でぼんやりしたまま眠りに落ちて、それからまた目が覚めてまぶたを開けたとき、腕に接しているその対称形の羽を見ると、蝶がとまっているな、とよく思った。

 にせものの、最初からずっと死んでいる蝶だった。

 生きることより、死ぬことのほうがずっとイメージがしやすかった。なぜなら当時、僕はまだ小学生になるかならないかの子供であって、生老病死のうち、病死のほうが経験的に近かった。アニメ映画思い出のマーニーの序盤は、だからとてもわかる。いま見ても、保護者への申し訳なさを伝える主人公の姿には苦しくなる。

 物心ついたときには、画面のなかのヒーローたちは、自分にはない強さの象徴として生きていた。ルフィでもルパン三世カリオストロの城のやつ)でも悟空でもいい。ボロボロになっても、死の淵から戻ってきては大量にカロリーを摂取し、勝てないと思った敵を劇的に倒す。なんなら一回死んだほうが強くなるシャーマンキングのような作品だってあった。

 けれど同時に思った。

 では彼/彼女らはほんとうの意味で死を迎えることはできるだろうか? ほんとうに死なないのなら、憧れる意味さえなくなってしまわないだろうか?

 そういうことを考えつつ、やがて中学生くらいになると、生身よりも確実に強いものに憧れはじめた。ロボットアニメだ。ファーストガンダムTVシリーズエヴァンゲリオンは人気作だったため、ケーブルテレビの契約しているチャンネルで定期的に放送されていて、毎週二話ずつ放送していたのを録画して見ていた。半分くらいは理解できていなかった気がする。ロボットがかっこいいので全然見れた。

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 なかでも印象的だったのがGUNDAM EVOLVE』という変なシリーズだった。これもたぶんアニマックスかなにかで見たのではないだろうか。

 まだゼロ年代前半において3DCGという分野は(おそらくいまでもそうだろうが)作品によって出来はまちまちで、しかし家庭用ゲーム機におけるようなCG演出を盛り込んだ、めずらしいアニメとしてつくられたのがこれだった。

 おそらくは当時主流だった手書きアニメ以外の方法をやってみましたという技術発表会のような企画で、ガンダムシリーズの人気作をベースにした短い映像があるだけで、感動はあまりない。ただ、ここではモビルスーツはかなり頑張ってつくられているいっぽう、人間は音声のみか、登場しても手書きアニメだった。

 2002年の段階では、人間を3DCGアニメーションでやることはむずかしいのかもしれない、と漠然と思っていた。

 

ファイナルファンタジーⅧ』

 しかし、同時期にプレステとかいう家庭用ゲーム機はなんかよくわからないけどすごい技術で作品を動かしていた。ファイナルファンタジーⅧ』を最初に起動してゲームをはじめたとき、荘厳な音楽とともに映る画面のめまぐるしい変化が、文字通り僕のいる世界まで飲み込んでしまった。


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 もちろん、2025年のいまではフォトリアルというほどの出来でもない。しかしなによりも僕が驚いたのは、この映像では、主人公のスコールが鮮血を流したところにあったのだ。3DCGモデルのキャラといえば、せいぜいどこまでも等速で走ることができ、なんかダメージを受けてもハァハァ……と息が荒くなる、もしくは画面がちょっと赤くなるか(バイオハザードなど)といった印象があった。それが裏切られた。

 反対にいえば、彼ら彼女らの肉体(3DCG)は、通常の方法では傷つかないのだということを、勝手に自分のなかで前提とし、決めつけていた。

 もちろん『FFⅦ』でどのようなストーリー演出があったかは承知していたものの、カメラワークの勢いふくめ、初手でこのような象徴的な描き方をされたことに、僕はいいしれぬ興奮をおぼえた。彼ら彼女らは魔法も使えるし、モンスターを倒すほどに強靱な肉体を持っているけれど、生身のからだであることに違いはないと教えられたからだ。

 それに『Ⅷ』は学園ラブコメでもある。

 中盤から終盤にかけて、ものすごい時間をかけてキャラクターが歩きながら内心を吐露するイベントシーンがあるのだが(そのあいだプレイヤーはひたすらループする背景のなか、キャラが歩きながらだらだらしゃべっているのに付き合わされる。正直いって長すぎるだろとも当時は思ったのだけれど)、これはたぶん、アニメでは描くことのできない、避けられるような演出だったのではないか。

