(※本記事は二〇二五年六月に京都市内某所でおこなれた講演を再構成したものです。以下に言及される「来月」といった日付等は六月時点からの言葉であることにご注意ください。)

(話者、壇上に立ち、聴衆にむかって一礼する。)
どうも、今年はひどく変則的な気候ですね。
一度は消えたと思えた梅雨前線が、最近になってようやく戻ってきて、列島に雨粒たちを落とし、しとしとと、みどりの枝垂る夕暮れがやってきたようです。
本日この会場に来る途中、近所の公園では向日葵がすでに明るい芥子色に染まった小ぶりの輪っかをぽつりと咲かせているのを見ましたが、そのすぐそばでは、一度は枯れはじめた紫陽花たちもまた淡い色のふくらみを見せており、どうも街の景色は雨にさそわれ、季節のあわいをただよっているようです。
あるいは『ツユチルレター』の季節、とでもいうべきでしょうか。この季節になると、鎌倉の、海岸を見据える小高い丘の道なり、長谷寺や極楽寺のあたりをよく思い出します。もちろんそこだけではありません。この季節は江ノ島の起伏にとんだ道をゆっくり時間をかけて周遊するだけでも、ぽつぽつと道端に咲いている紫陽花が目に優しく、ゆかしいものです。思えば志村貴子『青い花』も舞台は鎌倉の女子高でしたね。
さて、雨季が終われば、本格的に夏がやってきます。
本日は、来月の七月より、アニメが放送される予定のみかみてれん原作『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』、通称『わたなれ』を中心に、「百合」と「ガールズラブコメ」の関係について、お話をさせていただければと思います。
時間の都合上、どうしても駆け足な説明になる部分があるかもしれませんが、なにとぞご寛恕いただきますよう、お願いいたします。
それではまず、本作『わたなれ』がどういったテイストの作品であるかについて、短い動画をご覧いただければと存じます。
(話者、おもむろにプロジェクターを操作し、動画を再生する。)
(再生終了後、話者、目を閉じ、しばらく虚空にむかって合掌する。)
「百合」の定義という不毛な会話について
まずは、躓きの原因を取り除くところからはじめましょう。
インターネットをはじめ、多くの場所では「百合とはなんぞや」的なかたちで個々人の定義をもとに、任意の作品が「百合であるかどうか」日々ジャッジされている状況があります。今回のお話を聞きに来るようなみなさんであれば、おそらく一度ならずとも、そのような場に遭遇した覚えがあるのではないでしょうか。
わたしの世代の百合学徒はみな、今野緒雪『マリア様がみてる』から時代をさかのぼって、大正期に登場して少女小説のイメージを決定づけた吉屋信子に(そのあいだに中里恒子・川端康成に寄ったりしながら)至るという、おおざっぱな少女小説の流れに触れることがよしとされていました。もちろん少女小説イコール百合小説ではありませんが、想像の共同体としては近しい場所にあるとされてきたものたちです。ですからこのような教科書的な履修スタイルは、決して悪いものではありません。
しかし現在もなお書籍化されていない過去作品の発掘や、実証的な歴史・作家研究がつづけられているように、これらのリストに載っていた名前は、あくまでジャンル文学史や想像力の歴史としてはいまだ不完全なものであり、歯抜けだらけであったという事実にも目を向けるべきでしょう。
たとえば吉屋信子がデビュー前にその熱心な読者であったがゆえに『少女画報』に「花物語」の第一編を投稿した理由のひとつとして知られている伊澤みゆきという作家は、これまで学術研究の場では言及されていても、今年になるまで、ひとつの書籍としてはまとまっていませんでした。
そう、ですからわたしたちがいま立っているのは、「歴史」というほどの明確な流れとしてみなすことはむずかしく、とても多くの仮定のうえに語られている、ひどく散発的な、点と点とのあいだにどうにか線を引いていくような仮想上の、概念としてのリレーとしてのみ成立しうる言説空間なのです。
また、仮に後世の時代からさかのぼるようにして「百合」の想像力の源泉を文学史として捉え直そうという試みがあったとしても、それはおそらく、小説作品だけで完結させることはひどくむずかしいようにも思われます。
どういうことでしょうか。
わかりやすい、代表的な作家の例をあげましょう。一九七〇年代、ティーンズの愛や性を対象にした青春小説、すなわち「ジュニア小説」と呼ばれるジャンルの勢いが次第にしぼんでいき、同時に少女漫画が若者の圧倒的人気をほこるようになっていきます。これらの地殻変動のなか颯爽と登場し、ふたたび「少女小説」という名称にスポットライトをあてた作家が氷室冴子でした。
しかし彼女をたんに伝統的な「少女小説」や「家庭小説」の熱心な読者が成長して作家になった、というひどく純朴な存在としてのみ捉えるのもまた、場合によっては射程を誤る可能性があります。同時代作家の新井素子をはじめ、SFと接近していた少女漫画たち(二四年組など)や、当時の読者層に見えていたカルチャーなどを含まないと、『クララ白書』『アグネス白書』に通じるあの軽妙な語りかけ文体の魅力は説明しきれないところがあるはずです。
二〇二五年現在の百合漫画も、百合小説も、複数のメディアやジャンル、あるいは外部との複雑な、相互的な影響関係のなかに生まれています。なにしろ俯瞰的な歴史を語ることがむずかしいほど「百合」作品は現在刊行点数があふれている状況で、専門家が年単位で調査研究などをしなければ、おそらく定量的な分析はできないでしょう。
さて、わたしはさきほど「躓きの原因」と述べました。では、いったいなにが原因であったのか。ここにジル・ドゥルーズの力強い言葉がありますね。「堕落した情報があるのではなく、情報それじたいが堕落なのだ」と。
「百合とはなにか」という定義論を個々人が発話するとき、しかしそこには「百合とはどのようなジャンルであるべきか」という行為遂行的な言語が、内側になんらかの命令がふくまれてはいないでしょうか。つまり「である」という事実を「べき」という規範や権力として置き換えたい。そのような態度が見え隠れしてはいないでしょうか。
