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光と色と音と距離:『きみの色』について。

【※本記事では映画『きみの色』のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください】

 


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 タイトルの通りです。二回観ました。どちらも通常上映(IMAXではなく)。変な色味になってしまっている可能性を避けたかったので。ちなみに宗教的解釈などはほぼしません。あしからず。

 

一回目の感想。

 たいへんおもしろかったが、物語のどの部分に焦点を置いて観ればよいのかがかなり難しく、意図的に記憶に残るような印象的な言葉遣いなどが避けられていた印象だった。強いていえば、「よいの、ですか?」「え!? わたしたちがインターネットの世界に!?」だろうか。ブルーレイもなると思うよ。カタルシスになりやすいところをあえてはずした作劇になっているのもそうだし、まさか予告編のトツ子の台詞が物語を象徴したり総括するような中~終盤ではなくて、冒頭だったこともぎょっとした。

 台詞や演出に合わせてだろうか、全体的なカメラの撮り方(という言い方にするが)もミニシアター邦画的な質感というか、ダイナミックなカメラそのものの移動がなく、基本的に人の高さから映すようなカットが多かった。それでいて気持ちよくなるところはしっかり描くのもよい。トツ子が「わくわく」に思い至って走り出すあたりの劇伴でバスドラがドッドッドとなっていくのはわかりやすい鼓動に見立てた演出で、吹き抜けから見えるスカートの広がりが文字通り開放的な画面をつくる。

 色味は時間や季節に合わせた変化があって、とにかく観ていて楽しい。それでいてさりげない人体の運動と弛緩の描かれ方は心地よく、信じられないくらいに人間ってこういう動きするよな、というところと瞬間的にファンタジーになるところ(トツ子の輪郭は場面によって膨らんだりシャープになったりするであるとか)の配分もよく、人を惹きつける絵のよさが終始あったという感じ。

 とりわけキャラクターデザインの段階で目(というか睫毛と眼球)に落とし込まれたものが想像よりも多く、きみちゃんがメトロノーム代わりにニュートンのゆりかごを使うとき、瞳孔がその運動を追って一瞬左右に揺れるあたりなどもここまで描くのか、という作画の偏執具合のすさまじさを感じる。

 モチーフについて。冒頭からバレエの少女たち、そして噴水と『エコール』っぽいものをちらつかせる悪い癖がまた出ている。とはいえあくまで引用であって物語を補強するようなものではない。かもめ食堂もそう。はてしない物語っぽい本が出てきたのはなんだったのか。起きたことを直球で描かない自己韜晦への目配せだろうか。

 色について。ポスター等の段階でキャラクターに三原色らしきものがあてられており、前日くらいに配信されたサントラもどうやらRGBっぽい数値がトラック名にあてられており、「じゃあ三原色か~~~」という予断が入ってしまった。よくない。

というわけでサントラのディスク1にあった数値を可視化してみた。左上はトラック番号。

 作中の画面表現に比べると圧倒的にアースカラー中心で、そのなかでもきみちゃんの「色」として表現される発色のつよい青がやはり目立つ。正直作中で出てくるサントラの内容を憶えているほどの記憶力はないので、どのような対応関係になっているかはこれを読んでいるみなさんが考えてください。

 ラストのトラック34は完全な白(255,255,255)。作中で完全に画面がホワイトアウトするのはライブシーンのあと、つまり「ジゼル」が流れてトツ子が踊る前後(二回)。しかしこのダンスシーンはなんだったのか。テルミンとピアノ、遅れてエレキギタークリーントーンが入るということは三人の奏でる音楽に聞こえるが、花々は咲きすぎていやしないだろうか。春であればトツ子は卒業しているのでは?(ライブのとき森の三姉妹のクラスTシャツは記憶が正しければ「3-C」だったはず)。反対に、ライブのあった二月であれば花はあそこまで咲いていない。浮遊した時間。心象風景だったのだろうか*1

 色については、あとでネットで適当に漁ったら山田尚子監督自身が、「光の三原色」である旨を語っていたものがあったはずで、三原色が混ざりきった、ということなのだと思われる。具体的にそれがどういう意味になるのかは、わからない。