 あそこにあったのは、きっと放課後の、空が橙色になっていく帰り道、友達と並んで歩きながらどこまでもとりとめのない会話をしていたときのような、さっさと終わってほしいような、でもなんだか終わってほしくないような、そういう、だらっとした長い時間と空間に身をひたしていた感覚なのだと思う。

 それは24分前後のテレビアニメの尺ではできないし、劇場アニメーションであっても、風景の変わらない道を10分以上歩くシーンは苦痛で、退屈だといわれるだろう。

 

ドラゴンクエストⅦ』

 とはいえ、国産大作RPGにおいて、ドラクエのほうはかなり苦労していた記憶もある。なぜなら鳥山明によるデフォルメされたキャラクターデザインを3DCGに起こしたとき、みんなが咄嗟に思い出したのはおそらく「すごい」ではなく「不気味の谷」という言葉だったからだ。

 けなされ方がひどいので動画を貼ることはしないが、気になる人はドラクエ7 PS版 踊り」とかで検索してみてください。

 いまから思えば、「セルルック」の3DCGをやる、という考え方がそもそも選択肢になかったのだろう。大きな瞳と低い等身、そして皮膚のややメタリックな質感、可動部のすくなさに比べて妙に細かい手指など、どちらかというとPS版のドラクエⅦは、結果的に自動人形(オートマタ)を画面のなかに再現していたような感触があった。

 

メタルギアソリッド2

 逆に3DCGのゲームで描かれる人間の死ななさ、あるいは傷つかなさ、といったものに意図してメタ的なアプローチを入れてきたのがメタルギアソリッド2だった。

 ミリタリー要素のなかでも傭兵、スパイ、核の恐怖、冷戦といった20世紀後半のモチーフを架空兵器とともにハリウッド的なノリもあるアクションゲームとして描き出してきたシリーズだが、詳細を省くと、2では終盤、プレイヤーは日本刀を入手して、それを構えているあいだ敵の撃つ銃弾をすべて弾くことができるようになる。

 つまりは無敵になる。

 これまでのゲームのコンセプトであり、プレイヤーに強いてきたスニーキング(潜入ミッション)、敵に見つからないようクレバーに行動しよう、という作中のプレイ規範としてのリアリズムがここで破壊されることになる。加えてほかのキャラクターがゲーム内にしか存在しえない「無限バンダナ」についてメタ言及もする。

わかりやすい画像がなかったので、HD版から。

 これは装備していると手持ちの弾が尽きなくなるという一種のチートアイテムなのだが、現実空間のルールではそもそも起こりえない。質量保存の法則を無視している。ゲームとしてはMP無限、魔法詠唱し放題のような景気のよいイベント戦の合図ではあっても、プレイヤーに対してそれなりの時間を割いてシリアスな世界に浸からせたあとの言葉としては、あきらかにバランスを欠いている。人間が生き死ぬ世界というのは有限であって、無限ではない。

 けれどもあなたは最初からそういう崩れた世界のなかに入りたくて仕方ないからコントローラーを握っていたのではありませんか、という皮肉としても響いてくる。

 

テイルズ オブ ジ アビス

 アニメーションと3DCGという点では、JRPGとしてのテイルズシリーズにも触れておきたい。といっても僕はそんなによいシリーズのファンではない。ハードとソフトを揃えるタイミングもリアルタイムではなかったし、バイトをしてお金が貯まるようになってからもプレイするのは、友達に熱心なプレゼンをされたときくらいだった。

 いま思うとテイルズシリーズの多くで見られる型(世界/星が危機に瀕している、その理由はわたしたち人間がエネルギーの使いすぎや分不相応な技術の濫用によってほんらいの循環サイクルやバランスを崩してしまったことにある、結果として現在、綻びが見えつつある、それに気づいた数すくない人物はどうしても既存の秩序を壊す側になり、主人公は世界の敵になっていく)は、エネルギー資源の枯渇や環境汚染、公害、メルトダウンといった現実の出来事をファンタジーの文脈からわざと婉曲に語り直している印象がある。

