パヴィリオン劇場でダブリン演劇祭の一環として上演される『モリー・スウィーニー』を見た。ブライアン・フリール作で1994年に初演された作品である。同じフリールの『フェイス・ヒーラー』同様、モノローグだけで展開する芝居である。このプロダクションはアンドルー・フリンが演出をつとめている。
登場人物はタイトルロールのモリー(ジュヌヴィエーヴ・ヒューム・ビーマン)、夫のフランク(メイナス・ハリガン)、眼科医のライス先生(デニス・コンウェイ)である。モリーは生後10ヶ月くらいの時に視力が非常に弱くなり、明暗くらいしかわからない状態になった。41歳だが按摩師として自活しており、ほぼ目が見えなくても元気で楽しく暮らしていた。そんなモリーが無職で夢見がちで独学が好きなフランクと出会って結婚する。フランクはモリーの目が見えるようになるのを夢見て、モリーがかつては名医として名高かったライス先生の手術を受けることを望む。目が見えない暮らしに満足しているモリーはあまり気が進まないが、フランクとライス先生に押されて手術を受けることになり、視力が回復するものの、その後に待っていた人生は全然、幸せなものではなかった。
全体的に「障害は治るほうがいいに決まっている」というエイブリズム的な考え方に対して厳しい批判を提示している作品である。目が見えないモリーは、目が見える周りの人たちに勝るとも劣らないくらい触覚や聴覚を使って楽しんでおり、視覚がないということはモリーにとっては全く日常的なことで、とくに目が見えればいいという気も強く起こらない。しかしながら男性であるフランクやライス先生が当事者であるモリーに変わって手術を強くすすめる…ということで、男女間の権力の不均衡と健常者至上主義が絡んでモリーは手術を受けることになってしまう。私もモリーと同じ年で発達障害があるが、自分の障害が治るといいと思ったことは全然ないので、障害の程度や受ける圧力の形が全然違うとはいえ、本当にフランクやライス先生はウザい…とリアルに感じながら見ていた。
しかしながらこの演出はけっこう控え目で静かなので、この物語の強さがそこまで生きていないような気もする。セットは後ろに花壇みたいなものがあり、前に椅子が3脚あってそこにそれぞれ3人が座って話すというスタイルだ。たまにモリーが花をいじったりするのだが、演技はけっこう抑えめで、とても優しい女性に見える。モノローグが続く構成だということもあり、あまり起伏はない。一応、最後は演出で頑張ってメリハリをつけており、舞台上の灯りがゆっくり暗くなったり明るくなったりを繰り返し、そこにモリーが近づいて終わるので、光の明暗に翻弄されたモリーの人生を象徴するような幕切れになっている。
しかしながらそもそもこのお話じたいがあんまり舞台芸術というメディアに向いていない気もする。舞台は人間同士のインタラクションが面白いメディアで、こういうモノローグだけの芝居というのはどうしてもアクションが少なくてのっぺりする。モノローグだけなら小説のほうがメディアとしては向いている気がするので、『フェイス・ヒーラー』の時も思ったが、こういう題材を舞台にする意味というのが私にはあまりピンとこない。