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新春恒例のレコード・オブ・ジ・イヤー2025をお送りする。

自分が2025年に購入したレコードの中で良かったと思うものを勝手に選出している。あくまで自分が2025年に買ったということでレコードのリリース年とは全く関係がないのも例年通り…

「保管スペースの関係でレコードの購入が怪しくなってきている」と書いたのは2025年1月の「レコード・オブ・ジ・イヤー2024」の記事だったが、2025年は目に見えてに購入数が減った。スペースファクターもさることながらジャンク(100円~300円)カゴでの掘り出し物の出現率が激減していることもその要因である。(本物のジャンク=「ゴミ」ばかりになっている)
まあ欲しいものはあらかた手に入れたということかも知れないが…


洋楽部門

サイモンとガーファンクル 『グレーテスト・ヒット』←この表記は当時のライナーノートの表記(1972)

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言わずと知れた大物アーティストS&G、現役時代のベスト盤。
とはいえ、後から見るとリリース時点で解散状態であった。70年の『明日に架ける橋』が最後のオリジナルアルバムだったのだ。
シングルヒット曲だけではなくアルバムの曲やライブバージョンも選択されており、この頃のポール・サイモンとアート・ガーファンクルの考え方が垣間見えるのが興味深い。

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ベスト盤だが、ほとんどが別音源(既発音源は4曲のみ)で、オリジナルアルバムとみなす人もいる。(「製作に1年余を費やした」とライナーノートに記載有)ただ、オリジナルアルバムとしてみると『明日に架ける橋』の方が数段上だ。
CD時代になり様々なコンピレーションがリリースされ、ほとんど網羅的に聴くことが可能になった(そもそもオリジナルアルバムが4枚しかない)が、オリジナルアルバムの価値は下がらない。
自分はポール・サイモンを同時代のマッカートニー&レノンに匹敵するコンポーザーと評価しているが、S&Gについては解散(明確な時期が不明だが)後もちょくちょく一緒にやったりやらなかったり、軽い感じが価値を低めているような気がしている。(まあ、二人なので集合離散が容易である)



邦楽部門

オフコース 『SELECTION1973-1978』(1978)
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オフコースの年代別ベストの前半分。

実は「レコード・オブ・ジ・イヤー2021」で年代別ベストの後半分『SELECTION 1978-1981』(1981)を取り上げていた。70年代後半からバンド指向になりブレイクしたと、書いていた。ちょうどその頃がニューミュージック(死語)の勃興期で、よりロックっぽい甲斐バンドやチューリップもフォーク寄りの松山千春も(もちろんユーミンも)ひとくくりにされていた。そんな中、ニューミュージックの旗手として登場したのがオフコースであった。
歌謡曲でもフォークでもない曲を歌うようになってブレイクした。(まだ日本のポップスはメジャーになり切れず、シティポップなる音楽が一般化するのはもう少し後のことだ)
そのオフコースがニューミュージックにカテゴライズされる前のベスト盤がこの、『SELECTION1973-1978』(1978)である。小田さんと鈴木さんの両方に気を使った選曲になっている。(バンド期は小田色が強まり、鈴木さんは82年に脱退する)
「眠れぬ夜」「ワインの匂い」「秋の気配」「やさしさにさよなら」等が収録されている。




クラシック部門

・ムラビンスキー指揮 レニングラード管弦楽団 チャイコフスキー『交響曲第四番』
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RESONANCE というのは独グラムフォンの廉価盤(再発盤)に付けられていたラベル。レギュラー盤との違いはよくわからない。

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これはイギリスで演奏されたもので、オーストリアで演奏された五番、六番とともにチャイコフスキー後期三大交響曲を西側のテクノロジーで録音したものである。ムラビンスキー指揮の演奏を良音で聴けるのはありがたい限り。

ちなみにCDも複数出ており自分が持っているものは3枚組で四番、五番、六番がそれぞれ1枚のCDになっている。(バラ売りのCDを3枚集めたもの?)
最初にCD化された際は2枚組で五番は2枚に分かれて収録されていた。


2025年11月。久々のアルバム「Wormhole / Yumi AraI」発売で松任谷由実のテレビ露出が増えている。わかりやすくプロモーション(宣伝)だが、ユーミンクラスが出てくれるとなると番組側も時間を取って軽々しい扱いにはしない。
どこかの番組(NHK?)で本人が言っていたことだが、「松任谷由実は荒井由実を超えたいと思っていたが、超えられなかった(もう気にしなくなった)」的な内容であった。
どちらも同一人物なのだから、それはおかしな話なのだが、実際のところこの言葉の意味はよくわかる。

