ビラ1万枚を用意しての大捜索
爽彩さんの行方がわからなくなった2月13日18時の気温は氷点下17℃以下。成人でも長時間外を歩き続ければ命に関わるほどの酷寒。しかし失踪当日の爽彩さんの服装は軽装で上着も自宅に置いたままだった。現金も所持していなかった。母親が娘の携帯に何度電話しても、電源が入っていなかったため繋がらず、携帯に内蔵されているGPSも機能しない。居場所はわからなかった。
それでもパトカーによる捜索は続けられ、警察犬も投入された。失踪翌日には、ヘリコプターによる上空からの捜索も行われた。その後、親族とボランティアが協力して、爽彩さんの写真や特徴を記したビラを1万枚用意しての大捜索も行った。
「捜索する側とビラを配る側とに分かれて捜しました。
当時通っていたX中学校の先生も毎日探してくれた。
ボランティアの方が地元のラジオ局に爽彩のことを伝え、(ラジオで)呼びかけてくれたりもしました。
旭川以外にも捜索範囲を広げて、100キロ以上離れた札幌でもビラを配るなどして捜しましたが、娘を見つけてあげることはできませんでした」(同前)
失踪から38日が経った3月23日、悲報が母親に
それにもかかわらず、失踪から19日が経った3月4日、捜索は手詰まりとなり、警察は公開捜査に踏み切った。そして、失踪から38日が経った3月23日の14時半、悲報が母親の元へ伝えられた。
「警察から電話がかかってきて、身元の確認のため、安置された旭川東警察署に来てほしいと言われました。『絶対に爽彩じゃない。あの子は生きている』って思っていたから、警察に『違います』と、言おうと思っていました。でも、警察署に行って、安置所で遺体を見たら、間違いなくあの子だったんです。娘は凍っていました。私は何度も娘に謝りました」(同前)
部屋から『ごめんなさい』『殺してください』と独り言が
取材は爽彩さんが暮らした自宅の居間で行われ、母親の他、親族や支援者も集まった。
仏壇には、優しく微笑む爽彩さんの遺影が飾られていた。
「今でもあの子を産んだ時のことは忘れません。
3384グラムの元気な女の子でした。小さいころから健康優良児で食べることが大好きで、元気に学校に通っていたころは『今日給食でおかわり5回した』なんて話してくれる子でした。自然がいっぱいある緑に囲まれたベンチで静かに勉強するのが好きで、鳥の鳴き声も好きって言っていた」(同前)
爽彩さんの親族も声を震わせる。
「遺影は8カ月前の昨年の夏に、爽彩が久しぶりに外に出て、お友達と偶然会った時に、みんなで撮ったものにしました。
生まれた時から七五三などの節目のイベントがあるたびに写真館で写真を撮っていたんです。
でも、中学校に入ってイジメを受けた後は、あの子は引きこもるばかりで、ほとんど写真が撮れなかった。
以前は『将来は法務省で働いて正義の味方でいたい』ってよく言っていました。
『検察官ではなく、弁護士はどうなの?』って聞いたら『爽彩は悪い人の味方はしたくない』って。
でも、イジメを受けてからは全部変わってしまった。
自己否定を何度も繰り返し、部屋から『ごめんなさい、ごめんなさい』『殺してください』と独り言が聞こえてくるようになった。『外が怖い』と外出も出来なくなってしまいました。
絵が昔からとても好きな子でね、いつもカラフルな明るい絵を描いていたのですが、それも随分とテイストが変わりました」
イジメの後は描く絵のトーンも暗くなった
爽彩さんが家に引きこもるようになった2019年の秋以降に描かれたイラストがここにある。
それまで描いていた色彩豊かな調子はなくなり、
色はモノトーンに。
ある絵には「ムダだって知ってるだろ」との言葉が書き込まれていた。彼女の心の叫びだったのだろうか。
僅か14年の人生に幕を下ろし、母親を残して天国へと旅立った爽彩さん。
彼女を精神的に追い詰めたイジメの壮絶さは取材班の想像を絶するものだった。
大人たちの知らないところで、爽彩さんの尊厳を踏みにじるような“事件”が起きていたのだ――。





