
イタリアのポストモダン文学の奇才トンマーゾ・ピンチョの代表作
本書「ぼくがエイリアンだったころ」の裏表紙にある作品紹介のあらすじ末尾で著者はこのように紹介されています。
ポストモダン文学(あるいはポストモダン小説)というワードはよく聞ききますが、具体的にはどのような文学を指すのかや代表的なポストモダン文学作家は誰かといったことは、わかっているようでわかっていませんしたのでAIに訊いてみました。
いくつかのAIに尋ねた結果を整理するとこうなります。
- 物語が多様な視点(複数の語り手が登場する等)から描かれ、ひとつの真実を求めるのではなく、断片的であり曖昧さが強調される。
- 物語自身がその構造をメタ的に言及するメタフィクションとして描かれることが多い。
- パスティーシュやパロディといった手法が重要な手法として取り入れられる。過去の文学作品などを再構築したり批判したりすることで作品に新しい解釈をもたせたりする。
その他にも、時間の経過を直線的に扱わず過去・現在・未来を混在させたり、社会の価値観や真実に懐疑的であったり、物語を断片的に語ることで読者の解釈を促したり、多彩なジャンルを混在させたりといった形で書かれるのがポストモダン文学ということのようです。
本書は、「ぼくがエイリアンだったころ」というちょっと不思議な魅力のあるタイトルが目を惹く長編小説です。現代社会への反抗や不安をポストモダン小説の手法で描き出す作品となっています。翻訳同人アンソロジー「翻訳文学紀行」を刊行してきた『ことばのたび社』が、初めて刊行する商業出版作品となります。
物語の主人公は、ホーマ・B・エイリアンソンという青年です。彼は9歳のある日、眠ることをやめました。以来18年間自発的な不眠を続けています。ホーマーは、眠ることで自分が人間でなくなることを恐れています。彼の不安や恐怖を象徴するのが映画『ボディ・スナッチャー』であり、映画の登場人物が語る「多くの人が気づかないうちに、人間であることをやめていく。一瞬で全部というわけではなく、夜から朝にかけて徐々に、その差はわかりにくい」という言葉です。それは、幼いホーマーの心に深く刺さり、彼は眠ることをやめるのです。この奇妙で非現実的ともいえる設定が、物語全体の基盤であり、ホーマーの精神的な孤立感や社会との乖離を浮き彫りにしているように思います。
眠らない生活を続けてきたある日、ホーマーは若い浮浪者カートと出会います。カートとの出会いは、ホーマーにとって新たな世界への扉を開く出来事でした。彼との友情を育む中で、ホーマーは「システム」と呼ばれるドラッグに手を染め、依存していくようになっていきます。
ホーマーが出会ったカートは、実在のロックミュージシャン、ニルヴァーナのカート・コバーンです。私は洋楽に詳しくないので、カート・コバーンという名前には馴染みがありませんでした。ネットで調べてみると、伝説的なバンド「ニルヴァーナ」の象徴的存在であり、ヘロイン中毒などで精神を病み、最期は若くして自ら命を絶ったとありました。本作中でも、カートは自ら命を絶ち、ホーマーもまた同じ運命を辿ったと思わせることで物語は終焉を迎えます。
ホーマーとカートの関係は、単なる友情を超えた、深い依存関係といえるかもしれません。そこには、儚さと狂気が入り混じっているようにも思います。ホーマーは、カートとの交流を通じて、一種の救済を求めているようにも見えますが、その救済が必ずしも彼を幸せに導くわけではなく、むしろ、さらに不安定な場所へと引きずり込んでいったのではないでしょうか。そして、その不安定さが、この物語の魅力となっているのではないでしょうか。
ポストモダン文学が、伝統的な物語の枠組みを崩し、断片的で多層的な意味を含むことを特徴としているなら、本書はまさにポストモダン小説なのだと思います。ホーマーが経験する現実と自発的な不眠やドラッグという非現実的な部分との境界が曖昧な状況は、この世界がどこか歪んでいるような感覚をもたらします。それは私たちが、現実の社会で感じる疎外感や孤独感をあらわしているのかもしれないと言ったらおおげさでしょうか。ですが、本書で描かれるホーマーの姿は、どこか私たち自身の姿と重なるように感じてしまうのです。
「ぼくがエイリアンだったころ」は、人間が抱える社会の中での孤独感や疎外感、人間であることへの不安を描いた作品だと思います。眠ることを拒むホーマーの姿は、社会に対する不安と抵抗であり、カートとの奇妙な関係性は、破滅的な魅力と危うさを同時に表しているように思います。読後には、不安定さと共にどこか心に残る余韻があり、物語の世界観を深く考えたくなる気分になります。この独特な読後感こそが、本作の最大の魅力なのかもしれません