また、とりわけ問題をむずかしくしているのは、べつに百合作品を手に取った読者はみな共通のジャンルや歴史観を持っているわけではないということです。二〇一〇年に百合をよみはじめた人、二〇一五年に百合をよみはじめた人、二〇二〇年に、二〇二五年に……それぞれの時代で発表されてきた百合作品のモードは、シーンは、それぞれまったく異なっていることに深く留意する必要があります。
刊行される時期に差があれば、活躍している作者の名前も違いますし、媒体イメージだってそのあいだにマイナーチェンジをくり返し、発展しています。また作品や作者だけでなく、読者も新陳代謝をくり返しています。ジャンルから足が遠のいたままの人もいれば、あたらしくやってくる人もいます。しかしそれらの時代言説を橋渡しするアーキヴィストは、残念ながらここにはいません。
ですから、あなたが「百合」というジャンルイメージをだれかに向かって発話するとき、具体的にどのような作品が脳内に浮かんでいるのかは人によってまったく異なっている可能性があり、ある人にとってのスタンダードは、必ずしもほかの人にとってのそれであるとはかぎらないということです。
にもかかわらず、人々はその個々の時代に受け取ったジャンルのトーンや態度を前提条件として無意識にふくんだうえで話しがちです。これは、学生時代に特定の分野を勉強した人が、その枠組や学説を卒業後には更新せず、現在では否定されている認識を抱いたまま、断定口調で物事を語ってしまう姿によく似ています。
「性愛」と「百合」の関係について
たとえば、ネットを適当に検索すれば、性愛を描かないのが「百合」だという人もいれば、性愛を描かなければ「百合」ではない、といったつよい言葉を使う人が散見できます。よくファンのあいだで揶揄されている「レズは百合じゃない」言説もまた、こうした流れのひとつにあるといえるでしょう。
むろん、こうした言葉には、表面上見えていない多くの背景が存在します。
過去の百合作品をひもといていけばいくほど、同性愛への理解や知識が曖昧なままに、それを想像の源泉として描いてきた言説がジャンル内に蓄積し、再生産され、消費されてきた歴史に出会うはずです。加えて、ホモフォビックな視点を内在化したまま、そこに批判的視線を注がずに、同性愛をあたかも異質なものとして切り離してしまう作品も多くあることに気づかされるでしょう。
たとえばここ百年あまりの日本文学史における女性同性愛表現を探ってみると、「異性愛が自然であり正しく、同性愛はまちがっている」というイデオロギーを作品に敷衍し、物語の最後には同性愛者があたかも世界から罰せられるかのように死んでしまったり、物語からほぼ強制的に退場させられる作品がすくなくありません*1。
このあたりについては一度、個人的に調べたのち、同人誌『百合小説アーカイヴ(仮)』として途中結果をまとめようとしたのですが、反省点が多く、なかなか改訂や内容のバージョンアップなど、「次」の作業を進められていないのが現況です(詳細が気になった方は、以下の商品ページにある紹介作品の目次や、坂崎かおるさん、南木義隆さんからいただいた「推薦コメント」だけでもご確認いただけますと幸いです)。
残念ながら、二〇二五年現在においてもまだ、「百合」イメージというのはどこか偏った印象を引きずったままに存在しています。
ひどく他者疎外的な、ホモフォビックな「百合」イメージをその基準として採用して語っている人もいれば、じっさいの作品に触れずとも、過去の名作として言及されたそれらの印象をもとに「百合とは○○のようなものである」と見てきたように語る人も多くいるのが現状です。
イメージは現在もなお、すれ違っているばかりです。
「百合とは○○である」と無根拠にジャンル定義をブチ上げても、どこか内側で反響しつづけるような、手応えのなさのみが返ってきます。
要するに、ディスコミュニケーションとなってしまうのです。
というわけでこの話題は、過去どのような規範イメージがあり、そこに対する実践や逸脱がなされてきたのか、そして現在においてそれらがどのように伝言され、また響き合っているのか、という構築主義的な側面を想定したうえで、個々の作品の態度を検討していくほうが、比較的穏当な態度のように思われます。
(話者、その場でお茶を飲む。)
また、念のため付言しておきますが、「性愛」描写のあるなしで「百合」を語るといった動きついて、わたしは個人は基本的に不賛成の立場です。女性同性愛者は同性女性と性的関係を結ぶからこそ女性同性愛者である、というわけでは決してありませんし、フィクションのなかでそのような描写がなんらかの「通行手形」として義務的に扱われなければならないのであれば、それはいささか脅迫的であり、抑圧的だからです。
(もし、わたしの言っている意味がわからないのであれば、とくべつ異性と性的関係を結ばなくても、異性愛者は無条件で異性愛者として扱われ、わざわざ異性愛者であることを他者に向かって証明する必要もない現実の社会を思い出してください。それからもう一度上の文を読み返していただければと思います)
「ガールズラブコメ」という領域について
軽い話をするつもりが、長い前置きになってしまいました。
ではここから、本日のメインテーマとなる内容に踏み入っていきます。
正確な初出タイミングは不勉強ゆえに把握していないのですが、「百合」ジャンルにおいて意図的に「ガールズラブコメ」という言葉を使うことで、前述のジャンル定義的混乱を避けつつ、小規模なジャンル内ジャンルとでも呼ぶべき潮流をつくり出そうとした存在がいます。そう、みかみてれんという作家です。
商業的なタイミングとしては、もともと同人で発表していた作品を拾い上げた『女同士とかありえないでしょと言い張る女の子を、百二日間で徹底的に落とす百合のお話』と『わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?)』が同時期に刊行された二〇二〇年のタイミングから顕在化してきた言葉かと思います。また同年には『百合に挟まれてる女って、罪ですか?』も電撃文庫から刊行されています。
前述したとおり、このうち『わたなれ』が来月からアニメとして放送される予定となっております。アニメ公式サイトのほうでも、
友達? 恋人?
揺れ動く気持ちの間で、笑い、悩み、そして進め! 乙女たち。
ノンストップ・青春ガールズラブコメディ、ここに開幕!