『アビス』では、ざっくりいって宗教およびテクノロジー依存の話をしているようにも思える。こうしたアプローチをル=グウィン的な態度として受け取るかは、個々のプレイヤーに委ねている、といったところだろうか。

 直近作はプレイしていないのでわからないが、テイルズシリーズは基本的にスーパー大事なイベントシーンやオープニングでのアニメーションをのぞけば、戦闘や空間の移動、ストーリーのほとんどを3DCGにデフォルメされたキャラクターたちが演技をするかたちで構成している。『FFⅧ』はキャラの等身の高さもあり、かなり映画という感じであるが、『アビス』はといえば、3D人形劇といった趣がある。

 また本筋ではないが、旅の途中で世界の設定や小ネタ、あるいはささいな日常会話をするときは「スキット」と呼ばれるトーク画面が発生し、ここでの会話量がかなり多めに用意されていることで、さまざまな角度から世界に触れることができる。アニメらしいキャラクターボイスの演技がある点ふくめ、テイルズシリーズにはキャラものとして受け取りやすい文脈が用意されている。

 とはいえ自分が『アビス』の人間の描き方について、惹かれた演出はそれ以外に二点ある。ひとつはゲームの開始時点で作中最強クラスの実力を持っているとされるジェイド・カーティスというキャラクターの描写だった。

 彼はとある序盤のイベントで自身の能力を封印され、初期レベルの主人公たちと同等のステータスで仲間になる。もちろん彼も旅のあいだに戦闘をこなしレベルアップもするが、それは成長したのではなく、ひとつずつ時間をかけて手動?で封印を解除し、ほんらいの能力を取り戻していったのだ、という説明が入る。

 つまり、ここには外見上にない変化をステータス表示というメタテキストによって見せる、という倒錯したゲーム演出があるフレーバーテキストではなく、プレイヤー側にのみ閲覧権限のある数値に、物語としての意味が与えられている。

 もうひとりはもちろん、主人公であるルーク・フォン・ファブレだ。彼は作中のストーリーを通して、未熟なひねくれものから苦悩する存在となり、そして最後は自分なりの道を見つけようとする青年へと成長していく。

 その変化の過程にあるイベントで、彼はトレードマークであった長髪をばっさりと切る。加えてその前後から段階的に、声の演技の質も変化している。

 このイベントののち、プレイヤーが操作するルークの3DCGモデルの髪も、また短くなった状態に変化する。彼のデフォルメされた身体が血を流すことはない。けれども象徴的なかたちで(スコールの顔に傷跡が残ったように)プレイヤーの記憶にその姿を刻ませる。この物語では、不可逆なものをどう取り扱っていくか(生まれること、殺すこと)が何度もかたちを変えながら問われている。

 

ワンダと巨像

「最後の一撃は、切ない。」というキャッチコピーがかっこよすぎてひとり歩きしている感じがあるが、プレイするとその通りですごい。しかしなぜ切ないのかといえば、プレイ中のあいだに主人公がまともなコミュニケーションを交わす相手が、この世界にはほとんどいないからだ。

最後の一撃は、せつない。

失われた少女の魂を取り戻すため、自身の何十倍もの大きさの巨像に、臆することなくしがみつきよじ登り、何度でも知恵と勇気で立ち向かう、ワンダ。
「少女を救う」、その一心で彼が向かう先は、希望か、それとも―

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 主人公ワンダがやろうとしているのは死者をよみがえらせることと同義だ。そして生きているものは、彼のほかには愛馬くらいで、もっとも濃い双方向の(ノンバーバル)コミュニケーションを交わすのは、彼が立ち向かう巨像たちしかいない。

 だからこそ、巨像にとどめをさす(殺す)瞬間にはコミュニケーションの終わりを意味し、つねに寂寥感がただよう。大谷幸による劇伴もそれを意識した使い方がされているし、このゲームもまた、3DCGの人間が生きたり死んだりする世界というなかでの、メタフィクション的なストーリーテリングが入り込む余地を残している。

 

