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君と破滅したくない物語:中西鼎『宮澤くんのとびっきり愚かな恋』、それからラノベと性愛の話。

「恋愛感情なんてのはね、一時の気の迷いよ。精神病の一種なのよ」

――『涼宮ハルヒの憂鬱』より

 恋愛感情についてラブコメが抱える巨大な問題、それは「めんどくさい」に尽きるかもしれない。涼宮ハルヒ女史がなぜ孤高のヒロインである(かのように思える)のかはそのめんどくささやじとっとした重さをありえんくらいのおもしろ記述速度で語りの内部からからっと吹き飛ばし、世界的な規模で起こる激ヤバ改変イベントを「動機」ではなくほとんど「結果」のみ出力されたものとして記述するからだ。

 このようにして、数々の事件において、探偵によってふりまわされるワトスンはその最終的な出力をあたかも「従うしかなかった」といいたげな消極的共犯関係として書き残す。つまり、キョンがしばしば口にする、

「やれやれ」

 である。語りはこの一言で除湿されている。しかしその向こう側にあると思われる共犯的な恋愛模様を透かし見ることで同時に読者は快楽を得ていく構造を持っている。真冬のこたつでアイスを食べるようなものだ。最高にぜいたくなのである。われわれは何重もの条件を重ねた先にごくごくありふれたシンプルなものを口にする。しかしこれは「めんどくさく」「重く」「湿度の高い」もので、語りの第一段階では忌避されていたものではなかっただろうか?

 さて、中西鼎『宮澤くんのとびっきり愚かな恋』は、まったくもってハルヒとは似ても似つかないが、他者と取り結ぶ関係のなかに、こうした一縷の見えない「希望」めいたものを見出そうとする姿勢がある。シンプルに、あるいはロマンチックにいえば、「真実の愛」あるいは「果たせなかった約束」といったものだろう。

 しかし読んでみると、どの人物たちにも、最初それをうまく選べなかった/手にできなかった経験がある。なにより幼馴染の藤代瑠音はおそらく何度もこれを取りこぼしてきた経験があることが察せられる。以下は主人公に述べるもっとも印象的なセリフだ。

「ねえワタ、約束してくれる?」

「何を?」

「私が最も嫌なことを絶対にやらないってこと」

(…)

「私が恋人にされて一番嫌なことはね、私を好きになるにあたって、なんらかのストーリーを作られることなの。情熱的なラブストーリーの演者みたいな気分になって、私を私でなくてドラマの中にいる『恋人』のように扱うことなの」

 むろんこの約束は、最初から破綻することが約束されている。というより現在進行形で「破られている」。なぜなら主人公の恆は物語の語り手の位置にいるからだ。彼は藤代瑠音に対して「めんどくさく」て、「重く」て、「湿度の高い」感情を抱いたうえで物語に立っている。ワタはルインを「幼馴染」であり「初恋の人」として見つめている。つまり「見るなのタブー」を犯している。

 では、それをのぞくわれわれはなにを見ているだろうか。ハルヒキョンのあいだにうまれる共犯的なラブコメ関係だろうか。こたつアイスだろうか。もしくは高速でクラッシュしていくレーシングカーの暴力的な破片の輝きだろうか。

 とはいえ、ルインの言葉はたしかに重要であるものの、ごく一般的な欲望としても受け止めることができる。なぜならこれは小説に限った話ではないからだ。わたしたちは恋愛について語ろうとするとき個々人間で起きた「物語」をベースに語るほかない。よいものであれ、悪いものであれ。

 保健体育的な知識ではなく、なんらかの個別的な何者かを語ろうとするとき、その人物の本質はどこにあるのかというとき、当該人物の身体的特徴を述べることはその人の本質とは言いがたい(と思いたい欲求がわれわれにはつよくある)。なぜなら人間を物理的に還元可能なモノとして扱いたくないからだ。

 しかしそのようにしてだれかを語ろうとするとき、結果として出力されるものは、その人そのものというよりは削られ、再形成され、矮小化され、実物とはいいがたいくらいに変容したなにものか、つまり「モノ」でしかない。端的にいえば任意の人間がしゃべる「元カノ/元カレ」話はすべて歪曲されている。すべて歪曲されているんですよ、ほんとうなんです、信じてください(真剣な目で)。

