湿気がつよくなってきたので部屋のエアコンの除湿を入れたら喉が破壊され、そのまま風邪をこじらせて、兵庫県立美術館のパウル・クレー展に行きそびれるという大失態をかました。その後も体調不良がつづき、現在に至る。
とはいえ、本はだらだらと読んでいた。

吉田恵里香『にじゅうよんのひとみ』
現在放送されている『前橋ウィッチーズ』がたいへん面白いため、同作の脚本家の小説を読んでみた。ハーパーの新レーベルの一冊で、もともとは2016年に刊行されたものを改稿して文庫化したとのこと。タイトルはおそらく壷井栄『二十四の瞳』からであろうが、こちらはファンタジー要素のある現代ストーリーとなっている。
彼氏と同棲している主人公のひとみは、しかし二十四歳になったばかりの誕生日を祝われなかった(その直前まで求められるままセックスに付き合わされていたのに)という冒頭からだいぶ苦しめのスタートなのだが、そこになぜか赤ん坊が現われる。身体のとある部分の傷に見覚えがあり、どうやらむかしの自分ではないかと彼女は気づく。一時間に一歳ずつ大きくなっていく過去の自分(ヒトミ)とかかわることで、ひとみは自分のこれまでの人生と選択を振り返っては、絶縁してしまった友人や元カレなどと遭遇する、不思議な誕生日を過ごすことになる。
主人公の性格が現代的なのは、たとえ男性にぞんざいに扱われているとしても、愛情表現それ自体にはつい嬉しくなってしまうという点だ。たしかにあまりよい関係とはいえなくとも、すぐ簡単に離れられるわけでもない。王子様のように現われる人物だって、もしかしたらあなたに対する攻撃的な支配欲を隠しているかもしれない。そういったハーレクインロマンスへの批評的な語りをふくんでおり、『前橋ウィッチーズ』を見ていれば納得の作品というほかない。
もちろん、ここで描かれる男性も完全な悪魔というわけではなく、それぞれが女性に吐露することのできないいきづらさや規範に縛られているところがあり、そうしたバランス感覚にもはっとさせられる。新レーベルゆえ書店の棚ではなかなか見つけられないかもしれないが、おすすめです。
中西祐子『男女の進学格差はなぜ埋まらないのか?』
『前橋ウィッチーズ』の1話でも医大受験の不正の話が出ていたが、ちょうどブックレットとして出ていたので読んだ。昨日もジェンダーギャップ指数のニュースに対してコメントが流れていくのを見ていたが、いつもこのような議論にはねじれた感情がぶつけられているため、辟易する。女性の進路はいくつもの見えない壁にはばまれていることをどう説明すればよいか。
この件で思い出すのは、現代アニメとしては、ヤングケアラー問題が日常のなかにあることをいち早く扱っていた『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』だろうか。メンバーのひとりである近江彼方さんは、当初、お昼寝が好きなほんわかとしたキャラとして描かれるが、じっさいは親の仕事による不在を補うため、お姉ちゃんとして家事労働等をやっている関係でよく日中に眠るようになっていたことが明かされる。
テレビシリーズでは、周囲からのはたらきかけもあって、彼女は家庭内でのコミュニケーションを重ねて負担を一定量減らすことに成功したが、しかし最新作の『映画 ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会 完結編』第1章で彼女が語るやりたいこと(≒進路)は専門系に偏っており、いち早くお金を稼げるようになりたいのではないか、と邪推させてしまうところがある。もちろん彼方ちゃんはそこまで思っていないかもしれないし、見えないトラッキングだとも考えていないかもしれない。
京都大学新聞はアファーマティブアクションとしても捉えられる「女子枠」の話もふくめてジェンダーバランスに関する記事を定期的に出しており、このあたりの事情は『前橋』に限らず、アニメ作品でもどんどん語られていくようになればよいと思う。