 『Go! プリンセスプリキュア

 いささかゲームの話をしすぎた。話をゼロ年代から2010年代に飛ばそう。このころから、ゲームだけでなく、アニメーション作品における3DCGモデルをGONZO作品のような架空戦闘機だけでなく、現代日本の無機物(たとえば乗用車や電車)だけではなく、「人間」「キャラクター」にも使う表現が段階的に導入されていく。というかアニメオタクであれば3DCGでの表現を避けることじたいが不可能になっていく。

THE IDOLM@STER MOVIE 輝きの向こう側へ!では一部シーンのみロトスコープが使われたり、ライブシーンで一部キャラを3DCGモデルで使うなどさまざまスタイルを模索しているのが印象的だったが、むしろこの分野において、異常なまでに高いレベルを誇っていたのはニチアサのプリキュアシリーズのエンディング映像だ。 なかでも『Go! プリンセスプリキュア』は信じられないほどに出来がよかった。


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  これは後期EDの映像であるが、さんざん言われてきたセルルックのアニメを3DCGにするときの違和感といったものは、尋常ではない技術と労力という東映アニメーションの化け物みたいなマンパワーですでに解決されている。

 もちろんこれは毎週きまった映像(とそのバリエーション)を流すというエンディングの短い尺だからこそ注力できているといった話なのだが、とはいえパーティクルの数量を考えると途方もないとしかいいようがない。

 平成後期~令和にかけてのプリキュアシリーズは、程度のこそはあれ、歌って踊るという点において、僕たち(?)が同時期に見ていたプリパラ、アイカツラブライブアイドルマスターシリーズその他のプロジェクトとは異なる目標設定があり、何度もそれを達成してきている。

 

アイカツ!

 僕がもっとも苦楽をともにしてきたアイドルアニメはアイカツ!シリーズなのだが、3DCG表現における「演出」とバージョンアップを見せてくれたのもまた、アイカツ!だった。

 おもちゃ屋さんやデパートの一角にゲーム筐体がある着せ替えホビーとしては『オシャレ魔女♥ラブandベリーの系譜でありながら、ライブで得点を稼ぐ方法としてはリズムゲーム、そして楽曲中の必殺技シークエンススペシャルアピール)があるという点では、バンダイナムコの先輩ゲームにあたるアイドルマスターシリーズの思い出アピールを女児向け筐体にも実装したといえるはずだ。タカラトミー『プリパラ』では「メイキングドラマ」がそれにあたるだろう。

  公式チャンネルだと初期のモデリングがまだ稚拙で、段階的にセルルックアニメーションらしさを獲得していく過程じたいはあんまり見せたくない気配があるが、その点を抜いても、アイカツ!無印がライブ映像においてもっとも優れていたのは、ライブシーンにおける音楽番組的、あるいはMV的な「カメラワーク」の概念を積極的に導入したことにある。


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 カメラのズーム、パン、スタジオ内での複数の視点切り替え、人間の身長の高さからでは取れない位置からのカットをモデリングされた世界であることを活かしてあたかも自然なように「撮って」いる。キャラクターが生きているだけなく、カメラにも感情がある(ディレクションが存在する)ことでアイドルを描いている。

 またアイカツ!における3DCGの使用はアイカツシステム(機械)にカード(ドレス)を読み込ませ、衣装に着替えるシークエンスとライブシーンのみ使用され、通常時は手書きアニメになっている。

 変身シークエンスのちに、ドレスを着た3DCGとなってステージに登場することじたい、筐体で子供たち(とお兄さんお姉さん)がやっているゲーム操作の演出の再現でありながら、見ている側に唐突な映像の変化にギャップを与えず、むしろ自然に盛り上げる中間地帯をつくっている*1

アイカツ見るか (うー!アイカツ!)