と、「ガールズラブコメディ」という文言が確認できます。
では、先に刊行されていた個々の書籍たちの記述はどのようものだったでしょうか。
おそらく、もっとも態度が明確であった作品が『ありおと』です。
一巻のあらすじやあとがきでも明確に「ガールズラブコメ」という呼称を用いつつ、同時に刊行された『わたなれ』についてもそのあとがき内で自作の「ガールズラブコメ」として言及、紹介しています。
ただし『わたなれ』一巻のあとがきでは「ラブコメ」とあるのみでした。「ガールズラブコメ」とは書かれておらず、三巻のあとがきでようやく「ガールズラブコメディ」と記述されています。なお『まれつみ』にはあとがきページが存在しておらず、カバー折り返しのあらすじには「恋愛劇」と記載されています。
ただし、それぞれの作品の初版帯をわたしは確保できていないため、そちらに「ガルコメ」表記が付されている可能性は大いにあるかと思います。とはいえおおむね、ひとつのジャンル名として積極的に表に出てきたのはこのあたりの書籍群の刊行、およびシリーズ化から、といった認識になるでしょうか。
そしてなにより、この言葉選びは少々独特です。
なぜならここには、みかみてれんが戦略的な呼称として「百合」というパブリックイメージに対して「ガルコメ」へと自作のイメージを微修正するかのような動きがうかがえるからです。これはひどく自覚的な動きであることは、ネットで確認できるインタビューもあわせてみるとよく理解できるでしょう。
百合の中には社会人同士の百合模様を描く社会人百合や、学生同士の百合を描く学生百合、ほかにもおねロリや殺伐百合をはじめとした、非常に多くのシチュエーションが存在しているんです。実はこのシチュエーションって、定義自体はされているんですけど、どんな読後感を得られるのかについてはあまり触れられていないのが実情です。お姉さんと小さい女の子の百合を描くおねロリでも、お姉さんが小さい女の子を落とすお話なのか、小さい女の子がお姉さんを魅了するお話なのかすら、曖昧に見えてしまうことも少なくありません。そこで「ガールズラブコメ」っていうキーワードが登場するわけです(笑)。百合の中でも「これがガールズラブコメです」と指し示した上で、得られる読後感を示すジャンルとして、みなさんにわかりやすく提示できたらいいんじゃないかなと考えました。
このあたりの発言を参照すると、みかみてれん自身が百合読者(の持っている多様なジャンル観)と個々の作品とのあいだに発生するコンフリクトにかなり気を遣っていた様子がわかります。もちろんこれは、いち読者としての実感でもあったでしょう。
ここでは「ガールズラブコメ」を「読後感を示すジャンル」とみかみてれん本人は語っていますが、ある意味それは読者の期待感を適切に誘導する看板としての役割もまた担っていたことは容易に想像ができます。『ありおと』も『わたなれ』も、どちらもタイトルがシチュエーション設定だけでなく作品のノリやテイストを示していることにも注意すべきです。上記作品は「百合」「ライトノベル」では広すぎる領域のなかにありながら、「ガールズ」「ラブコメ」という射程を狭めた名称を重ねて発しています。
つまり、みかみてれんの提唱するガールズラブコメは「百合がなんであるか」という不明瞭かたちで作品を投げかけるのではなく、「どのような百合であるか」という言説を提示し、きわめて戦略的なアピールをしていたといえるはずです。
ガールズラブコメという”関係輸入型”スタイル
とはいえ、これまで述べてきたのは、あくまでガワの話といってよいかもしれません。先ほど紹介したインタビューを紐解けばだいたいわかる内容です。ですので、ここからはさらに百合の内実に踏み込んだ話をしていきたいと思います。
前述した、みかみてれんによるライトノベルシリーズ三作品は(一巻の内容においては基本的に)みなおなじ方向からの物語的快楽を読者に与えようと試みています。つまり三作とも、(異性愛をベースにした性格の)女性キャラクター視点に寄り添いつつ、ほかの女性キャラクターからの関係をせまられる(落とされそうになる)物語構造を取っている、ということがまずは指摘できるでしょう。
だとすると、これはどういう効果を狙っていることになるでしょうか。
おそらく言ってしまえば、これらの作品は意図的に、ハーレクインロマンス的な寵愛像、もしくはポルノコミック的な快楽堕ち要素をふくんでいると指摘できます。
つまり、ストーリーやキャラクターの動きが(異性愛作品をよく読んでいる人間にとっても)わかりやすい矢印として表現されているということです。もうすこしかみ砕いていえば、おとす/おとされる、といったかたちで恋愛・性愛像をそれなりに馴染みのある見た目として提出している、といったほうがよいかもしれません。
みかみてれん自身はこうした関係像について、前述のウェブインタビューで次のように述べています。
最初から女の子を好きな女の子を主人公に添えるよりも、女の子に対して特段の感情を有していないストレートな女の子を主人公にしたほうが、より多くの読者にとって物語に入りやすいのではないかなと。アプローチに対して気持ちが変化していく主人公の姿は、百合に限らないラブコメの構造でもあると思いますので。
もちろん、ここで言及されている「ストレートな」とは心根が真っ直ぐな、という意味ではなくて、異性愛者の意として用いられている表現かと思います。
みかみてれん作品はわざと知識に偏りのある人物を意図して語り手として(ライトノベル読者の平均値をそれなりに想定したうえで)採用している印象があり、それゆえときおりぎょっとする表現に出くわすこともありますが、これらの「ガールズラブコメ」を通しておこなおうとしているのは、とくだん百合に興味がない読者でも楽しめるライトノベルという領域での作品スタイルをさぐった結果なのだと思われます。
あらためて言い換えるならばこれは、「百合がわからない」という不慣れな読者がいるのであれば、そうした物語を要素分解し、見やすくなる目印を作中にわかるよう書き残している、ということでもあります。「百合」というジャンルがわからなくても「ガールズ」の「ラブコメ」であるなら、単語の組み合わせから、なんとなくのラインで内容を想像できる。端的にいえば、読後感がイメージしやすいのです。
また、ある程度は作者の趣味もふくまれているかもしれませんが、たとえば『ありおと』では主人公を落とそうとしてくるキャラの属性を「バリタチ」と表現するくだりがありますし、『わたなれ』の一巻で主人公にせまってくるキャラは女性ですが「スパダリ」であると複数人物から呼ばれています。また『まれつみ』のとあるキャラは「男性相手」の「籠絡のエキスパート」と紹介されています。
このように、みかみてれんのガルコメ作品において、キャラクターの物語開始位置の関係は、なるべく非対称的なイメージとしてセッティングされ、比較的「百合側」にいるであろうキャラクターにわかりやすい「役割記号」を与えてもいることがわかります。それこそ女性が男性的な存在にアグレッシブに落とされるような、異性愛ロマンス構図のパロディを用意しているかのようです。