シマ・シンヤ『Daddy Steady Go!』
男性は互いにケアをしない、という話がよく語られるようになってきた昨今だが、本作はシングルファーザーのおじさんたちがお互いに悩みをラフに相談しあうことで、どうにか旧来の「男らしさ」の呪いみたいなものから抜け出ていくための格闘を描いている。
1話の冒頭で猟銃を抱えた父の夢が出てくるのは、まさしくアメリカ的な父性のメタファーだろう、なんかフォークナーの「熊」とかでもそんな感じの狩りのイニシエーションらしさを読んだ気がするし、映画の『アメリカン・スナイパー』とかもそうだった気がする。最近配信されたドラマ『ラストオブアス2』でも、なんかうまくいかないよな、父親って、みたいなところを次代にどう説明していけばいいのかの苦悩がちょっとだけ語られていたことを思い出す。
川西ノブヒロ「女児向け筐体全身浴」
男らしさみたいなものからどう解放されるべきか、といわれたらわたしは『アイカツ!』に救われたというほかはないだろう。本作は、かつて大学時代に女児向けカードゲームにハマっていた社会人男性(営業職)が、『孤独のグルメ』のゴローちゃんみたいに、ちょっとしたスキマ時間に筐体をプレイするだけの連作である。しかし主人公は女児向けゲームをプレイしながら、なにか過去に縛られていたもの、あるいは自分自身との対話を重ね、しずかに開かれていく予感をみせる。祈りのような傑作である。ゲーセンによってはプレイをスマホで録画するための固定用アームとかありましたよね。
『ワタツミ』第2号
今井哲也先生のインタビュー目当てに読んだのだが、雑誌全体でバラエティに富んでいる内容となっていてたいへん刺激的だった。まほプリ2への所感や近年の女児向け系統の作品を多角的に論じているものや、「大きいおともだち」がイベント空間に与えてしまった影響とその対応措置など、刊行タイミングに合わせた内容ゆえの濃さもあった。
エル・マクニコル『魔女だったかもしれないわたし』
ほうぼうで、評判だけは聞いていたのをようやっと読んだ。自閉である主人公があるとき、自分たちの住んでいる土地でそのむかし「魔女狩り」がおこなわれ、ただ他人と違うだけで殺されてしまった女性たちの歴史を知り、ショックを受けるとともに慰霊碑をつくるよう周囲にはたらきかけていくという話。
本作は児童書として刊行されているが、主人公にとって「魔女狩り」は、現代にも異なったかたちで残っていることがありありとわかるように描かれている。それは心ない言葉を向けられ。尊厳を踏みにじられ、生存を脅かされるという強烈なまでの恐怖である。理解のない大人たちは「過去のことじゃないか」というが、マイノリティにとって差別は現在もつづいているおぞましい出来事であり、だからこそ声をあげていく必要がある。終盤のとある展開はほんとうに苦しいのだが、それでもバッドエンドにしないぞ、という作者の矜持が感じられる内容で、とてもよかった。
伊藤春奈『ふたり暮らしの「女性」史』
あたり前だが、日本では過去になればなるほど女性が自ら筆をとって書きつけていく「言葉」を持っている割合は減っていく。明治から大正にかけて(その数はすくないものの)女性作家が活躍するようになったが、そうでない女性の言葉は積極的には残らない。代わりに残るのは、男性からみたそれぞれの女性である。本書は、そうした状況でもなお拾い集められた「女性」たちの歴史ということになる。
以下に紹介記事を貼っておく。
中山元『フーコー入門』、桜井哲夫『フーコー』
『リバース:1999』の最新シナリオ「狂気と非理性」がラテンアメリカ文学×フーコー(パノプティコン)だというので、年単位で積んでいた入門書を読んだ。主人公のヴェルティの所属する団体は「聖パブロフ財団」だし、メインシナリオ6章ではミス・ホフマンというキャラが出てきてフロイト式の精神分析の話がおこなわれるうえ*1、作中でパラノーマルな能力を持つ人々(神秘学家)は人間たちから排斥され、社会に溶け込むには”パッシング”する必要にかられていたことが言及されるし、なんかとんでもないことをしようとしていないか? とハラハラしながらいまシナリオを読んでいる。

ほかにもいろいろつまみ食いするように読んでいるのだが、長くなるのでこのあたりで。
エンディング:是「児童館」