
2025年上半期第173回直木賞は『該当作なし』という結果になった。同じく選考が行われた芥川賞も『該当作なし』となり、両賞ともに『該当作なし』になったのは1998年以来とのことで、書店界隈では芥川賞、直木賞の受賞作が売上の柱ともなりうるだけに『該当なし』はかなりのニュースとなっていた。
本書「逃亡者は北へ向かう」は、第173回直木賞の候補作となっていた作品である。
物語は、福島県いわき市をモデルにしたさつき市という街から始まる。工場勤務の22歳の青年真柴亮は、職場の先輩に連れられて行った飲み屋でトラブルに巻き込まれて逮捕されてしまう。その取り調べの最中、東日本大震災が発生。地震と津波で街が壊滅状態になる中、勾留を解かれた真柴は飲み屋でトラブルになった相手の仲間と揉み合いになり、相手を刺し殺してしまう。さらに、逃走の途中で職務質問をしてきた警官も殺してしまい、彼は連続殺人犯として警察に追われることになる。
逃亡する真柴を追うのが、さつき東警察署刑事一課の刑事である陣内。彼は、真柴がトラブルで勾留されたときに取り調べでその生い立ちを知る。両親は離婚し、母親は2歳のときに死んでいること。祖父と暮らしていたが、やがて児童養護施設に預けられて成長したこと。
物語の冒頭で、読者は真柴亮という青年が辛い人生を歩んできたこと、不幸を一身に背負っているかのように報われない人物であることを知らしめられる。その不幸な青年に同情すら感じてしまうかもしれない。そういう過酷な運命を背負わされた人間が、ほんの些細な出来事から犯罪者へと転落し、どれだけあがいても抜け出すことができずに苦しめられる。犯罪者だからと一概に責めることのできない、そういう陰の部分を真柴という青年は与えられている。
逃亡の中で真柴はひとりの少年と出会う。言葉を発しないその少年直人は、なぜか真柴に懐き、彼の後をついてくる。真柴は、やむを得ず直人を逃亡の道連れにすることになる。ふたりは警察の目をかいくぐって北上を続け、追い詰められた末に震災の避難所となっている小学校に逃げ込み籠城することになる。そして、真柴を説得するために陣内は交渉役として対峙する。
ラストシーンは決してハッピーエンドではない。最後に真柴は、直人の目の前で射殺される。それは、直人にとっては大きなトラウマとなるであろう。エピローグでは、事件後の直人について描かれている。事件直後の様子、彼が人間らしさを取り戻した瞬間、そして、彼の未来に対するほんのかすかな希望。
真柴の人生は、最初から最後まで不幸であった。だが、直人に出会ったこと、そして彼の父親からの手紙が、真柴の心にほんの少し「自分も誰かに思われていた」と感じさせたのなら、ほんのささやかではあるが、幸せな瞬間を得られていたかもしれない。
3.11以後、震災を背景、題材にした作品は数多く作られてきた。発災から14年が過ぎて、少しずつ人々の記憶も風化してきていると感じられるようになった今、本作が書かれたことには大きな意味があるのだろう。ただ、個人的な気持ちを正直に書かせてもらうと、これまでに震災を題材として書かれてきた他の作品に比べて、特になにか新しい視点やインパクトがあるようには感じられなかった。物足りないとさえ感じた。作品を否定しているわけではなく、もう少し震災に踏み込んでもよかったのではないか。震災がただの舞台装置の役割しか果たしていないように感じて、もったいないと思ってしまった。