 しろねこ堂の三人の楽器はモノトーンが多めだ。鍵盤もそうだし、きみちゃんのリッケンバッカー*2も白と黒のカラートーンのモデルだし、ZOOMのエフェクターも銀色の筐体だ。トツ子が使っているAKAI(のたぶん)MIDIキーボードはメーカーのモデルそのままなので筐体の左右が赤いものの、カラフルな色がわかりやすくついているのはギター弦(ダダリオ)のボールエンドくらい。ただしきみちゃんはクリスマス会の夜にトツ子から言われたことを受け取ったのか、ライブのときには左手首に青いバンダナのようなものを巻いている。

きみちゃんのリッケンバッカー、正確なモデルは不明。テールピースがいわゆる「R」タイプではないのでカラフルなボールエンドが見える。

  • D'Addario(ダダリオ)

  • ZOOM(ズーム)

 ライブシーンについては後述する。

 

二回目の感想

 一回目の印象ではエピソードが積み上がっていく印象を受けたが、二回目を見ると、個々のエピソードが反響しあうように組み上がっているのがわかる。

 きみちゃんは聖歌隊にいながら歌うことのできなかった後悔や自分の感情を見つめ直し、日吉子先生の「歩き直すことができるのです」という言葉やイザヤ書の43章4節の言葉を受けて「あるく」の歌詞を書き上げて、苦しいや悲しいも含めた「聖歌」を歌っているし、トツ子も幼少期から抱えていた自分が他人とは違うこと(たとえばうまく音楽に合わせて踊れなかったことなど)をライブという空間や音楽を通して捉え直そうとしている。

 というか。

 公式HPのこれがほとんど「答え」じゃないですか。

 思春期の鋭すぎる感受性というのはいつの時代も変わらずですが、すこしずつ変化していると感じるのは「社会性」の捉え方かと思います。すこし前は「空気を読む」「読まない」「読めない」みたいなことでしたが、今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。ふとその糸が切れたときどうなるのか。コップの水があふれるというやつです。彼女たちの溢れる感情が、前向きなものとして昇華されてほしい。「好きなものを好き」といえるつよさを描いていけたらと思っております。

山田尚子監督の企画書より)

 それと、画面上に散らばっている色の多さ。チャペルの壁や柱もそうだが、なにげないコンクリートや木の表面にも小さな色が(現実以上の色彩の数で)散らばっている。序盤でも体育館のラインとジャージの色で三原色(だったような?)があったりする。

 けれども「色」というのはあくまで色であって、伝達のための記号や言語にはなっていないことに注意しなくてはならないと感じる。

 若い=青い、みたいなアレゴリカルな慣用表現はわたしたちの生活にはふつうにあるけれども、きみちゃんがクリスマスプレゼントを選ぶときにトツ子が見たあの「色」について、「素敵すぎた!」とは言えても、具体的にどのような「感情」を持っているかは最後まで説明がされない。トツ子自身その意図を読み解いているわけではない*3(ある程度まで推測はできるかもしれないが)。

 つまり本作において、「色」はコミュニケーションの媒介にはなっても、それ以上にはなっていないのではないか。

 というかそもそも彼/女らは結局どこまで互いのうちにあるものを交換していたのだろうか。しろねこ堂の前で「なにかあった?」と訊ねたトツ子に対して、きみちゃんは「学校辞めたこと、言えてないんだ」と起きた出来事をそのまま返していたわけではないことを思い出す。寄宿舎の夜、トツ子は「言いたくないことは、聞かないよ」と伝える。だからきみちゃんの抱えている鬱屈した感情や後ろめたさのようなものを正面から理解していたわけではない。ある程度まで感じることはあっても、おばあちゃんとおなじ制服に袖を通して喜ばれたことや聖歌隊の練習といった嘘をついて島でバンド練習をしていたことも、知らない。

 きみちゃんについて。彼女はいわゆる「いい子」を演じていて、表情も劇中でそれほど崩れることはない。それでいて口数もトツ子に比べれば多くない。けれどもおばあちゃんとの会話のときのちょっとした言葉の間や、瞳のかすかな揺れは生まれているし、なにより島に行ったときの帰り道、トツ子と別れた瞬間には、だれにも見せないつもりであったろう「よそゆき」でない顔にもなっている。しかしそうした彼女の内面は、音楽のなかで語られようとする。「反省文」として。「あるく」として。