微笑むペプラム うっとり水玉

迷いながらときめいた記憶儚いが消えないように祈ろ

追っても届かない虹の向こうまで

暗くなるまでアイカツ見よう

――VaVa - Sekai feat. Koedawg

 VaVaちゃんもアイカツ見てる。暗くなるまでアイカツ見よう。

 アイドルアニメの3DCGという点では同時期のサンライズ系列である『ラブライブ!』もかなり手探りでスタートしていた。

 ただ製作体制や技術レベル、アニメーターなどのスタッフがつよつよになってきた『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』などの後続作品に至ると、現実のライブというよりも3DCGで動かすなかに何度も手書きアニメによるMV的カットイン、細かい表情には適宜手書き演出を加え、歌詞に合わせたアニメ本編では描かれていない架空シチュエーションの連打*2をおこなうことで、一般的なライブ撮影とは異なる映像的アプローチをおこなっている。


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 僕はゆうぽむのオタクですが、ひとりの人間としては、近江彼方さんの将来を心から応援しています。

 

シドニアの騎士

 弐瓶勉作品を積極的にアニメ化しつづけているポリゴン・ピクチュアズ出世作ともいえるのがシドニアの騎士だ。母星を離れた、クソデカ世代宇宙船で暮らす未来の人類が遭遇する異なる他者との戦い、ダークでドライな物語背景を背負いつつ、やってることは学園ハーレムラブコメというなんか狂っているSF作品である。


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 シドニアの騎士の異様なところは、宇宙生命体との戦いでパイロットがどんどん使い捨てされるように死ぬ世界のなかで、主人公・谷風長道だけが出自もわからない存在として宇宙船のはるか奥の場所からやってくるものの、なぜか不死属性を与えられている(死んでも時間経過とともに蘇生してしまう)ために、どんどん英雄になっていくところにある。

 加えてほかの人間は光合成によってエネルギーや栄養を蓄えるのに対し、谷風だけはものすごい勢いで食べるし、食事に喜びを見出している。とあるシーンで異邦人であった彼のロッカー「臭い」という文言が書かれることがあるのだが、とくに説明はないものの、未来人類のなかだけで、谷風だけが新陳代謝が化け物クラスになっているのではないか……と思わせる余地がある。

 かつ学園ラブコメである。

 ブラム学園あたりから意識的になった結果、死なない主人公に対してラッキースケベをさせたのち、ヒロインその他からの過剰すぎる暴力の反撃をくらっては骨が折れたり顔がボコボコになったり鼻血が止まらなくなったりするのだが、しばらく経つとケロっと治ってしまうという身体をはったギャグをしている。 

 とはいえ、シドニアはかたちを変えた戦争アニメでもあり、途中から敵を倒すことができる「カビサシ」という兵器を開発、量産したのちは、パイロットたちはそれをコクピットに持ち込んでいる。アジア太平洋戦争のさいに日本軍人が戦場に刀を持っていった歴史的事実をいやでも想起させられる。ではわれわれと異なり、敵対している宇宙生命体はビジュアルとしては不気味ではあるが、知性がまったくないわけではなく、生命の尊厳がさまざまなかたちで踏みにじられるパターンをSFというなかで描いている。

 また本作はロボットアニメなので、多くの戦死者たちは血を流さない。なぜなら一瞬にして爆散して、そもそも回収できる死体など残らないからだ。しかし宇宙船が持っている資源は有限であり、高級品であるパイロットスーツは長年多くの人間によって使い古され、補修痕だらけとなっている。あたかも戦隊ヒーローのように一着一着が異なるカラフルなスーツたちは、この世界のどこにも存在していない。この世界においては、人間もまたリサイクル可能な有機物、つまりは資源のひとつにすぎないのだ。

 

『メダリスト』

 時間をさらに飛ばして、直近のアニメの話に移ろう。

 そっちのほうが話がしやすい。つるまいかだ『メダリスト』は新刊が出るたびに面白さが更新されるという希有な天才的なフィギュアスケート漫画であるが、近刊ではなにも取り柄がないと思っていた子が努力とたゆまぬサポート、折れない心、そしてそれらを総合したときに外部から才能のかたまりに見える矛盾をはらんだ成長譚ではなくなっている。

 彼女たちが戦っているのは、肉体という時間制限つきのアスリートの世界だ。あらゆる周囲の状況が砂粒ひとつ程度であってもメンタルやパフォーマンスに影響する可能性のある、それでも「最高の演技」をしなくてはならないという矛盾をだらけの世界だ。

 そしてそれはアニメにもついてまわる。なにしろアニメは映像であり、時間芸術である。氷上での身体を使った演技は、これが人間にできることなのか、という感動と、しかしまぎれもなく人間がいる、という印象を同時に見せていく必要がある。


