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なぜ古典を解くのかーー米澤穂信『氷菓』を再読するためのメモ。

 タイトルの通りです。なんとなく思ったことをいくつかのトピックに分け、だらだら書いています。大したことは書いていません。とくだん資料等は参照していないので、どこかで既出の話題もあるかもしれません。

 

【※本記事は米澤穂信氷菓』のネタバレを含みますので、未読のかたはご注意ください。】

 

https://x.com/nanamenon/status/1788569418542559323

 上記はいまからほんの二週間ほど前、なんとなく当該シリーズの記憶をもとにつぶやいたものでしたが、じっさい何年かぶりに『氷菓』を読んでみると、これは一面的な指摘にすぎないことに気づきました。

 ですので、もうすこし細かく考えていきたいと思いました。

 

「歴史的遠近法」と「時効」について

氷菓』という作品は文庫にして二百ページ強の、ミステリ長編としては短めの作品です。構成はざっくりいえば、かなり短めの短編いくつかと、タイトルとおなじ部誌にまつわる、後半部の中編サイズの謎でできています。しかしこれらの謎は独立せず、九章のなかで絡み合うように配置されていることがわかります。

  とはいえ、本題に入る前に、この作品が象徴する言葉について考えたいと思います。もちろん大きな象徴としては『氷菓』、あの結末を知っていればまったくうれしくないタイトルになりますが、しかしわたしたちはそれよりもいくつかのフレーズに親しんでいる気がします。それはシリーズタイトルに冠された「古典」です。

  つまりは「争いも犠牲も、先輩のあの微笑みさえも、全ては時の彼方に流れていく」といった部誌の「序文」です。

 全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく。

 

 いつの日か、現在の私たちも、未来の誰かの古典になるのだろう。

 そのように結ばれる序文をどう読み解くかこそがこの推理小説の核となるのですが、その最初の一歩を決めるときの折木と千反田の掛け合いは、とりわけ印象的でした。なぜならそれがミステリというかたちを取っていれば、なお、明確なまでに、物語的に大きな意味を持ちうるからです。

「……もし調べたら、不幸なことになるかもしれません。忘れられたほうがいい事実というものは、存在するでしょう?」

「…………」

 それは千反田、優しすぎるんじゃないか。

「三十三年前のことでも?」

「違うんですか」

 俺は首を横に振った。

「違うさ。そこに書いてあるじゃないか。『全ては主観性を失って、歴史的遠近法の彼方で古典になっていく』

「…………」

「時効ってことさ」

 俺は笑いを作る。千反田はつられて笑いはしなかったが、ゆっくりと頷いた。

「……はい」

「時効」。

 つまりすでにこれは過去のことであり、水に流されたものではないか、とまで言えるかはわかりませんが、折木が述べているのは、そこまでナーバスにならなくともよい、といった意味合いのことばでしょう。しかし気づけば、わたしはこれになんとなく、物語の、ロマンチシズムの気配を感じていました。

 おそらく現在、こう思ってしまう大きな原因としては、アニメーション版の存在が避けられません。台詞の一部こそ原作とは異なるものの、上記の「序文」が読み上げまれ、ふたりが問答しているシーンのあいだ、本アニメのテーマであるガブリエル・フォーレによる「シシリエンヌ(シチリアーナ)」が流れています。

 時間は夕方。金色の光が地学準備室(原作では地学講義室)やグラウンドに柔らかく降り注ぎ、俗っぽい言い方をすれば、ここには豊かな「詩情」があります。さらに俗っぽくいえば、流れている音楽は古典(クラシック)です。この瞬間、彼らも、わたしたちも遠い時間の流れそのものに触れている、といった言い方さえできてしまいます。もちろんこれは言い過ぎですが。

 ただしかし結論を先取りするならば、「時効」つまり一種の罪悪感からのそらし方を採用してしまうこと、「歴史的遠近法の彼方」という言葉を鵜呑みにしてしまうのは、「それはわれわれにとっては遠くの出来事、むかしの出来事にすぎないのだから」と居直ってしまうことにすぎないでしょう。

 そうなのです。

 これは居直ることにすぎないはずなのに、しかし、わたしはここに、どうしようもないくらいにつよいロマンチシズムを感じとってしまったのです。

 なぜでしょうか。

 それはおそらく、ミステリという分野に慣らされたわたし個人が推理によって読み解くことに快楽をおぼえる人間だからでしょう。もう三十三年前のことなんて時効じゃないか。だったら推理してもだれも困らないだろう。しめしめ、やったぞ、これで面白い謎にありつける。とまではさすがに思いませんが、魅力的な謎を解くための「口実」が与えられたことを感じとったのは事実です。

