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「南光」朱和之/中村加代子訳/春秋社-残された写真から想像力で写真家の人生を紡ぎ出す。物言わぬ写真と作家の語りが交錯する物語

 

 

中学校の校舎には暗室があった。1階の階段下にある物置のような窓のない部屋が暗室として使われていて、1度だけ入ったことがある。なぜ暗室に入ることになったのかは覚えていない。中学に写真部があったかも記憶にないが、その暗室でネガフィルムから写真を現像する作業をしたことは覚えている。そして、現像作業を指導してくれた先生がとにかくこだわりの強い人だったことも印象に残っている。

朱和之「南光」は、日本統治下の台湾に生まれ、法政大学のカメラ部でライカと出会い、その魅力にとりつかれて戦中から戦後の台湾の変わりゆく街や人を写し続けた写真家・鄧騰輝という実在の人物を題材にした作品である。タイトルにもなっている“南光”は、彼が台湾で開業した写真機店の名前である。

訳者あとがきによれば、南光こと鄧騰輝は、彼自身が撮影した写真やカメラや写真技術について記した文章などは残されているものの、彼自身の生い立ちや人生、思想などについて書かれたものはほとんど存在していない。日記や手記の類も一切書き残していないようだ。したがって、本書で描かれる鄧騰輝の物語は、彼が残した写真をもとに、それが撮影された時代や当時の日本や台湾の人々の風習や日常、鄧騰輝の家族に関する記録などから創造されたストーリーである。

作家は、鄧騰輝が残した写真という限られた“視覚的記録”から、彼の人生を想像し、彼の考えや心情を想像し、ストーリーとして語り起こしていく。本書は、フィクションとノンフィクションの間に位置するものといえよう。ある場面ではフィクション的要素が強くなり、ある場面ではドキュメンタリーの要素が強くなる。そのバランスにはまるかはまらないかで本書を読んだときの評価は変わると思う。

写真というメディアは、今目の前で起きている出来事の一瞬を捉えるものである。そこに写るのは被写体としての人や静物であり、撮影者の心は写らない。鄧騰輝がその1枚を撮影したときに何を思っていたのか、何かに悩んだり苦しんだりしていたのか、それとも喜びを感じていたのか、それは想像することしかできない。本作は、鄧騰輝という写真家の人生を記録した伝記小説としてではなく、想像の力で『存在しなかった言葉』を埋めていく試みなのだ。

正直、個人的には少し物足りなさを感じた。リアリティを追い求めるあまり、物語としての起伏や感情の波がやや希薄になっているようにも思えた。カメラに関する様々な専門用語が随所に登場するのは、主人公が写真家でありライカというカメラに魅せられた人物であることを考えると当たり前かもしれないが、カメラや写真に興味のない読者としては、読むリズムを邪魔されるように感じてしまったのも事実である。冒頭に書いた中学時代の先生のように、写真に対するこだわりの強い人が読んだら、きっと感じ方も違うのだろうなと思う。

本書は、写真やカメラを趣味とする人にとって、きっと特別な一冊になるだろう。だが、写真に興味がなくても心を動かされる読書体験ができるはずだ。1枚の写真から撮影者の心情や当時の風景、人々の暮らしを想像させる力——そして、それを物語として立ち上げる作家の想像力。それに触れたとき、「南光」は誰にとっても深い読書体験をもたらしてくれる作品となるに違いない。




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