『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』を観てきました。
なかなかキツかったですが、本当に起こってることなので居心地悪いのは仕方ない。そして「とにかくそこにカメラがある」ということの凄さですね。
ヨルダン川西岸の状況については、いろいろなところで耳には入ってきている情報ではあります。突然家を壊しにくる、小学校も壊す、武装集団がいきなりくる、いつのまにか入植者住宅を造る、などなど。
それがずっと住んでる人のカメラに映っていると「そうか、こういうことなのか」とわかる一方で、ちょっとひどすぎて理解の回路がバグるところもあるんです。
そうは言ってもそんなにひどいことが起こるわけはないんじゃないか。これはなにかの間違いで、ちゃんと手順を踏んで正せば最低限の正義は取り戻せるんじゃないか。
そういう思考がまさにたぶん監督のふたりの青年にカメラをとらせたのでありましょうが、ドキュメンタリーが進むにつれてふたりとも、「だんだん何をやってるのかわからない目つき」になってくるのが大変つらいところです。
そしてこちらも、もはや何を観てるんだかちょっとわからなくなってくる。
風景の美しさと、ふたりの青年が非常にチャーミングであることで映画がちょっと救われてるのかな、と思って最初は観てもいたのですが、二人の間にあって二人だけではどうやっても消せない構造的な差別の問題がだんだんと浮かび上がってきます。
自由に車を運転できるのはイスラエル人のユヴァルだけ。破壊の取材が終わったら帰る家があるのもユヴァルだけ。ユヴァルがパレスチナのバーセルを訪ねることはできるけど、バーセルがユヴァルの家へは決して行けない。
どこに行ってなにをしていてもその差はずっと二人の間に絶対的なものとして意識されているのであろうということは画面の端々に映り込みます。
一方で現状を変えようとして活動しているイスラエル人のユヴァルも「なんでこんなことをするんだ、俺の家を壊したのはお前の親戚かもしれないじゃないか」ということは言われる。または村を破壊しにきているイスラエル人からカメラを向けられ「こいつが敵の味方をするイスラエル人だ。この動画をSNSに投稿したらお前はイスラエルにいられなくなる」と脅迫される。
どうしてこんなことになるんだ、と頭痛がしてきてあたりで長い90分が終わりようやく劇場を出ます。私も、破壊の映像記録を観終わったら、帰る家があり、家についたら全部忘れる権利までもっていることにもはや何を言ったものかもわからないのでありますが、せめて90分は観て途方に暮れろ。まずはそこからだ。ということでもあったなと思うのでした。
私が住んでいるのもかつて入植植民地として開拓された土地ですから、おそらくは同じことが起こっていたのであろうからして。