 もうすこし柔らかい言い方をしましょう。

 答えの失われた謎解きにおいて「時効」とは、「日常」において物語がようやくはじまりだしたぞ、と思わせてくれる逆説的な合図にほかなりません。

 ですから、このシーンにわたしは胸を躍らせてしまったのです。

 

悪い冗句について

 ところで、謎解きの結論からいえば、本作のタイトルでもある「氷菓」はあまりにも悪い冗句でした。その部分に注目して読むと、作者が意図的に配置していた言葉をいくつか拾うことができることに気づけます。

 たとえば、第二章で千反田と折木が話していたところに福部里志がやってきて「出歯亀」という彼なりのジョークを言ったくだりを思い出しましょう。里志の人となりを知らない千反田はこの言葉を受けてうろたえます。

 彼女の代わりにそれを否定するため、折木はこう対応します。

「本気で言ってるのか?」

「まさか、ジョークだよ」

 ほっと千反田から緊張が抜けるのがわかった。里志のモットーは「ジョークは即興に限る、禍根を残せば嘘になる」なのだ。

 この部分は違ったかたちで反復されています。

 ここでいう里志のモットーをずるく言い換えるなら、「即興に限らないジョークは、嘘ではない」ということになります。さて、本作における即興でない、つまり否定できないジョークとはなんだったのか。

 それは、『氷菓』にまつわる千反田と関谷純の思い出にあります。

「(…)伯父はなぜ答えを渋ったのか。なぜあやしてくれなかったのか。……折木さんは、どう思いますか」

(…)

 そんなものは、すぐにわかる。俺はせいぜい余裕を見せて言った。

「お前の伯父は、撤回できないことをお前に話したんじゃないか。泣く子を相手にも、いまの話は嘘だったって言えないような肝心なことを伝えたんだろう」

 泣きだした千反田に、関谷純は「まさか、うそうそ、いまのはただのジョークだよ」とあやしてはくれませんでした。なぜなら『氷菓』にまつわる話は彼にとって真実であって、否定することができなかったからです。

 さて、ここで前段でお話した、「歴史的遠近法」についてもう一度立ち返りたいと思います。たとえばここにチャップリンによる悲劇と喜劇にまつわる有名な言葉を挿入してもかまいませんが 、この「古典」という言葉を、わざわざ〈古典部シリーズ〉と銘打たれているこの作品群のテーゼを、その甘やかな響きのままに鵜呑みにしてしまってもよいものでしょうか。

 つまり、わたしの言いたいことは以下に尽きます。

 他人の不幸を「古典」という耳触りのよい言葉に変換してよいのでしょうか。教科書のような(とくにかっこつきでいわれるような「文系」人間がありがたがるような)、ロマンチックな響きとして受け取るべきなのでしょうか。

 たった二週間前、わたしは軽率に投げてしまったこの言葉を、あらためて検討しなくてはならない気がしています。

 

〈日常〉のなかに隠されているもの

氷菓』および古典部シリーズは一般に(一般に?)〈日常の謎〉と呼ばれるミステリのサブジャンルに属しているとされています。

 しかし『氷菓』という作品を改めて読んでみると、夥しいほどに「非日常」が、端的にいえば「死」が覆い隠されていることに気づきます。

 いや、覆い隠す、という言い方は正確には違います。そらされています。そらされている、というのはむろん作者による語りの技術の謂いですが、登場人物である折木奉太郎にとっては、想像のできない出来事となっているかもしれません。

 本作の、物語のはじまりを思い出しましょう。第一章にあたる「ベナレスからの手紙」で供恵が書きつけていたのは、彼女がいるベナレスという土地が「葬式の街」であり、その街で死ぬと「輪廻から外れられる」といった話題でした。

 これは、ほかでもない作者自身によるテーマの導入です*1

 つまりここではすでに、生きても死んでもいない関谷純の存在を念頭に置いたうえで触れられている話題であることはじゅうぶん想定できるということです。三十三年が経ったいまもなお、関谷純が苦しみのなかにいる、といったイメージを読者が持つことは決して間違いではありません。しかし一連の文面から奉太郎が受け取るメッセージとは、「古典部に入りなさい」という最後の命令のほうだけです。

 これを作者の手管と判断するにはもちろん理由があります。つづく二章では福部里志がこうも言葉にしているからです。

「ある一面から見ればね。死体が、ああ僕は過失致死で死んだんだなあ、って納得して成仏するなら別だけど」

 ですからここには時間と場所の断絶はあっても、前段のベナレスからつづく「解脱」のイメージが重ねられています。

 しかし、関谷純は、そもそも弔われるような存在でさえなかった。くり返すようですが、彼は生きても死んでもいないからです。彼の存在は、最終的に、謎を解かれることでようやく(生者側からの視点ではありますが)その苦しみを解かれます。

