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「ジェイムズ」パーシヴァル・エヴェレット/木原善彦訳/河出書房新社-「ハックルベリー・フィンの冒険」を黒人奴隷ジムの視点から語り直す作品。いや、そんなレベルでは収まらない驚きが溢れている。

 

 

同じ物語でも違う視点になると見え方が変わる。パーシヴァル・エヴェレットの「ジェイムズ」は、マーク・トウェインの「ハックルベリー・フィンの冒険」をハックとともに旅をした黒人奴隷ジムの視点から語り直した作品である。

だが、本書はただ単純にジムの視点でハックとの冒険物語を語り直したというレベルには収まらない。前半部はハックとジムの旅をジム視点で語るストーリーになっているが、中盤から後半への進むにしたがってその展開はオリジナルな方向へと進んでいく。前半で「ハックルベリー・フィンの冒険」をなぞって進んでいくからこそ、後半部の展開が生きてくるとと感じた。広く知られている古典の名作が、別の顔を見せてくる感覚は、完全な新作を読む以上に新鮮な物語を読んでいるような感覚がある。 

ジムの視点で語られることで生じるユーモアがまず面白い。「ハックルベリー・フィンの冒険」で描かれる黒人奴隷たちは、当然ながら学もなく言葉遣いも拙い。彼らの言葉は、翻訳版だと〈おら〉とか〈◯◯だべ〉のような方言(エセ東北弁)で書かれる。それは「ジェイムズ」でも変わらない。黒人たちが白人と会話する際は、これまでと同様に〈エセ東北弁〉で表現される。だが、彼らのその喋りは、白人が黒人に抱く偏見にもとづくものであり、白人の前では、その拙い話し方を演じることで白人のプライドを満足させているのである。黒人同士の会話では、驚くほど理路整然と〈普通に〉話している。黒人たちにとって言葉は、生きるための道具であり、白人たちが求める黒人像を演じることでしたたかに生き抜いているのだ。この設定からして面白い。

相手や状況に合わせた言葉遣いを選ぶことの重要さをジェイムズが子どもたちに教える場面がある。(第1部第2章)

「パパ、どうしてこんな勉強をしないといけないの?」
「白人は私たちが特定の言葉遣いをすることを期待している。その期待に背かないことが大事なんだ」と私は言った。「私たちが犠牲になりさえすれば、あの人たちは劣等感を覚えずにすむ。というか“あの人たちは優越感に浸れる”ということさ。(以下略)」

娘リジーの質問に対するジムの答えにハッとさせられた。白人は黒人に対して偏見をもっている。白人は黒人を蔑み、彼らを蔑むことで優越感を得ている。だから、黒人は賢く生きるために彼らの求める黒人像を演じる。それって、〈白人〉や〈黒人〉を別の言葉に置き換えればいろいろな事に当てはまるのではないか。つまり、世の中とは差別と偏見に溢れていて、その中でいかに賢く立ち回るかが生存戦略の要だということだ。

そのように考えて読んでみると、「ジェイムズ」という作品の根幹にあるのが単なる「ハックルベリー・フィンの冒険」の語り直しにあるのではなく、黒人奴隷であるジムが、奴隷という立場から人間としての尊厳に目覚め、そして強く生きていくことを決意するまでのプロセスをいくつものエピソードを重ねることで描いていくことにあるということだと感じる。そのプロセスを描くうえで重要なのが〈言葉〉であり、それを記録するための〈紙〉と〈鉛筆〉である。

私は生まれて初めて、紙とインクを手にした。天にも昇る心地だった。私はまっすぐな枝を見つけ、先を尖らせて、片側に溝を彫った。紙を膝の上に広げ、枝の先をインクに浸し、最初の文字を書いた。本で見た通りの文字を不器用に、ゆっくりと。それから最初の文章を書いた。私はそれを判事の図書室の本で読んだ文章でなく、間違いなく自分自身の言葉にしたかった。それはつまりこうだ。

第1部第7章の最後でジムは自らの言葉で自らの文章を記し始める。とても印象深い場面だ。言葉を持つこと、書くこと、そして残すこと。それはジムにとってとても重要なことであり、黒人奴隷として簒奪されてきた彼自身のアイデンティティを取り戻すということなのだ。 この場面は、「ジェイムズ」という作品において、ターニングポイントとなる場面だと思う。

こうして物語は展開し、ジムは確実に〈奴隷〉から〈人間〉へと成長していく。数々の困難を乗り切り、彼を奴隷として蔑み虐げてきた白人たちに鋭い刃を突きつける。そして、妻や子どもと再会したジムは、自由を求めて踏み出していく。

第3部第12章、本書のラストシーン。ジムは白人保安官から「黒ん坊(ニガー)ジムって名前の者はいないか」と問われる。彼は同行している妻や娘、仲間の名前を答えていく。

「で、あんたは?」
「私はジェイムズ」
「ジェイムズ何? 名字は?」
「ただのジェイムズ」

ここで、第1部第7章で彼がはじめて紙とインクを使って書いた文章が鮮明に立ち上がってくる。“ジム”という白人から適当につけられた呼び名ではなく、自分で選び取った名前を堂々と名乗ることで、彼は自由の世界へと確実に足を踏み入れるのである。

だが、ジェイムズの物語はここがゴールではない。本当の闘いはここから始まるのだ。このラストシーンと彼の力強い「ただのジェイムズ」という言葉の重みは、これから彼と家族、仲間たちを待ち受ける希望とも困難とも読める。 

「ジェイムズ」という作品は、古典作品をリライトするという単純なものではなかった。視点を変えることで見える世界の歪みを描き、それが現代社会に対する強烈な皮肉になっていると感じた。帯に掲載されている星野智幸さんの、

読み始めたが最後、『ハックルベリー・フィンの冒険』を愛する私がいかに「白人」であったか、自分を笑い飛ばして痛快になる。

という推薦コメントも実際に自分が本書を読み終えてみるととても共感できる。胸の奥にグサリと突き刺さる作品だった。最高に面白い。そして読むべき本である。




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