  つまりなにが言いたいかというと、なんらかの枠に押し込めなくても、人はそんな簡単に他者全体を語ることはできないはずで、であればその禁を犯さないためにはすべての口を閉じるほかに手段はないことになる。しかしこれは馬鹿げた話でもある(交通事故に遭いたくないので一度も家から出ないようなものだ。そんな生活はふつうの人間にはできないと思うし、そもそも推奨されない)。

 要するに、ここでルインはワタに「しゃべらないでね」と言っているようなもので、ほとんど人間ではない理想の存在が想定されているといってもよい。だからこれも「モノ」化といえる。しかしこうすることで、ルインとワタはそれぞれが持つ「理想」というフィルターを通して互いをふれあわせていく。

 むろんこれは虚構である、けれども「虚構」の関係を維持しなければ「理想」を見ることもできないという皮肉がある

 この取り結びによっておそらく、ワタがその恋愛(的?)関係を維持するためにできることはひとつしかない。「しゃべらなかったよ!」とルインに対して嘘をつき、約束の履行を見かけ上でもつづけていくことだ。

 こうしてどうしようもない虚構を維持するために、さらなる虚構が必要されている。そしてワタは語り手という位置からルインを物語化し、記述しつづけていく。するとどうだろう、約束というものの尊さそれじたいも、おとしめられていくことになる。けれどもすでにダブルバインドに陥った彼は、その選択を振り払うことができなくなっている。ラストシーン(これはもうホラーである)の目を閉じた主人公は、まるで罰を与えられている神話のキャラクターのように見えないものにしばりつけられている。

 とはいえ、彼はドラマティックアイロニーのなかにいるのか、神話的暴力/神的暴力(雑ベンヤミン引用)にさらされているのか、まだ判断ができかねないところでもある。

 

性欲とライトノベルと個人的な感覚について

 ところでラノベは青少年の読み物なので、ハプニングはあっても積極的なエッチシーンは書きません! みたいなお約束*1がだんだんグズグズになってきたと感じるようになったのは、鷺宮『三角の距離は限りないゼロ』5巻発売、つまり2020年なかばくらいのタイミングで、当該巻では主人公がヒロインの脚をなめたりしていて、「電撃、攻めてんね!」とおもった記憶がある。このシリーズでは際どいシーンは幾度か訪れるものの、最終的には清い交際に落ち着いて幕を閉じる。

 しかしその翌年には西条陽『わたし、二番目の彼女でいいから。』のシリーズ刊行がスタートし、結果、長年必死で守られてきたレギュレーションはブルドーザーが通ったあとのように破壊されていく。このレギュレーションがないことにされてよかった点といえば、ポルノちっくな物語が楽しめてうれしい! というよりは、ラノベで描くことのできる人間のバリエーションが増えた、というものだろう*2

 また性愛関係がぐちょぐちょになることによって、最終的な恋愛の諸相を性的な関係/欲望のあるなしでジャッジすることが不可能になる。ゴール(といっていいのかわからないが)が全方向にある/無効化されたと考えることで物語のありようがあたらしく転回していく。果たしてそれが最終的に焼け野原になるかどうかはこれからの未来に期待するしかない、といったところだ。

 ただ、人によって考え方は異なるだろうが、個人的な考えを述べると、一般的な意味における「性欲」をわたしは「人間の本質」だとは欠片も思っていない。

 一側面ではあると思っている。そもそも性的欲求のない人もいるだろうし、環境や個体差などなどによってつよかったりよわかったり、好悪の傾向も異なっているものだと思う。であるので、現代ものにおいて「性欲を描く」=「作品として優れている(真実を描いている)」みたいな言説にはかなり違和感がある。

 もちろんそのいっぽうで「性欲が描かれていない」=「ファンタジーである(悪い意味で)」と判断する人がいることもわかる。下心を隠してヒロインと関わっている人間の都合のよさ、悪い意味での聖人らしさになっている、みたいな描写としてそういう人の目に映っている感触はなんとなくだけれども、わかる。

 いや。

 いやでもさあ!!!!

 その議論って、性欲と恋愛感情が同一のものであると暗にみなしてませんか!!!