ジュディス・バトラーは自分たちが表象し、体現しているジェンダーが終始社会的に構築されたパロディの反復でしかないことを見抜いていましたが、ではこの言説に従って、日本で刊行されている百合ライトノベルや百合漫画において、ブッチ/フェム表象をはじめ、個々の作品がどのくらいジェンダーやセクシュアリティ表象に接近しているか、あらためて考えてみることは可能でしょうか。
百合作品全般に関していえば、前述のホモフォビックな表象も含まれていた時代だけでなく、現代においても作中キャラクターがセクシュアリティをふくめたアイデンティティについて積極的に語ろうとする、もしくは考えようとするシーンは多くはありません(年々増えている傾向にはあります)。また作者や出版社がどのようなスタンスで臨んでいるかが不透明なため、読者としても迷いながら読む場合もあります。
となると現代の社会を前提としたとき、なんらかのバイアスをうまくしりぞけつつ、素朴に「百合」を語っていくことは、おおよそ不可能なのではないか、という状況が浮かび上がってくるはずです。むしろライトノベルやコミックなどの発表媒体やジャンルイメージ、ラベリングなどによる影響が大きすぎて、かえって目を曇らせてしまうことのほうが多いかもしれません。
加えてほかにも「女性同士である」ことを理由に、作中の描写の受け取り方を特別視や例外視してしまい、構造上の問題を見落としてしまうようなむずかしさもあります。
その例として、久米依子『「少女小説」の生成』が川端康成(中里恒子)『乙女の港』を取り扱っているくだりをあげることができるでしょう。女学校における「エス」を描いた少女小説として現在も親しまれている小説ですが、本作のとあるシーンについて、久米は、先行作品である吉屋信子と比較しつつ以下のように指摘していました。
例えば『乙女の港』の冒頭「花選び」の章は、女学校の上級生たちが「エス」の関係を結ぼうと、新入生を品定めする場面で始まる。これは吉屋『花物語』の「忘れな草」(「少女画報」第六巻第五号、一九一七年[大正六年]五月)で、主人公の新入生が上級生の一団を見て、憧れの人を見いだすシチュエーションに相似している。しかし、「忘れな草」では、新入生が上級生に心を寄せたが、『乙女の港』ではまるで異性愛関係の男性のように、上級生が美しい新入生を選んで交際を申し込む。つまり(…)上級生は男性的な〈選ぶ人〉の役割を担い、異性愛の男性・女性のジェンダー・ロールが引き写されている。
ここには明治以降、社会的国家的な要請のもと構築されてきた良妻賢母教育の無自覚なエコーが見え隠れしているわけですが、そのような比較検討をつぶさにおこなっていくことのできる読者はそう多くはないと思います。
ただ、わたしが上記の指摘を通してつよく考えたいのは、こうした社会的構築物であるジェンダー規範を(無自覚的に)再生産しがちな読物の現代版である「ライトノベル」において、同性愛的表象を描くことはどれだけ自由な試みであり、また自由でなかったのか、そしてどのようにすれば生存可能であったのか、という点です。
「ガールズラブコメ」という商業的なラベルを持った『わたなれ』は五年の月日をかけついにアニメ化というところまで来ましたが、同性愛表象的な作品のヒットに際して、異性愛表象のパロディを内在化させていた部分はないわけではありません。たとえば毎度えっちなサービスシーン的なものがふくまれていることなどは、多分に意識的なおこないであると指摘できるはずです。
というよりも、むしろヒットに際するためには、わたしたちのフィクション受容のかたちとして、その要素が拭えずなかったのではないかと思っています。
だとするならば、なぜそれらは拭えなかったのでしょうか?
「シャアシャリ」から考える、同性愛表現に必要とされる「コード」
ここで、ちょっと寄り道をしていきたいと思います。
本日、最初に「百合」の定義はすれ違うばかりだという話をみなさんにお伝えしたわけですが、そのいっぽうで、二〇二五年現在、同性愛表現を積極的に受け取ることついては、なんらかのわかりやすい印がないと、多くの人には届かない、あるいは語られない、といった状況があることについてもお伝えしたいと思います。
どういうことでしょうか。
これについては、せっかくの機会ですので、先日、最終話を迎えたばかりの『機動戦士Gundam GQuuuuuuX』の表現を参照しつつ、語っていきたいと思います。
なぜかといえば、近年の深夜アニメとしては、視聴者数もすさまじい規模のようでしたし、共通言語として説明しやすいからです。未視聴の方については少々申し訳ありませんが、ストーリーの核心部分にはあまり触れませんので、適宜聞き流しつつ、要点部分にのみ耳を傾けていただければと思います。
さて、『ジークアクス』の物語の軸となるのは、ガンダムシリーズの初代作品である『機動戦士ガンダム』から語られてきた「宇宙世紀」という時代です。しかしとある出来事を境に、過去語られてきた作中の歴史とは異なる展開に向かっていくという、一種の if 要素をふくんだ作品ともなっています(ネットでは当初「架空戦記」的アプローチだとも指摘されていたようです)。過去作品とのつながりを示しつつ、キャラクターデザインや音楽、世界設定等をリファインした「新作」としていまだ話題が尽きてないアニメといえます。
といっても、このあたりのストーリー設定云々は今回、わたしの語りたいところではありません。わたしが注目したかったのは、今年一月に先行上映されると同時に、「これはBL的な表現ではなかったか?」と一部で話題になったふたりのキャラクター、シャア・アズナブルとシャリア・ブルについてです。
ジオンの軍人である両名は戦争中に引き合わされ、やがて作戦行動をともにするようになるのですが、そのさいシャアが密約を持ちかけるシーンが、妙に色っぽいのです。間接照明のみのふたりだけの密室で、ワインを飲みながら、「未来」のために握手をかわします。そのあとは戦場でマヴ(いわゆるタッグ)を組むくらいしか描写はなく、そのままシャアがとあるタイミングで失踪してしまうため、そこでふたりの関係は途絶してしまいます。
しかし一部のファンは、このふたりの関係を、たんなる上司と部下である以上のBL的なカップリング関係として熱っぽく見つめています。上記のシーンはいってしまえば軍閥の微妙なパワーバランスを前提とした政治的な駆け引きのひとつなのですが、それを介して生まれたふたりの「絆」に、他者を排除した、特別な感情が乗っているようにも見えている、というところでしょうか。

もちろんこのように想像されるBL的な親密さは、作中には、まず積極的には描かれていない内容です。しかしだからといって、それがわたしたちが投影する欲望を完全に排除する理由になるわけでもありません。「シャアシャリ」というカップリングは極めて二次創作的な欲望の発露かもしれませんが、しかしこのような表現は、まぎれもなく作中描写を見た視聴者によって(クィアに)喚起させられたイメージでもあるからです。
たとえば村山敏勝は『(見えない)欲望へ向けて』のなかで、クィア批評にとって「同性愛と異性愛の差異を記述することではなく、そのイデオロギー的かつ心理的な絡みあいをみていくことが課題」であると述べ、こうした作業の典型例として映画『セルロイド・クローゼット』(原作書籍はヴィット・ルッソ作)の名前を挙げています。