実際、「好きな曲ランキング(オールタイム)」の多くの割合を荒井由実時代の曲が占めている。
「みんなのランキング」のサイト(2025年11月19日現在)のランキングによると
ベスト10までで5曲が荒井由実名義。のこり5曲は松任谷由実名義だった。
「なんだ、そんなもんか」と思ったあなた、考えても見てほしい。ユーミン50年のキャリアの中で荒井由実時代は、ほんの数年(1972年から1976年オリジナルアルバム4枚)である。全キャリアの十分の一にも満たない期間なのである。
ベスト20位までを見ても11位に「あの日にかえりたい」12位に「海を見ていた午後」13位に「ルージュの伝言」とベストテンに入ってもおかしくない曲が並んでいる。(20曲中9曲が荒井由実名義)
これはすごいことで本人が「荒井由実時代を超えられない」と考えるのも無理はない。
これほど時間が経ってもエバーグリーンの名曲となっていることは、「若き天才」という修辞では語りきれない「本当の天才」の所業だったと言えるのではないだろうか。

もちろん前に書いた通り、荒井由実と松任谷由実は同じ人格である。名前が変わったとたん天才ではなくなったということは無い。
本人があまりに加熱する「荒井由実ブーム」から脱するために結婚を機に改名したと語っている通り、「荒井由実」でいることに嫌気がさしていた。歌手を引退するつもりだったらしい。
ただ、実際はそうはならず1年休んだ後、1978年から年2枚(!)のペースでアルバムをリリースしていくことになる。
80年代に入ると本格的な再ブレーク期に入り、1981年のアルバム「昨晩お会いしましょう」(12枚目「守ってあげたい」「カンナ8号線」収録)から1997年の「Cowgirl Dreamin'」(28枚目「最後の嘘」収録)まで連続でオリコン1位を獲得した。(17作連続!)
1984年。YとMを組み合わせた『ユーミンマーク』を前面に押し出したアルバム「No Side」(18枚目「ノーサイド」「BLIZZARD」「DOWNTOWN BOY」収録)以降さらにギアが上がった。以降アルバムリリーズは年1枚のペースになるが、売れ方が尋常ではなくなる。(世はバブル期に突入する)
さらに本格的なCD時代となる1988年の「Delight Slight Light KISS」(20枚目「リフレインが叫んでる」収録)以降8作連続で100万枚を突破する。(ちなみに最多の売上枚数を記録したのはベスト盤の「Neue Musik YUMI MATSUTOYA COMPLETE BEST VOL.1」(1998)の325万枚だった)
活躍の度合いに関しては決して荒井由実時代に劣っているわけではないのである。

それでも、である。
前出のランキングによるとベスト20位まで松任谷由実名義の11曲は以下の通り
1位 DESTINY (1978) 
2位 埠頭を渡る風 (1977) 
8位 リフレインが叫んでる (1988) 
9位 守ってあげたい (1981) 
10位 青春のリグレット (1985)
14位 ノーサイド(1984)
15位 真珠のピアス(1982)
17位 カンナ8号線(1981)
18位 春よ、来い (1993)
19位 NIGHT WALKER(1983)
20位 ジャコビニ彗星の日(1979)

ベスト20のこれ以外の曲は当然70年代の曲なので70年代の曲は12/20。それと地続きの80年代前半の曲が5/20。80年代後半が2/20。90年代以降が1/20。



松任谷由実・荒井由実の区切りを気にせずに年代で考えても初期の70年代が圧倒的に人気という結果になる。CDを売りまくった80年代後半から90年代の曲は3曲だけだ。
50年前の曲が今でも愛され続けているのである。
70年代、時代に先行していたユーミンは80年代以降、時代と寄り添って、ニーズにびったりマッチしてCDを売りまくり、2000年代以降時代と乖離し始めている感があるのではないか?最新アルバムがAiボーカルとの共演というのも「今一度、最先端」への憧憬なのではないだろか?(スミマセン、自分の妄想です)

図書館のCDコーナーで「Yumi Arai SINGLES」というCDを見つけた。

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松任谷由実のディスコグラフィからは黙殺されている、alphaレコードが勝手にリリースしたシングルコレクションである。
(様々なアーティストがレコード会社移籍のタイミングでこんなことをされている。ドリカムしかり、スピッツしかり、山下達郎しかり、だ)