 トツ子について。他人と違う、という意味で彼女は高校でもなんらかの壁を抱えていた(ように表現されている)。「毎日聖堂で祈って」いたのは、むろんカトリックの信仰ゆえであるが、ルームメイトの「森の三姉妹」とのあいだにも見えない壁はあった。物語において、彼女たち三人とトツ子を「画面上において」二段ベッドの柱やはしごが遮っている。しかしライブをおこなうと決めたあと、その障壁は取り払われて描かれる。彼女が「ニーバーの祈り」を通して考えていたのは「心の平穏」だった。その続きである「勇気」と「知恵」については彼女の行動が示している。

 

ライブシーンと曲について

 ライブシーンで使われた曲は三曲であるが、正式なフルコーラスの音源版ではなく、ライブシーンに合わせた(おそらく一部別録りの)演奏になっている。

 差異が顕著なのは、「反省文~善きもの美しきもの真実なるもの~」で弾かれているギターの音だろう。配信されているサントラのディスク1と2にそれぞれ入っているので聞き比べることができる。きみちゃんの歌声についてはそれほど差はないが(ライブ中、彼女の表情が明確に変化するのも終盤の一瞬くらいしかない)、ギターは正式なフルコーラス音源版と比べると明確に拙く演奏されている。バッキングが荒々しいのもそうだし、映画館で聴くとハイが利きすぎているのがよくわかる。若干耳障りなのだ。加えて左手のコードチェンジの際のノイズも多い。彼女の緊張は顔には出ないが演奏には明確に出る。

 きみちゃんの表情がそれほど崩れないとは先に書いたけれども、彼女はライブ前に手で顔を覆っており、ライブの一、二曲目ではほとんど「目を閉じている」。彼女がまぶたを開いて、観客のほうを見れるようになるのは、「あるく」のラスト「歩けそう? 聞こえそう?/音の波と この声」と歌い上げ、エフェクターを踏んで音色を歪ませ、アンプにピックアップを近づけてフィードバックノイズを響かせたあとだ。

 きみちゃんは最後まで泣いた顔を見せることはないが、「苦しい気持ちや悲しい気持ち」を音としてだれかに向けて表現することはできる。

 しかしこのライブシーンは他者や家族との和解を描いている段である(はず)のに、ひどく異様な演出がなされている。

 映画の観客は、音のニュアンスとセットリストを通して、奏者の緊張が弛緩し、会場が盛り上がっていくさまを見守ることになるのだが、MCは一度も挟まれないまま終わりを迎えるし、(聖バレンタイン祭の)観客同士のコミュニケーションは描かれても、奏者と観客のあいだに言葉は交わされない。一曲目が終わったあと、応援するかのようにルームメイトのひとりから「トツ子ーー!」と呼ばれても、トツ子自身は手を振り返すことすらせず、そのまま鍵盤を弾きはじめる。

 その前の日吉子先生との会話もそうだ。彼女が「反省文」を「歌」にするように言ったのにもかかわらず、その歌詞については感想を述べず、「リフ」や「ミュート」といった演奏面についてしか言及しない。最後の演奏で彼女はライブ会場を去って、くるくるとひとり踊るけれども、以降物語に登場することはない。

 であれば音楽は、言葉は、届いていただろうか? 届くべき人に。相手に。そのとき、決して言葉にならなかった苦しみや悲しみに答えてくれた人がいただろうか?

 わたし個人は、決して届いていなかっただろうと考える。

 

きみちゃんとトツ子の関係について

 歌の歌詞について。「反省文」と「あるく」についてはきみちゃんの作詞によるものであるとフレーズからうかがえる。「水金地火木土天アーメン」についてはトツ子の作詞で、劇中に映っていたノートの書き込みからは「惑星=ME」(正確な書かれ方であったかは自信がない)で、きみちゃんが「太陽」に喩えられていた。これは序盤のドッジボールで球をぶつけられたこと、そして惑星と太陽の話を授業で聞いたりなどした経験が生かされているように思われる。

 しかしここで気づくべきは、きみちゃんの作詞した「あるく」では「光より愛に沿う/花となり 咲きたい」と歌われていることだ。きみちゃんは自分を太陽だとは思っていない。ここにふたりのすれ違いがある。いや、その表現は適切ではない。彼女たちは、ぶつかっていない。「色」を「音」に、「言葉」に変えたとしても、彼女たちはお互いを譲り合うように尊重し、一定のやさしい「距離」を取りつづける。