本作映画は、ちょうどいま、国内一部でリマスター上映がなされていますね。東京での上映はもう終わりそうですが。
では、村山がこの映画原作にどう注目していたのか、引用してみましょう。
(…)ハリウッドにおけるゲイ「的」な映像の歴史を追った書物の序文で、ルッソは興味深いことに、この本が、なにでないかは記しているが、なにであるのかは記していない。「この本はハリウッドで誰がレズビアンやホモセクシュアルであったかについての本ではない。ゲイがハリウッドでどのように自分を表現してきたの本でもない」(Russo 1987: ⅹⅰ)。それではこの本はなんなのか。初版の当時はまだ現在のような意味では使われていなかったクィアということばが、それに答えてくれるだろう。クローゼットのなかで見えない存在であったホモセクシュアルは、メインストリーム映画のなかの微かな、自分たちに向けられたようにみえなくもないエロスの揺らめきに同一化してきたーーそこにゲイがいるのかどうか、確信をもてるはずもなく。(太字は傍点)
「確信をもてるはずもなく」。しかし、であるからこそ、わたしたちはそのような解釈のゆらぎの領域に、積極的に(欲望を介して)踏み込むことができるのです。
とはいえ、二次創作として放たれるイメージは、なにもクィアな欲望だけに限りません。二次創作者やファンの男女比、傾向をある程度までは加味してもよい気はしますが、上述のような「密室」というコードを介してこそ解釈の親密圏を仮構できたであろうシャアシャリに比べ、たとえば一度たりともふたりきりのシーンがなかったはずの、エグザベ・オリベとコモリ・ハーコートの二名が(おそらく年齢や階級の近い男女であるという理由だけで)カップリングされていることは驚嘆に値します。

現在確認してみたところ、エグザベとの異性愛カップリング二次創作は、どうやらほかの女性キャラとの間においても見られるようです。であれば、おそらくこのあたりに、わたしたちがいかに性別を介した表現において、特定のコードや枠に流されやすいかが見えてくるのではないでしょうか。
わたしたちのおこなう異性愛/同性愛判断の偏りについて
たとえば、あなたが夜の繁華街を歩いているとします。前方にふたりの人物が並んで歩いています。あなたからすこし離れた場所にいるとはいえ、そのふたりが互いに見せている様子はおおむね親密なもののようです。やがてふたりはおもむろに、言葉を交わさずに互いの手をつなぎました。
ところで、この前方を歩いているふたりの外見的性別は男女/男男/女女だとします。あなたはこの三種類の組み合わせを仮定したとき、上記の行動からふたりの関係や属性をすべてフラットに受け止めることができるでしょうか。
ちなみに、これはじっさいにあった出来事です。わたしの前方をふたりの男性が歩き、そして手をつないだとき、後方を歩いていたふたりの男女が「ゲイだ」とささやき交わしたのがきこえました*2。ひどく無遠慮な発話ですが、ここにはわたしたちが、他人の外見的属性の組み合わせによって、印象の受け取り方をあっさりとステレオタイプへと落とし込んでしまう様子が示されているようにも思えました。
たとえば男女に見えるふたりが親密に手をつないでいるとして、おそらく「ヘテロだ」と無遠慮に発話してみせる人はほぼいませんし、けれどもおおかた異性愛者同士のカップルだと心のなかで思うでしょう。では、ふたりの女性が手をつないでいる場合ならどうでしょうか。おそらく即座に「レズビアンだ」とみなす人はあまりいません。というのも、仲のよい異性愛者の友人同士とみることもできるため、外部からの判断が容易にはできないからです。しかし、にもかかわらず、男性ふたりが手をつないでいると、それだけで高確率で「ゲイだ」と言ってしまうことが起きています。
つまりここには、いかにわたしたちがコードの偏りを持ちながら、それを意識せず生活しているか、という事実が横たわっています。異性愛者については、特に理由なく存在が認識され(コードとしてすでに習慣化されており)、男性同性愛者については「手をつなぐ」といったコードを介することでようやくその姿が顕在化されています。しかし女性同性愛者については、そもそも日常ベースでは認識判断ができないかたちで半透明化されてもいます(コードが適用できない存在である)。
結局のところ、わたしたちはなにもない場所には(あたかも自然な!)異性愛の組み合わせしか想定できず、同性愛についてはなんらかの記号を介さなければ、その存在を意識することもできないということになります*3。
(クィアな)パイロットとしてのシイコ・スガイ
むろんフィクションにおいても、こうしたマイノリティの不可視性あるいは曖昧さをどこまで想像できるかは、それを受け止める個々人の情報資源や解釈資源によっても左右されます。ふたたび『ジークアクス』のキャラクターを例に考えるのであれば、四話に登場する、シイコ・スガイという女性が挙げられるでしょうか。

四話放送当時、ネットに流れてくる反応を見ていると、彼女の存在を同性愛者として読み解こうとする人と、異性愛者として受け取ろうとする人の両方がいました。
かつてエースパイロットとして活躍していた彼女は、戦後になって結婚し、一児の母親となります。しかし戦時中「赤いガンダム」によって相棒(マヴ)を撃墜された経験からニュータイプ(≒ガンダム)への「執着」を捨てられず、ふたたび戦場に戻ってきます。しかしそれ以上の詳しい背景は、作中ではほとんど説明されません。

にもかかわらず、シイコ・スガイというキャラクターがわたしたちにクィアな読みを喚起させるのだとすれば、それはおそらく彼女自身による「望むものすべてを手に入れる」ことはできず「普通の生き方を受け入れた」という述懐によるものでしょう。戦死したマヴと思しき人物の墓前に立つシイコ、そして彼女の背後に男性らしき存在(文脈的に「旦那」と想定される)が控えている回想シーンでの台詞です。
この画面はいくぶん多義的ではありますが、四話前半の「お母さんって普通だな……」というマチュのぼやきとシイコの受け入れた「普通」が対比されているように、なんらかの諦めとともに「家庭」内の性別役割≒母を受け入れる動きを想起させる構図になっていると解釈できます。より踏み込んだ言い方をすれば、この「普通」を同性愛者ではないという「ストレート」としてパッシングしようとした、という読みが一部の視聴者のあいだに喚起されていた、ということでしょう。
また以下は傍証的な描写ですが、彼女のかつてのマヴの性別が明示されないこと*4や、事情を知る同性のアンキーもシイコの過去を詳しく語らないこと、上述の画面のなかに男性・シイコ・マヴと思しき墓石が並ぶことで「望むものを諦める」二者択一のようなイメージ(普通/普通でない)を与えること、近年フェミニズム的な解釈のされることが多い「魔女」というタームがシイコに与えられていること*5、などなど、いわゆる「その名を口にできぬ愛」としての含みを想像させる余地が、四話にはたしかにあるのです。
もちろんこれは積極的な読みが引き出した解釈のひとつにすぎません。しかしクィアな読みの可能性を「結婚」や「出産」といった役割描写によってまったくのゼロにしてしまうことが、いかに異性愛を中心とした社会を前提としたものの見方であるかについては、この場にいるみなさんとは共有させていただきたいところです*6。