 ですがそのいっぽうで、本作には、さらに見過ごされていると思しき歴史もあることに注目すべきです。第三章で確認される昭和四十七年度(一九七二)の神山高校の歴史には、古典部メンバーが見向きもしない「死」が短く記載されています。

 この年の神山高校

○六月七日、県弓道新人戦において神山高校弓道部初の優勝。

○七月一日、一年生キャンプ予定が台風の為中止。

□十月十~十四日、文化祭。

(…)

○二月二日、車輌暴走事故により一年生大出尚人君が死亡。追悼集会。

 読めばわかるように、ここでは名前のある人間の「追悼」がおこなわれています。

 むろんこれは関谷純に対する学校側の処遇との皮肉な対比にさえ映りますが、たんにそれだけを意味していないように思えます。なにしろここに書かれているのは「大出」という名字だからです。

 さて、どこかで聞いたことはないでしょうか。

「さあ、少なくとも今朝はそういう話じゃなかったですが。なんなら顧問の先生に……」

「大出先生です」

「そう、大出先生に確認してもらってもいいですよ」

 いま引用したのは、第二章、角川文庫版で19pの記述です。

 本作の後半、糸魚川先生に過去があったことは謎解きに絡められて語られますが、古典部の顧問である「大出先生」と名字がおなじである「大出尚人」の関係について語られることはありません。

 であれば、古典部の面々はたまたま関谷純という存在(死者)と向かい合う機会を得ただけではないのか。そのようなおぼろげな感触をこの一行は与えます。

 おそらくはこのように、わたしたち読者や登場人物たちによって、容易に見落とされるような物事が、本作のなかには横溢しているのでしょう。

 似たような例をあげましょう。

 奉太郎に手紙を送ってきた折木供恵が途中で「日本領事館にこもっている」とされることも、彼にとっては姉らしい豪快なエピソードのひとつでしかなく、彼女が訪れている「プリシュティナという街は(…)どうせマイナーな古戦場かなにかだろう。」という記述として矮小化されてしまいます。残念ながら、ほんのすこし前にNATOによる空爆にさらされていた土地であることを、彼は想像できません。供恵の旅の目的がなんなのか、ここで奉太郎は考えもしないのです。

 であれば、彼はどのようにして世界と関わる視点を得ることができるのでしょうか。それはむろん、目の前の謎を解くことによってでしかありません。本作において、関谷純の苦しみをほどくことは、折木奉太郎がおのれの似姿と出会うことではなかったでしょうか。すくなくても、わたしはそのように読みたいと思いました。

 

遠い他者に共感すること、「たてまつられる」こと

 これはべつにわたし個人による読解ではありませんが(ずいぶんとむかしに大学のミステリ研同期に指摘されてはじめて気づいたものです)、折木姉弟には、同様の命名法則が適用されています。

「供恵」に「奉太郎」。どちらにも「差し出す」といった意味合いの漢字が含まれています。とりわけ「奉」には「たてまつる」という意味があります。

 さて、当然ではありますが、本作『氷菓』のストーリーを読んだうえでこの言葉に立ち返ると、わるい冗談がいつまでもつづいているかのような錯覚を受けます。

 自らを「イケニエ」として差し出すことになった関谷純。「英雄」として「たてまつられる」ことになった関谷純。本作の解決編において、彼が文集に込めたジョークをいちはやく理解できたのは、皮肉にも折木奉太郎だけでした。

 何度目だろう、こうしてこいつらに詰め寄られるのは。俺はその度に、溜息をつきながら俺なりの答えを言ってきた。だが、今回ほどに自分に最初に閃きができてよかったと思ったことはない。関谷純の無念と洒落っ気を、誰に教えられるでもなく理解することができたのだから。

 彼がこの結論を手に入れるのはめずらしく「運」ではありません。周囲の古典部メンバーの手助けを受けることなく、最短距離でたどり着いています。それだけ彼と関谷純が近い思考をしていた、と考えることは可能でしょうか。

 同様の瞬間として、千反田家で検討をしていたさいの里志のことばをあげることもできるでしょう。(のちのシリーズを読んでいるからこそわかってしまうのですが)あれは、彼なりの共感もしくは直感から寄せられたもののはずです。

「……でも、この文集。これは、紛い物みたいな気がする」

 ほんのささいな言葉から、時間を超えておのれの似姿と無意識に出会ってしまうこと。たとえば、折木は「パイナップルサンド」で千反田にこうも言われていました。

「(…)……折木さんに、伯父を重ねていたのかもしれません」

 複数にわたって重ねられている記述があることを根拠としてよいのであれば、折木奉太郎と関谷純はすくなくとも共鳴できる存在として描かれていた、と考えることはあながち、当たらずといえども遠からず、かもしれません。

