ラジオでは表現できない感覚がある。俺はこのブログのことはオートマティスムをする場として設営した。そのことは間違いがない。懐かしい。大学生の頃から続く信条だ。しかし今ではもう齢四十を迎えて、すっかりその性質は変貌してしまった。しかしこの変わらぬUI。すごい。変わらないということはそれだけでひとつの個性だ。思ったことをすべて記述する。それがオートマティスムではなかったか。俺がブログを書くとしたら、やはりこれなのだ。最近ではその意義を忘れ、何らかの意味のある事柄を書きつけていた。忘れてしまっているではないか。遺憾である。ラジオを代替としているのでここに記述すべきことはすべて吐露しているとして、書くことを怠っていたが、別種のメディアなのである。酔っている。酔っている時にしか書かねえよこんなもん。怖い。恐怖がある。なんかしらんけど酔ってしまって、てきめんにアルコールが効いて、今俺は酔っている。音楽をYouTubeでザッピングして、ことここに俺の気持ちは昂っている。これは真剣な話である。シリアスだ。生半可な歓待は、それを俺は許さない。つまり、最近のチャラいノリだけの音楽が俺を迎えたとして、ふざけるなと俺は一喝するだろう。この今の、ノスタルジー、なんか知らんけど酔ってしまった俺を迎え入れる音楽は、俺が親しんだ、かつて親しんだ、懐かしい音楽でなければならない。この酔ってる時の使命感は、なんなんだろうな。俺が普段、何らかの創作をしなければいけないという強迫観念、あの強迫と同種のものであろうか。誰しも、自分のこのリアルな感情が何よりも重要で、これを解決しないことには、何ともならない、という情が生まれることがあるだろう。酔っている時にだ。この儚さときたら、ない。なんで酔っていると、今のこのまろび出ている感情こそが何より重要で、他の何にも価値などない、という気持ちになるのだろう。それは他人にとっては、いや、他人どころか、後日の自分にさえ、なんだこれ、マジキチか? と思うようなものに成り果てるのである。そのことは分かっている。だとしたら、酔いとはなんと残酷なのだろうか。この今の俺の感情には何の価値もないというのか。酔っ払いの戯言という片付け。ふざけんなよマジで。この昂りに何の意味もないわけねえだろ。はあ。すべてがどうでもいい。揺蕩っている。何も守るべきものがないという身の上は、揺蕩いすぎている。すべてがどうでもよくなる。こんな不安定なものがありますか? もっと碇みたいなものを沈めて、それと接続しなければいけないのではないのですか? 人間というのは。
プログラマー飽きた。つまんねーーーー。もっと別のことしたい。何がしたいんだろ。何もしたくないな。別に。やっぱり俺は何かのために我慢して何かをすることが非常に苦手だ。抑圧に弱い。こんなことしてる場合じゃねえんだよなあ。もっと高尚な、何かをしなければいけない。俺ってこんなに抽象的なことばかり言う存在だっけ。それだけ抽象的な生活をしているということだな。ホンマ、なんなんだ。もっと何かあるはずだろ。俺をかつて刺激した、ホンモノのエンターテイメントが俺を苛む。もし俺が高名な思想家だったら、よくある晩年に訳の分からんことを書き記しましたみたいなものとしてこの散文がピックアップされたりして。俺を形成してきたもの。特定のエンターテイメント数本。これに触れている時だけが、汗臭い憧憬と共に俺の記憶にとって鮮明なものとして顕現する。今、CARNIVALのOPムービーを見てる。これが俺の青春だ。回春だ。ヤバすぎる。瀬戸口廉也、責任とってくれ。俺はその地平に放逐された。ただのエンターテイメント作家として俺は貴方を見れない。物理的に俺を絆して、どこか訳の分からん地平に俺を導いた具体的な人だ貴方は。厄介オタク。解決しないかなー自動的に。解決しない。解決解決。はあ。東浩紀が、過去はよかったと振り返る人が多いことを不健康だと評していた。その通りだ。俺の場合、過去の自分が感じたあの感情だけが本物だったという意味で、過去がよかった。あの瞬間にした感動、あれは本物だった。今は、そんなものを感じていない。そういうことだ。今は、どうでもいい。あの時の感動に、今の何の快楽も匹敵していない。バカバカしい。保守的な自分がだるい。保守的という殻をかぶることもおこがましい。単に、楽な生活を手放しがたいだけだ。もっとピリつきたい。でも、ピリつくこともできなくなってきている。なんとか解決しなくてはならないのだろう。