 結局ここ十年くらいのライトノベルがやってきた恋愛への屈託っていろいろあると思うんですけど、「だれが性的に魅力的であるのか」とか「だれが好きであるのか」以上にずっと「いま抱いているこの感情は本物であるのか」とか「この感情そのものを自分も抱いていいのか」みたいなところが大事じゃあなかったんですか????

 それにここ数年の現代ラブコメラノベはそれよりももうちょっと先というか、どのくらい他者(ヒロイン)をトロフィーや物語装置にせずいかに対等な人間として関わっていくかをめちゃくちゃ考えているのであって、その過程における性欲ってポルノやインモラルな気配には役立ちますけど、それって感情をどう捉えていくかという自意識ストーリーの成立においては絶対の条件ではないですよね、という気持ちがつよくあります。

 ライトノベルというジャンルは重なっては違うかたちを描いていく波のようなもので、古くは幼い頃出会ってた/約束/運命/許嫁その他に対して、ヒロインレースを介してからの結論として現在の気持ちのほうが尊重されるべきだよね、みたいな選択に積極的意味を見出す物語として深化していったのだし、主人公の立ち位置についても、強烈な劣等感や場違い感を乗り越えてその人と向き合っていくまでの決意の話になっていったのだし、さらには劣等感のなさそうな陽キャみたいな読者から相容れない存在にだって見ているものはあるのだと内面を見出していったのであって。

 現代ラブコメ主人公の内面というのは、その都度メタ的なジャンルの検討にさらされ、「恋愛」への視野を開いてきたのであって、「性欲」という面についても乗り越えるべき壁や弱さとして目の前にあるのか、物語において必要とされないから語られない部分なのか、読者サービスだから入っているのか、そもそもほんとうにないと思っているからないのか、要らないからないのか。いろいろとあると思います。

 だからせめてねえ、「ない」として語られることがどういう戦略でなされているのかくらいは考えて発言してくれてもね、ええんとちゃいますかね!!!

 

(……お茶を飲みます。)

 

 で、『とびかな』の話に戻ると、メインキャラ四人それぞれにそれぞれの性欲が描かれている。ぜんいん態度が違っている。そして恋愛への理想もまた違う。

 具体的な表現は引用しないけれども、恋愛感情イコール性欲とは決してなっていないし、むしろ、その記述面での表出と現に抱いていると思われる感情、なにより彼ら/彼女らがほんとうに欲しいもの(結局それが「愛」なのかはわからない!)が、それぞれ違う場所にあることが語られている。なんなら語り手の宮澤恆くんがどれくらいまともなレベルで語ることができているかもわからないのだ。主観であるし、それにしては饒舌な表現のときと落ち着いているときの落差もまあまあある。

 だからこそ、ここにアポリアがある。

 一度すべての儀礼的/形式的な「好き」をホラー的に脱臼させてみて、そのうえでなお「好き」をどこに措定できるのか。その意味で、『とびかな』はまったく伝統的な現代ラブコメ自意識ライトノベルなのだ。しかも、ヒロインたちもそれぞれ異なる自意識を表明してしまうような、殺し合いのような。

 ところでわたしは藤代瑠音を、ファム・ファタールだとはぜんぜん思わない。その言葉を使うのが個人的にあんまり好きではない以上に、もっとも状況に踊らされている存在こそが彼女じしんだからだ。彼女にできることは肉体的には多くの人間と寝ることであるが、そのじつ、自分でコントロールできない部分については「約束してくれる?」と願うことしかできない。

 まあでも、おそらくそういうところが果南のブチ切れポイントに加担していると気づいていない彼女も彼女なんですけどね。

 

 えーと、つまりそれって、「めんどくさい」ってことですか?

 

(最初からそう言ってますよね???)

 

 

エンディング:Galileo Galilei「恋の寿命」


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おまけ

ところでこれって本当ですか?

 

*1:だれが決めたのかわからないが、おそらく週刊少年ジャンプあたりのレギュレーションが求められていたっぽい。

*2:なぜなら地上派でのアニメ化は不可能になるわけでどんなに人気を得たとしてもファン数はアニメ化作品よりは下になるからだ。一番波及力の高いメディアミックスが見込めない。




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