その土地に住まう、ということはその土地にただならぬ縁が出来たという意味。
その土地に来たからこそ出会えた人々との絆。
それも確かに生きていくうえで大切なこと。
でも我々としてはその土地土地の霊場、霊山とのご縁をもしっかり意識していきたい。
私は東京勤務が決まった時に、いくつかの選択肢がある中で「八王子市」という土地を選択し、そこに准胝院を開くことになった。
八王子の霊場、霊山と言えば?
言わずもがな高尾山だ。
一門でもことさらご縁のある飯縄明神。
だから私なりにコツコツとこの土地と飯縄明神のことを調べていた。
今日はその内容を少しだけ記してみる。
私が個人的に調べたものなので誤りもあるかもしれない。
特に宗派という意味では門外の人間です。 気になることがあればご指摘いただけると幸いです。
* * *
八王子の地に越してきて間もない頃、私は気晴らしに、近隣の城山湖から津久井湖へと足を延ばしたことがあった。
そこで偶然にも出会ったのが、津久井湖畔に佇む真言宗智山派の古刹・金剛山普門寺にある、その境内から180段の石段を上った先に鎮座する「飯縄権現堂」だった。
これは妻が目ざとく「あ、飯縄権現だって」と車から看板を見つけたのだった。
果たしてこの飯縄権現は高尾山薬王院の飯縄権現と関係があるのか?
そんな疑問からスタートした。
その歴史の断層を紐解いてみると、そこには一筋縄ではいかない信仰の重なりが眠っているようにも見受けられた。
高尾山の正体を知る手がかりは、文献史学よりもさらに古く、一億年前の海底にあるのかもしれない。
かつて海の底だった小仏層が垂直に近い角度で大隆起してできた高尾山は、地層の間に「水道(みずみち)」と呼ばれる隙間を抱え、山全体が水をたっぷりと含んだ構造になっているという。
この豊かな水が苔や巨木を育み、縄文の昔から人々をこの山へと惹きつけてきたのではないだろうか。
行基菩薩や俊源大徳による開山以前から、この山そのものがカミの宿る霊山として尊ばれてきたことは、自然な理のように感じられる。
しかし、その歴史の中で「俊源大徳」という存在が修験の山としての出発点を象徴しているように思われる。
伝承によれば、俊源大徳は京都の醍醐寺から入山したとされている。
醍醐寺といえば真言系修験「当山派」の中枢であり、高尾山の歴代住職の記録を拝見しても、江戸初期には醍醐寺無量寿院との関わりの中で「田舎本寺」としての地位を確立していった様子が伺える。
明治以降の宗派再編により、現在は智山派という教団組織の中にあるが、その根底には当山派的な修験の実践文化が、今も脈々と流れ続けているのかもしれない。
一方で、戦国時代に目を向けると、そこにはよりダイナミックで実利的な「祈祷のネットワーク」が浮かび上がってくる。
北条氏照が八王子城の守護神として飯縄権現を篤く崇敬したという話があるが、彼は同時に、天台系修験である「本山派」の総本山・京都聖護院門跡とも密な連絡を取り合っていた可能性が考えられる。
当時の修験組織の構造を辿れば、聖護院の下には郡ごとの寺院をまとめる「年行事」という役職があり、さらにその下に村々の宿坊や山伏たちが連なっていた。
氏照はこの組織系統を保護し、そのネットワークを軍事や情報のライフラインとして極めて戦略的に活用していたのではないか、という見方もできる。
一見すると、醍醐寺系の当山派的な色合いが強い高尾山を信仰しながら、組織運用としては聖護院系の本山派とも接点を持っていたことは矛盾するように思えるかもしれない。
しかし、戦国という乱世において、宗派の看板以上に重んじられたのは「山の管理能力」や「情報の伝達速度」といった実利的な働きであったのかもしれない。
氏照にとって、飯縄信仰は個人的な帰依の対象であると同時に、境界を守り、山中の道を把握するための「統治のシステム」という側面もあったのではないだろうか。