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 原作が当初おこなってみせたのは、リアルタイムで選手の内心をモノローグとして使い、それを受け取ることがない観客やコーチ側はしかし、なにが起きているのかをそれでも語らせることだった。それによって、あたかも互いに呼びかけ合うかのようにして補完されたかのようなひとつの物語が立ち上がる。

 これはどちらかといえば、テニスや卓球のような攻守の概念はあっても、ルール上、時間やポジション的な区分けされていないスピード感のある対戦競技を言語化するメソッドだろう。そして原作においてはその技術が巻を追うごとにグレードアップする。とりわけ視界に焼き付けられるような鬼気迫る絵は、静止画であることよって、むしろ動きそのものが描かれている。

 だからアニメ化に際し3DCGを使うデメリットは、そこにある。3DCGは漫画のように設定画を大きく超える動きも、表情も即座には用意できないからだ。

 局所的に変化した顔をあてることは可能だが、たとえば現実に存在する人間の肉体は、関節や筋肉にある程度の伸縮性があり、なんなら内側にへこむといった動きもできる。しかし、3DCGは素体にエフェクト追加することはできても、体積を増減させることはあまり得意ではない。

 これは、人間らしい振り付けを、より人間らしい等身のバランスでやればやろうとするほど違和感を増やしかねない、と個人的には思っている。

 ではどうするか。

 これはアイカツ!でも指摘したことだが、カメラワークに感情を、表情をつけるというアプローチが、3DCGの強みとして存在している。アニメ『メダリスト』内で描かれる滑走シーンは、すくなくともわたしたち現実の人間が見ることはない位置からの仮想のカメラによって、結束いのりさんを撮影している。開始のさいには指先の細かい動きを捉え、ジャンプの際には下から彼女を大きくアオリで見せる、そして氷をブレードで削る独特の音が筋肉と関節の動きにあわせて乗っていく。

 しかしなにより本作においてもっとも強力な味方になっているのは、(もちろん現実のフィギュアスケートでもそうだろうが)視聴者の耳に入ってくる音楽の進行とともに、演技の構成に意味が生まれるところだろう。

 9話で使われるホルスト木星」では、ラストのフライングシットスピンに入るところで、あの有名なメロディが聞こえてくる。木星という惑星(の自転)と、いのりさんのスピンがここでオーバーラップし、物語として立ち上がってくるのだ。

 僕たちはただ3Dアニメのキャラが演技するだけでは感動できない。そこに複数の要素を重ねるときに立ち上がる物語に、生きている存在を見つけようとする。

 

BanG Dream! It’s MyGO!!!!!/Ave Mujica』

 こうして3DCGモデルで動くキャラクターたちのことについて、とくに演奏や踊りや演技に考えると、ごく当然に発生する意識として(そしてそれは過去に今敏押井守が意識していたことだが)、「人形劇」というテーマが立ち上がってくる。モデリングされたキャラクターに命を宿らせることは、見えない糸で動かしていることにほかならず、となると彼女たちのやっていることは演技の演技/演奏の演奏/ダンスのダンスといった自己言及的な構造を呼び込むことになる。

 バンドリシリーズは中村航の原作/原案小説をベースに組み替えて高校生青春部活ものとして最初は手描きアニメ、ライブシーンのほとんどは3DCGモデルを使ってスタートした。二期以降はLive 2Dを使っていたソーシャルゲームの他バンドのキャラたちが合流することも含め、キャラクターはみな3DCGモデルで統一されるようになった。『MyGO!!!!!』この無印とおなじ世界の話だが、作中時間としては二年ほどの差があり、無印のキャラクターたちはすでに実力のある先輩バンドになっている。


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 無印については、山吹沙綾さんについて僕は五時間以上しゃべることができるのだが、とりあえず、かなり『けいおん!』的なきらきら部活ものを意識させられたパッケージングであり、テイストも手探りであったことをご理解いただきたい(じっさいはそのあとさまざまな殴り合いがあったのだが、それについては調べなくてよい)。