ふたたび「ガールズラブコメ」の戦略について
ずいぶんと遠回りをしてきたように思われますが、わたしが今回の講演でみなさんにお伝えしたいことは、じっさいはとても簡単な話かもしれません。
つまり、わたしたちは異性愛という男女セットの関係に対して、きわめて思考のガードが緩くなるように社会的に教育されてきた生きものである、ということです。人によってはこうした(あたかも自然な!)規範的言説の在り方を「異性愛中心主義」といったり「強制的異性愛(ヘテロセクシズム)」と呼んだりしています。
しかしこのような側面は、同性愛を語るときにおいても、一種パラレルなかたちで温存され、機能していることに注意しなくてはいけません。竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』では、こうした異性愛(者)中心によってつくられた基準で同性愛を語ることの不均衡さを指摘しています。
では、長いですが引用します。
しかしこれは奇妙な逆説だ。なぜなら異性愛者は、生涯をつうじて異性と性交渉をもたなくても、またもとうと思わなくても、同性愛者でないかぎり、異性愛者でいることができる。つまり、異性愛者かどうかを弁別する要素は、異性愛を実践しているかどうかではなく、同性愛を実践していないかどうかとなる。ひるがえって同性愛者の方は、そもそもが性器的セクシュアリティが完全に実践できない(つまり生殖に導くことができない)ということで差別されているにもかかわらず、かならず性器的セクシュアリティをもつと期待されている。もしもそうでなかれば、それは同性愛ではなく、単なる友情ということになるからだ。したがってここに出現するのは、同性同士の友情や連帯感と同性愛とのあいだの厳格な峻別であり、その結果として、友情や連帯感から性愛的なニュアンスを脅迫観念的にことごとく排除しようとする(自称)異性愛者の克己的とも言える姿勢である。(太字は傍点)
なぜ異性愛者が上記のように同性愛者のほうにのみ性愛の実践を、「厳格な峻別」を必要とするかといえば、そうしなければ異性愛者が異性愛者自身の持つ関係をうまくアイデンティファイできなくなり、同性愛者を差別する基盤もまた失われてしまうからでしょう。次代再生産をベースとした「正常/異常」といったラベリングを排した連続性、セクシュアリティの多様性が自分たちのなかにもまたあるというイメージを、多くの異性愛者はうまく受け入れることができないのです。
またこうした性愛をベースとした関係像(性愛至上主義)は、現在の「百合」フィクションの受容背景にも潜在的にただよっていることを、わたしたちは受け止めておく必要があるはずです。
他方、女の同性愛の性愛化が、のちの女の同性愛文化に与えた否定的な側面は、その性愛至上主義である。一九二〇年代になって、(…)女同士の絆を定義するさいに性愛を特権化することになった。すなわちレズビアンとは、女に対する性的欲望を明確に自覚し、それを実践したいと思っていたり、あるいはすでに実践したことがある者だという定義である(Stimpson)。(…)表面的にはレズビアニズムと呼びかえられる女の同性愛はあっても、そこにはかならず性交渉が伴わなければならないという解釈学が、暗黙のうちに流通していたのである。
竹村によれば、(アメリカ合衆国における)こうした性愛基準の定義は、こののちトラウマのように潜行し、五〇年代、七〇年代、八〇年代においてもくり返し否定あるいは肯定されながら、「本物の」レズビアンとは何かという議論を生んだといいます。
前述したように、性愛表現をベースにした「百合」定義論争といったものは現在も多くの場所でおこなわれています。これは要するにひとつの本質主義的な論の立て方なのでしょう。しかし個々のセクシュアリティの実践の記述をどんなに積み重ねようとも、それは絶えず普遍とした瞬間にズレが生まれることを忘れてはなりません。
要するに、「本物の」レズビアンといった本質主義は個別をオミットしたなかでようやく構成されるフィクションでしかありません。しかしわたしたちはどうしても’(異性愛にしろ同性愛にしろ)本質的な語りを求めようとしてしまう傾向があります。おそらく現在の「百合」言説は、上記のような見方といつしか合流していた。そのように考えることはさほどむずかしくはないでしょう。

とはいえ、です。
こうして真面目な話をしているゆえに誤解しないでいただきたいのですが、わたしは「ガールズラブコメ」を性愛表現ベースの作品であるからという理由でその価値を否定したいわけではありません。むしろそれが戦略的なものであるとするならば、どのようにして受け止めることができるのか、をなるべく考えておきたいのです。
つまり、あくまで村山敏勝が述べてきたように「そのイデオロギー的かつ心理的な絡みあいをみていくことが課題」なのです。「ガールズラブコメ」というフィクション群は、いったいわたしたちにどのようにはたらきかけているのか。
どういうことでしょうか。
くり返し述べてきたように、わたしたちは「異性愛」に対しては積極的な解釈を必要としない社会で生活をしているため、それを基準に物事を捉えがちです。加えて「異性愛中心」の価値観を持って生きている多くの人間にとって、外縁側に属している(と思っているはずの)「同性愛」表現のなかに踏み込むには、まずそれとうまく認識し、解釈してゆくための「コード」を必要とする場合があります。
反対にいえば、作品内で表現されるコードが曖昧であればあるほど、解釈のために支払うコストは重くなってゆくのです。とある読者が「百合」かどうかわからない、とためらいがちに述べたとき、そこには作中コードが曖昧で、表現をどこまで拾うことが可能か迷っていることの証左でもあります。
しかしその点において、みかみてれんの「ガールズラブコメ」作品群は、(異性愛的コードを輸入しているために)コンセプトが明快であり、限りなく解釈のためのコストが低くなるよう設計されています。
あらためて指摘しますが『ありおと』『わたなれ』『まれつみ』に一巻に登場するキャラクターに与えられている役割のコードは「バリタチ」や「スパダリ」あるいは「籠絡のエキスパート」といったある種の性別役割を代理するような言葉たちです。物語の開始時点の段階で、主人公の女性は彼女たちによって、いわばハーレクインロマンス的に「落とされる」ことが最終目標であると明示されます。
よって作品の読者は、いま主要人物たちがどのような過程のなかにあるのかについて、すでに構築されるべき関係像をイメージしたうえで読み進めることできるようになっています。反対にいえば、この関係は「百合」であるかどうか、といった部分に悩ませられない、解釈コストを払わなくてすむようになっているのです。これは、みかみてれん作品のガルコメの持つ軽やかさであり、美点です。
また、『ありおと』『わたなれ』『まれつみ』の著者紹介欄のコメントには、すべておなじ文言が踊っていることにも、ここであらためて言及しておくべきでしょう。以下に引用する文言は、こうした物語に対して解釈コストを払わないでよい、といった作者側からのメッセージとしても受け取れるはずです。
大丈夫、みかみてれんの百合本だよ!