 

なぜ「古典」を解くのか

 しかし、そのいっぽうで、折木自身は、決してすぐれた「ヒーロー」ではありません。関谷純を追いやってしまった在り方とも、彼は無縁ではいられなかったことにも触れておくべきでしょう。きっとそのほうがフェアだと思います。

 壁新聞部の遠垣内先輩に対して彼は「探し物をさせてくれ」と「見つかったら持ってきてくれ」の穏当なふたつの提案をおこないましたが、それは他人の事情や弱みにつけこむような迂遠な脅迫であり、命令でした。

 この短いエピソードはストーリー全体のなかではいささか浮いているようにも見えますが、悪知恵のはたらく人間であればあるほど、こういういった「手を汚さない」操作は簡単におこなえることを示してもいます。

 なにより本作の最終章においてほのめかされ、結論づけられることのない、折木供恵による見えないマニピュレーションの影は、この小説が現在から過去へと向けられた一方向的なものではないことを、つまり安全性が担保された安楽椅子探偵の物語ではないことをちらつかせています。

 本作において、あたかも投壜通信のように投げられたメッセージを彼ら彼女らが拾ったのは、もしかしたら偶然ではないかもしれないのです。

 ある朝、なんらかの利害意識を持ったなにものかが、あなたが歩くであろう道と時間を想定して、意図的に謎を置いたかもしれない。あなたはそれに気づかず「奇妙だな」とその手がかりをもとに推理をはじめてしまう。それはもしかすると、とても都合良く「たてまつられ」てしまうことかもしれないのに。もちろん、さすがにここまで直接は書かれていませんが、わたしはここで想像せずにはいられません。

「いつか将来、自分ももしかしたら関谷純のような生き方をしてしまうかもしれない」

 もし折木奉太郎の脳裏にこのような思念が生まれていたとしら。それは呪いとしてじゅうぶんすぎるほどに強烈ではないでしょうか。

 折木奉太郎という高校生は、『氷菓』という一連の謎解き物語を通して、遠い他者とのつながりを得ました。そしてそれはいつか、彼自身の在り方や人生をゆるやかにでも変えていくことになるのでしょう。

 であれば、です。果たして本作の筋書きは、謎を解くにあたって、安全な「時効」などと平和にのたまうことのできる静的な「古典」読解でありえたでしょうか。

 それこそ悪い冗談ではないでしょうか。

 本作において、読み解かれる謎というものは遠近法の彼方で遠く小さく、白くかすんでいるような生やさしい鑑賞対象ではないはずです。それはきっと、鋭い切っ先で、いまもなお、わたしたちを傷つけてしまおうとするもののはずです。

 ではなぜ、そのような危険物と向き合って、謎を解かねばならないのか。わざわざそれに手を触れて傷つかねばならないのか。じっさい、そんなものと無縁に生きていくことは可能でしょう。けれども、彼ら彼女らにとってはそうではなかった。ここで、折木が最初に立てていたモットーを引きたいと思います。

「やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことは手短に、だ」

 これに対して、イタロ・カルヴィーノの言葉を引いておきましょう。

(…)私たちが古典を読むのは、それがなにかに「役立つ」からではない、ということ。私たちが古典を読まなければならない理由はただひとつしかない。それを読まないより、読んだほうがいいから、だ。

 それは、いつまでもメッセージを発し続けている。だからこそ、どうしようもないくらいに、手を伸ばさなくてはならないものになっている。たとえあらゆるものごとに手を伸ばすことができずとも、彼ら彼女らが目の前の謎を解かずにはいられないのは、一度でも届いてしまったそれを受け流すことができないからなのでしょう。

 だからそれはきっと、日常のなかで自らが呪われ傷ついてしまうことよりも、ずっと切実な響きを伴っているのではないでしょうか。

 そのような「古典」を前にしてわたしたちができることは、きっと多くありません。すくなくとも、その響きに対してロマンチシズムを感じとることではないことはたしかです。できるならば姿勢をただし、目をこらし、それが発しているメッセージをどうにか聞き逃さないよう、耳をすませていくことが求められるのだと思います。

 

 

エンディング:ゆだち「遠雷(通り過ぎなかった夏の)」


www.youtube.com

*1:なんならここにはT・S・ストリブリング『カリブ諸島の手がかり』最終話の「ベナレスへの道」が示唆されていますが、これは読みたい人がよんでください。印象が変わると思います。




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