 なんといっても、オープニング映像としての見どころはドラムスの山吹沙綾さんがスティック回しを披露するところだろう。アニメ本編でも中盤の山場である「STAR BEAT!~ホシノコドウ~」の演奏シーンは、曲の成立過程やメロディに彼女たちの物語があり、バンドをするということのコミュニケーションと喜びが描かれている。ステージに上がったバンドメンバーはべつに客席だけ向かって演奏するわけではない。互いに視線を交わしあい、文字通り息を合わせていくのだ。

 今作がそれまでのバンドアニメと比べてかなり力を入れていたのは、ESPというギターメーカーだけでなく、ドラムもキーボードもアンプもエフェクターも、実際に存在するものを前提としているところにある。

 アニメキャラクターのシグネイチャーモデルがはじめて現実に登場したのは作石ハロルド『BECK』のコユキが使用していたムスタングだと記憶しているが、『けいおん!』のさいは、FENDERGIBSONはそれ専用のコラボモデルを改めて生産してはいなかった。オタクは田井中律の浸かっていたペンとか、秋山澪の浸かっていたAKGヘッドフォンとかを買ってはいたが。

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 前置きが長くなったが、『MyGO!!!!!』はしかしそうしたバンドであることが、たんなる喜びだけではないことを語っている。

 彼女たちは傷つくのである。人間であるからには。

『MyGO』の物語にはふたつの時間が流れている。過去存在したバンドCRYCHICと、現在進行しているバンドMyGO!!!!!である。

 ふたつのバンドで作詞とボーカルをつとめる高松燈はしかし、バンドをはじめる前は他者と人との違いをうまく理解できず、ずっと苦しんできた子供だった。そして彼女は自分のノートに「人間になりたい」と書きつづっている。

 第3話で語られるのは、ほとんど一人称視点のカメラによって語られる彼女の過去だ。そして中三の春、高松燈は橋の上で、ふと舞い降りてきた花に手を伸ばそうとして、急に突き飛ばされる。そして倒れた燈に対して、その人物は伝える。

「大丈夫ですの……? 突き飛ばしたのはごめんなさい。でも死ぬの駄目ですわ!」

「え……」

「貴女、死のうとしたでしょう!」

「う、ううん。花が……」

「花と命、どっちが大事ですの!? あ、いえ、花にも命がありますわね……」

「落ちてきた花だから、死んでたと思う」

「死……? ……ああ、わたくしの勘違いでしたの……」

「……」

ごきげんよう

 立ち上がったとき、相手の膝にすりむいた跡ができていた。

 燈はいう。はじめて大きな声で。

「待って!」

 呼び止め、家に連れていき、その女の子が怪我した箇所に絆創膏を貼る。そのとき見つけられたノートの文面を読んで、彼女は「歌詞ですの!?」と瞳を輝かせる。

 CRYCHICというバンドはだから、高松燈とその周囲のメンバーが受け取った「人間になりたい」という言葉からはじまっている。そしてその発端には、傷つき、流れた血がある。そして3DCGの身体に傷があることを僕たちに伝えるのは、そのモデルの表面に赤い色を加えるか、あるいは絆創膏といったもの追加する以外にない。

 そうした彼女たちが演奏するのは、音楽にしか託せない生の心の叫びであり、傷であり、それはMyGO!!!!!というバンドにも受け継がれていく。

 そして『Ave Mujica』では、それとはまったく正反対に、そのままの生身ではいられなかった人々の、人間としての求められず価値を失ってしまった人々、人間になれなかったもの、血を流さないもの、つまり「人形」たちの物語を描こうとしていたはずなのだ。そこには、3DCGという表現のなかでおこなう必然性が、たしかにあるのだ。

 

 

 

【え~~~という感じでここまでいっぱい書いてきましたが、もう今日中には最後まで書けないとわかったので、いったんここで放流します。

 続きは明日以降にぬるっと書き、最後は『果てしなきスカーレット』論にたぶんたどり着きます。ごめんネ!(ハルヒ驚愕延期の画像) 】 

 

 

 

 

 

*1:このときの音楽はリアルでのライブでキャストが登場するときに流れたり、オタクの結婚式で流れたりしている。

*2:一部はゲームのほうからの引用という話をきいた。




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