ではようやくですが、ここで本日の演題と向き合っていきましょう。
「ガールズラブコメ」の戦略とはなんだったのでしょうか?
これまで述べてきたように、異性愛ロマンスのコードを作中に持ち込み、それらをうまく同性愛表象として組み替えたことでしょうか。あるいは(ソフトポルノをふくめた)性愛表現を作中で描写していること? 読者の解釈コストを限りなく減らしたこと? たしかにそれらはみな、答えのひとつとしては該当するかも知れません。
しかしそれだけでは、まだ「ガールズラブコメ」の射程を捉えきれていないようにも思います。
そもそも「ガールズラブコメ」とはどのような物語であったのか。
「ガールズラブコメ」の主人公はしばしば、ひょんなことから「百合」的な恋愛状況に放り込まれ、そのまま「おとす/おとされる」といった関係を迫られます。しかし、いわゆる異性愛ハーレムラブコメにおいてしばしば登場する問いかけ「あなたはほんとうはだれのことが好きなのか?」だけでなく「わたしの欲望はどこにあるのか?」というもうひとつの問いが暗黙のうちに重ねられていることを見逃してはなりません。
たとえそれがコメディのように語られていても、です。なぜならそうした欲望が、セクシュアリティが、アイデンティティが肯定された先に関係が営まれることをこれらの物語は暗に目指しているからです。
わたしはこうした物語たちに、今野緒雪『マリア様がみてる』の一巻における、あこがれのお姉さまである小笠原祥子から打算的に持ちかけられたスール(姉妹)関係を咄嗟に拒否する主人公、福沢祐巳の姿を重ねずにはいられません。
物語の開始時点において、祥子は決して祐巳のことを大切に想っていたわけではなく、目の前に降ってきたシンデレラ役を降りる条件として例示された「妹を作る」という手段を場当たり的に採用したにすぎませんでした。加えて祐巳のほうは「このまま妹になってしまって、本当にいいの?」と思い、その申し出を断ります。
「申し訳ありません。私、やっぱり祥子さまの妹にはなれません」
(…)
「どうして、って聞く権利くらい私にはあるわよね」
祥子さまは、こめかみをピクピクと震わせて言った。
「確かに私、祥子さまのファンでしたけれど」
「どうしたの、本性を見て嫌いになった?」
紅薔薇さまが間に割って入って、祐巳に尋ねた。
「そうじゃなくて」
勝手に想像していた祥子さまとは少し違っていたけれど、拗ねたり怒ったりする人間的なところが見られて嬉しかった。だから理由は、祥子さまの性格が嫌とかそんな風に言い切れない部分にある。
「うまく説明できないけれど。ファンだからって、必ずしも妹になりたいかっていうと、そうじゃないんじゃないかと……」
そして、このような関係が宙づりにされた状態のなか、次に先輩の白薔薇さまから提案されたのは、期限つきの「一つの賭け」でした。
「祥子が祐巳さんを妹にできるか否か。もちろん祥子には『できる』の方に賭けてもらうわ」
「えっ!?」
一番驚いたのは、もちろん祐巳である。 (もう、私の話は済んでいるんじゃなかったのー!?)
