
読んでいて苦しくなるような作品があります。登場人物の境遇や物語の中で起きる事件、そういったことのひとつひとつが読者の胸を締めつけてくる作品。
佐藤正午の「熟柿」は、そういう読者の胸を締めつけてくる作品です。
本書の主人公であり語り手の“わたし”である市木かおりは、伯母の葬儀の帰りに老婆をひいてしまう事故を起こします。相手を助けることはおろか、車から降りることもなくその場から走り去ってしまったかおりは、ひき逃げ死亡事故を起こした犯人として逮捕されて刑務所に収監されました。
事故を起こしたとき、彼女は妊娠していました。刑務所で男の子を出産したかおりは、出所後夫から離婚を言い渡されます。
「でもてっちゃんはね、こう言った。母親が犯罪者の子供と、母親に死なれた子供と、どっちがより不幸か、考えてみろ。これから子供が成長して、社会に出て生きていくうえで、どっちが彼の障害になると思うか、よく考えてみろ」
離婚して息子と離れることをかおりは納得せざるを得ませんでした。事故のショック、犯罪者として刑務所に入ったショック、彼女には重い重い事実であり、夫の言うことに従って離婚するしかなかったのです。
こうして、かおりの苦しい日々がはじまります。千葉、東京、山梨、岐阜、大阪、福岡と職を転々としながら十数年の苦しい日々を過ごします。息子の姿をひとめでいいから見たい。そんな思いで息子の通う幼稚園に行ったり、息子の小学校の入学式に潜り込んだりしようとして、そのたびに警察沙汰になります。
犯罪者となった母親は、生涯その罪を背負い、自分が生んだ子どもに会うことすら許されないものなのか。かおりの辛く苦しい日々の物語を読みながら思いました。確かに、人をはねて死なせ、助けることも警察を呼ぶことせずに逃走することは悪質な行為です。逮捕され、刑務所に入って罪を償わなくていけない犯罪です。ですが、刑務所での刑期を終えてからの彼女は償いを果たしたとも言えるはずです。完全に元に戻ることは許されないとしても、ひとめでいいから我が子の姿を見たいというささやかな願いを叶えることも許されないのでしょうか。
かおりが息子に会いたいと願うあまりに起こしてしまった騒ぎについては、もう少し考えて行動すればいいのにと嘆息せざるを得ません。でも、彼女にはそうするしかなかった。だって、彼女は“死んでしまった母親”になっているのですから、元夫に「ひとめでいいから息子に会わせてほしい」とは言えないでしょう。それでも、何かしらの方法はあったと思うのです。
物語の終盤、かおりの人生は少しずつ変化していきます。十数年という時間が少しずつですが彼女に許しを与えていきます。彼女のことを想ってくれる、考えてくれる人との出会いもあります。彼女自身の中にも、あの日起こしてしまった事故と罪に対する気持ちの変化もあるかもしれません。物語のラストシーンから彼女にとっての救いと希望が感じられるかは読者それぞれで違ってくるとは思いますが、私は少なからずホッとしたというのが率直な感想です。
タイトルの「熟柿」という言葉には、熟した柿という意味もありますが、別の意味もあります。作中でかおりが福岡で出会った土居さんの言葉を引用します。
「熟柿。熟し柿という意味の熟柿。でもスマホに入れてある辞書にはもう一つ意味が載ってて、⋯⋯この話、前にもしたと思うよ。『熟した柿の実が自然に落ちるのを待つように、気長に時機が来るのを待つこと』の語意もあるらしいんだよね、熟柿には。(以下略)」
焦らずにいつかそのときが来るのを待つ。簡単なようで難しいことだと思います。若い頃のかおりは、息子に会いたい、ひとめ姿を見たいと焦って騒ぎを起こしてしまいました。年月を積み重ねる中でいろいろな不幸も経験し、いくつもの罪を重ねてしまったかもしれないけれども、その先にはきっと幸せが待っている。市木かおりという女性の人生が、この物語を終えた先で幸せであることを願っています。