だからこそ、高尾山は一つの宗派や一つの派に閉じない。
当山派的な修法文化が流れ込んでいようと、本山派的な組織網が背後で機能していようと、それは霊山という結界を守るための両輪として共存していたようにも思える。
霊山というものは、そもそも人間の制度の枠を軽々と越えてしまう。
史料を眺めても、それを思わせる出来事がいくつも並んでいる。
永禄三年(1560年)、北条氏康が薬師堂修理のため武蔵国内一所を寄進したという。
永禄四年(1561年)には、北条氏照が椚田の地を「高尾山」に寄進している。
さらに天正三年(1575年)には、押買・狼藉・喧嘩口論を禁じる制札が出された。
これらは単なる「寄進」や「保護」というより、山を山として保つための、いわば統治の言葉に見える。
殺生禁断、一木一草。
後世の伝承として語られがちなこの厳しさも、霊山を霊山のままに置くための、現実のルールだったのかもしれない。
八王子城と高尾山は地理的に近い。
しかしそれ以上に、境界を守るという一点で強く結びつく。
高尾山は武蔵と相模の接点にあり、甲斐へ抜ける道の入口でもある。
この場所を押さえるとは、軍事だけでなく、霊的な意味でも「結界の要」を押さえることになったのかもしれない。
氏照が飯縄権現を篤く崇敬したという話が、もし事実に近いのだとすれば、そこで祀られた飯縄は、ただの守護神ではない。
境界に立つ者。
夜の山を統べる者。
動く時代の中で、目に見えない線を引き直す者。
戦国武将が好んで飯縄を頼った理由が、少しだけ分かる気がする。
その後、豊臣の時代を経て、徳川の世に入っても、高尾山は保全され続ける。
天正十九年(1591年)には、大久保長安が代官らに竹木伐採禁止を命じたという記録が残る。
そして江戸期に入ると、高尾山は庶民の信仰の山としても賑わう。
戦国の祈りが、江戸では講中の祈りへと形を変えていく。
ただし、形が変わっても根は同じなのだろうと思う。
この山が「霊気満山」と呼ばれるゆえんは、制度や時代の上にある。
一方で、明治に入ると流れが変わる。
修験道は廃止され、神仏は分けられ、山の世界は制度の言葉で整理されていく。
薬王院が智山派の末に転じるのも、この近代の再編の中だ。
けれど、史料の中には、飯縄の名が消えずに残っている。
明治二十年の再建勧進帳に「飯縄大善神」と記される。
什器帳に「飯縄不動明王像」と記す。
大権現号が復活していない時期に、別の呼び名で息をつないでいるようにも見える。
名前を変えても、残したい何かがあった。
おそらくそれは、当山派だとか智山派だとか、そういう区分の以前にある「山の実践」だったのだろう。
だから、津久井城山の飯縄、普門寺の飯縄権現堂、高尾山薬王院の飯縄大権現。
これらは、単なる点在ではなく、ひとつの信仰圏の痕跡として理解した方が自然に思える。
それは「高尾山の飯縄が周辺に広がった」という単純な話ではなく、戦国期の境界守護と武運長久の祈りが、いくつもの場所に受け皿を作っていった、ということかもしれない。
私はこの土地に来て、たまたま妻のひと声で、普門寺の飯縄権現堂に導かれた。
けれど、それは「偶然」に見えるだけで、本当はこの地域の歴史の層に触れた、ということなのだろう。
土地に住まうとは、土地の人と出会うことでもある。
同時に、土地の霊場と出会うことでもある。
その両方を、私は大事にしていたいと思う。
そして今度、高尾山の飯縄大権現さまに手を合わせる時は、山の深い時間と、戦国の祈りの痕跡と、津久井の飯縄さまとの不思議な連なりを、少しだけ意識してみようと思う。
そういう参拝も、きっと悪くない。
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