「一度は断られたあなた。学園祭前日までにロザリオを受け取らせるのは至難の業よ? それができたのなら、その時点でシンデレラを降りていいことにしましょう。その代わり、それまでは主役としてちゃんと練習に参加するのよ」
「なるほど。花寺の生徒会長と手をつなぎたくなければ、一日でも早く祐巳を落としなさい、というわけですわね?」
そう、『マリみて』においてもまた、物語の最初に提示されていたのは、あくまでお姉さまである小笠原祥子が妹となる福沢祐巳を「落とす」という関係像なのです。
前述の川端康成(中里恒子)『乙女の港』のシーンでも指摘されていたように、ここには上から下に向かっていく男女のジェンダーロールのパロディが意識されつつ、しかし『マリみて』においては、それをいったんは拒否する福沢祐巳の存在によって、一方的な関係構築の在り方が再検討されるべく物語が進みます。
『マリみて』は「タイが、曲がっていてよ」といった台詞や姉妹(スール)制度ゆえの「お姉さま」といったワードがつい語られがちですが、物語内容において重視されるのは、決して最初からすべてが噛み合っているわけではない少女たちが、交流を重ねていくなかでほんとうの意味で他者を知り、互いに「姉妹」となっていく関係を望み、それらを主体的に維持していこうとする友愛の態度そのものにあります。
よって「ガールズラブコメ」がおこなっている戦略もまた、この文脈によって語られていくべきだと思います。「ガルコメ」は物語のスタート地点において、性別役割をつよく意識させる構図を読者にインプットさせながら、じっさいには「わたしたち(の欲望/望みたい関係)はなんであるか」を一種のパロディ的関係の実践のなかに見出そうとする言説を埋め込み、読者の内部に喚起させようともくろんでいます。
それはいわば、『マリみて』的な物語類型を、いくつもの(異性愛ロマンス的な)コードを経由させ、再構築してきたという、きわめて自覚的なフィクションのふるまいとして受け止めることができるはずです。なぜなら「百合」における同性愛表象は作品によって見えることもあれば、見えないこともありますし、なんなら書いたうえでなお、なかったことにされる可能性が残されているからです。
百合作品にたびたび投げかけられる根本的な問いかけとして(一種の市場原理を内面化した)「この物語は異性愛でも成り立つのではないか」もしくは「それを百合でやる意味があるのか」といったものがあります。これらは一見素朴な質問のようですが、じっさいは人間の持つ欲望のかたちがひとつでないことを大きく見落としています。なぜかといえば、異性愛を扱ったフィクションに対して「この物語は同性愛でも成り立つのではないか」や「それを異性愛でやる意味があるのか」といった問いかけは与えられず、いつのまにか不可視化されていることについて、それらはなにも答えてくれないからです。異性愛表象にとって払う必要のないコストを、同性愛表象は払わせられつづけているという社会構造が、ここにはずっと横たわっています。
ゆえに、パロディ的ではあっても、「ガールズラブコメ」がライトノベルという言説空間やその読者にもわかるよう明快に異性愛で多用されてきたコードをあて、意図的に同性愛表象をその都度可視化させていくおこないは、異性愛中心的なイデオロギーに対するひとつのずらしであり、撹乱としても機能するはずです。ですから「ガールズラブコメ」のもっとも大きな戦略となるのは、おそらくこの部分においてなのです。
また二〇二五年現在、「ガールズラブコメ」というジャンル名は、みかみてれん作品だけに使われているわけではありません。
たとえば、としぞう『百合の間に挟まれたわたしが、勢いで二股してしまった話』は明確にみかみてれん作品の百合ハーレムスタイルのフォロワーですし、今年においても、悠木りん『だれがわたしの百合なのか!?』が刊行され、どちらもあらすじに「ガールズラブコメ」という文言が明示的に用いられています。つまりすでに、「ガールズラブコメ」それじたいがコードとして力を持ち、自立しつつある状況がみられるのです。
もしわたしが今後、二〇二〇年前後にはじまった同性愛表象としての「ガールズラブコメ」に、もしくは百合ファンの人々に期待することがあるとすれば、「ガルコメ」をジャンルとして盛り上げつつも、しかしほかの「百合」との連続性を失わずにいさせてもらいたい、というところでしょうか。
ガールズによる(異性愛ロマンスふう)ラブコメとして言語用法的にパージさせず、その戦略性を無化させないこと。「百合」表象がジャッジされつづける現代だからこそ、絶えずこうした作品もあること(そして他の作品表象もまたありうること)。わたしとあなたのあいだにある連続性を記述すること、読み解くこと。「百合」といういまだ不安定な言説空間に、あなたもまた近づくことが可能であるということ。そのような物語として、「ガールズラブコメ」が語られることを願います。
では最後に、村山敏勝『(見えない)欲望へ向けて』の一節を引用して、本日の講演『「ガールズラブコメ」の戦略について』をまとめさせていただきます。
どこに向かっているかわからない欲望、同一化できるかどうかわからない欲望の所在に気づき、ためらいがちに近づくこと。クィアなパフォーマンスが文学批評に多くを与えてくれる(逆もまた)のは、未知の欲望を読むことを通じてである。
わたしは本日「ガールズラブコメ」というジャンルを、ひとつの戦いのなかに、イデオロギーとの緊張関係のなかに持ち込むことを提案しました。
おそらくですが、一部の人はこうした試みに眉をひそめることでしょう。わたしもそれを否定しません。それでも、なお。あなたとわたしのあいだに、どうかゆるやかな連続性があることを願ってやみません。
そうした言葉たちが、解釈が残ることに賭けようではないか、とわたしはあなたに持ちかけたいのです。読んでしまったのだから。そのように聞こえてしまったのだから。
さて、ずいぶんと長い時間、わたしはこうして「百合」について語ってきたようです。いつしか日が沈み、じっとりと暗い夜がやってきました。星々が瞬く夏の空はもうすぐそこです。熱にふくらんだ空気が皮膚を覆って、蒸された草木のみどりの香りまでも風にまとわりつきながらただよってくるようです。
季節の花は種を落とし、大地は次代の芽をはぐくみます。やがて季節はめぐり、また次の花を咲かせていくことでしょう。今日、わたしたちは物語の小さな種をみなさんの土にむかって蒔きました。わたしたちの夜はやがて朝の日差しにかすみ、雨に打たれ、風をまとい、流れていきます。
そのとき、わたしはもうここにはいないかもしれません。
しかし、物語は残りつづけます。それでもなお、祈りましょう。
次のために。
次の次の、百合のために。
’(会場、おだやかな拍手に包まれる)

補遺:「百合」の定義論のブレについて
なお、現在発売されている『SFマガジン』二〇二五年八月号に掲載されている連載「BL的想像力をめぐって」第十一回の水上文「同じではない同性愛ーー百合とBLの差異について」では、一般的に同性愛表象であるという理由によって並列されて語られやがちな「百合」と「BL」がいかにそれ以外はまったく異なる市場原理や差別のなかで表現されてきたことや、女性同性愛の不可視性が「百合」言説そのものに与えてきた影響などを詳しく語っています。こちらもぜひご参照いただけければと思います。
その他参考文献
エンディング:yeti let you notice「pilgrim」
*2:ちなみにこうした場面に遭遇したのは一度だけではありません。
*3:マイノリティが「わたしたちはここにいる」と何度も述べようとするのは、それはあなたたちの都合によってわたしたちが見えないものにされている、という社会状況への力強いカウンターであることを思い出してください。
*5:『ガンダム』シリーズ文脈的には「白い悪魔」というタームからの連想かもしれませんが。
*6:なお、シイコがパイロットスーツの上から首に巻いている赤いスカーフのようなものは、マヴが撃墜されたシーンでも画面端に確認できるため、マヴの遺品であるという見方は不適当かと思われます。スカーフは彼女にとってなんらかのジンクスのある装身具かもしれませんが、弔い合戦のためのアクセサリーとするには時系列のズレがありますし、そもそもモビルスーツが爆破した状態でパイロットの遺品を手にすることはむずかしいでしょう。