 ラストシーン。ルイくんを見送るときに、きみちゃんはいままでにないくらい、歌っていたときでも見せなかったくらいに声を張り上げる。そしておそらくその声は、船のデッキにいるルイくんには届いていない。「音」の波は減衰し、届かない。彼女が絞り出した「頑張れ」という言葉を聴き取ることができたのはトツ子だけだ。しかし光の波は、「色」は届く。大きく振り返されるカラーテープ。色は飛び散っていく。

 この物語において、「光」や「音」は幾度となく飛び交っている。色は彼/女らを包み込んでいるし、きみちゃんやルイくん、トツ子の見ている世界は「音」というかたちに変換され、表現される。夕暮れや植物たちの淡いフィルターを通した色で、わたしたちはその暖かい世界を観察する。

 しろねこ堂の三人は、たびたび音楽を通して、お互いのうちにある言葉にできないレベルの感情を交換しているようにも思える。きみちゃんの悲しげなフレーズをルイくんがオルガンの和音で包み込んだように。あるいは即興でジゼルを弾いてみせたように。たしかにそれらは優しい。けれどもそれはたんに優しいだけかもしれない。

 一方で、劇中に起きていた明確な「物理的衝突」は三回しかない。一回目はドッジボールをきみちゃんがぶつけたこと。二回目は奉仕活動明けの再会のとき、旧教会で感激したルイくんに抱きしめられること。そして最後、エンドロールのあとにトツ子がきみちゃんを腕を引いて、抱きしめたことだ。

 劇中、授業シーンで再生されていた資料映像は、太陽系の惑星の動きを描いたもので*4、トツ子にとって「わたしは惑星」であり、きみちゃんが「太陽」であるということをつよく意識させたものだった。しかし、であれば彼女たちは、最後まで衝突しないまま終わるはずだ。

 にもかかわらず、トツ子はきみちゃんを抱きしめる。「変えられないものを受け入れる心の平穏」を願っていた彼女は「変えられるものを変える」選択をした。届いているのかわからない、どこにもつながらないきみちゃんの叫びを聞いてしまったうえで、接触できない太陽に接触すること、あるいは、相手を太陽のような存在だと思わなくなることを選んだ。

(…)今はもっと細分化してレイヤーが増えていて、若い人ほど良く考えているな、と思うことが多いです。「自分と他人(社会)」の距離の取り方が清潔であるためのマニュアルがたくさんあるような。表層の「失礼のない態度」と内側の「個」とのバランスを無意識にコントロールして、目配せしないといけない項目をものすごい集中力でやりくりしているのだと思います。ふとその糸が切れたときどうなるのか。

 だからこそ、それが距離をなくす、つまり抱きしめるという行為につながる。

 ではそこでなにが見えるだろうか。

 簡単だ。

 なにもない、が見える。

 色というのは光の波のようなもので、長さの違う光の波で、いろんな色のかたちになる。

 RGBの設定値をすべて0に設定したときに見えるもの。光の波を遮ったときに見えるもの。きみを抱きしめたときにしか見えない色。すべての見えない光。

「昼、太陽があなたを打つことはなく、夜、月があなたを打つこともない」

 なにひとつ明るくない、綺麗でも素敵でもない、きみが、きみだけが、見える。

see you

 優しい物語、優しい言葉、優しい距離。それらをすべて捨てたところにある色がささやかに、けれど言葉よりも、音よりも、ずっと明確に示されている。なにかを隔てたあいだでの伝達ではなく、すべてが重なったときにしか生まれない色。光じゃない場所を見つめたときに見える色。わたしたちが、いつも見ようとしてはいない色。

 だからこの物語のタイトルはたしかに、間違いなく『きみの色』なのだ。

 

エンディング:Akira Kosemura「Light Dance」


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おまけ

きみちゃんの単音ギターリフ

 

*1:結局気になってしまい小説版を参照した。「卒業式を終えて、入学式を迎えるまでのわずかな時間」とのこと。

*2:リッケンバッカー日本版:リッケンバッカー日本版ウェブサイト:rickenbacker-jp.com

*3:また、悪感情などが見える、といった一般的な?共感覚フィクションとはすこし態度が異なる。

*4:識者によればこの映像もミスリーディングな部分があるそうだが。




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