シングルバージョンを集めているので曲によっては貴重な音源がある。なにより全体が70年代の雰囲気が横溢している。最近のベスト盤等に収録される際にはバーニー・ゴールドマンによるリマスターが行われるので、オリジナルにより近いのはこちらの盤であろう。
曲順はCD裏面に記載(写真)の通り。英文で書かれているが日本語タイトルである。
(ユーミンはある時期から表記するしないにかかわらず英文タイトルも付けているが、それではない)
収録曲
01. Velvet Easter
02. あの日にかえりたい
03. 12月の雨
04. 何もきかないで
05. 魔法の鏡
06. きっと言える
07. 空と海の輝きに向けて
08. やさしさに包まれたなら
09. 瞳を閉じて
10. ルージュの伝言
11. 少しだけ片想い
12. 返事はいらない
13. 翳りゆく部屋
14. ひこうき雲

なかなかに貴重なものと思っていたが、ヤフオク等をみると大量に出回っているみたいで普通に安価で買える。(買う価値があるかどうかはあなた次第)


2025年7月20日、大阪・難波のスカイオで開催されていた「宇宙戦艦ヤマト全記録展」へ行ってきた。と言っても、それを目的に行ったわけではなく、通りすがりなのであるが…
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たまたま、なんばCITY地下の旭屋書店の前を通りかかったら、庵野秀明フェア的なものをやっており、それが「全記録展」との連動企画だった。
そのポスターによると、この企画展は7/19から始まったばかりと書いてある。場所は「なんばスカイオ」。
これは何かの「めぐりあわせ」と行くことにした。スカイオの場所がわからずにやや苦労したが、(南海なんば駅の直上だった)無事たどり着いた。
全く何の予備情報も持たずに当日券の列に並んでいたが、チケットが2種類ありプレミアムが4,500円!通常が2,000円だった。(プレミアムは庵野秀明デザインの限定アクスタが付くらしい)列の少し前の紳士がプレミアムを買っていたがどんなものかは確認できなかった。

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また、チケットといっても企画展名が印刷されたものではなく、係の人が時間を手書きした(基本、時間で予約して入場するシステムだったようだ)カード様のものだった。代わりといってはなんだが小さい栞をくれた。チケットくらい印刷して欲しいものである。記念に残るものが何もないではないか。まあ、物販で買わせる作戦なのかもしれないが…

自分が行った時間は12時半頃で入口付近はさほど混んでない印象だったが、中に入るとオジたち(自分もだが…)がたくさんいて、展示の前で動かない状況であった。仕方なく、飛ばし、飛ばし見た。(14時の電車で帰らなければならない。お土産も買わなければ…)

「庵野秀明企画・プロデュース」とあったが、実際、どの程度関与しているのか疑問(名義貸し疑惑)と感じた。(3月の東京開催の際はメディアに登場していたみたいだが…)
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貴重な資料はあった。ヤマトの本体デザインは松本零士のラフを「スタジオぬえ」の宮武一貴がフィニッシュしたのは有名な話だが、その原画が展示されていた。これが最初の展示で「おおっ」と思った。展示自体は原画と複製が入り混じった感じで全てが原画というわけではなかった。

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企画段階のラフやイメージ画は貴重なものだろう。表に出ることはめったにない大変興味深いものだった。当初は全く違うものが構想されていたのだ。
ビジュアルのラフスケッチが相当数展示されていたが、当時「総設定」という肩書が付いていた松本零士が相当量の設定を行っていたことが見て取れた…

宇宙戦艦ヤマトは1974年秋から翌年春に向けて放送されたテレビアニメで、この展示会自体が「50周年記念」というものだった。

実際は本放送時よりも、編集され劇場公開された映画版(1977)の方が盛り上がり、アニメ専門の月刊誌(アニメージュ)が創刊(1978)されるなど、一大ムーブメントとなった。
大人たちが「アニメは商売になる」と気づいた最初の瞬間である。


これまでも、アニメーション映画は存在したが東映動画の初期の大作時代(50年代の「白蛇伝」や60年代の「太陽の王子 ホルスの大冒険」等)を除けば「東映まんがまつり」などで複数上映される60分程度の子供向け作品がほとんどだった。2時間程度のオリジナル作品が出始めるのがこの頃(ヤマト以降)

この頃の劇場公開(オリジナル)作品を見てみると…
『ルパン三世 ルパンVS複製人間』1978(公開当時、副題は無かったような…)
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』1978(完全新作の続編・ジュノサイド映画 お話としては完全に終わっているが、これを無かったことにして続編が作られる)

『銀河鉄道999』1979(りんたろう監督の劇場版、主題歌ゴダイゴ)
『がんばれ!タブチくん‼』1979(いしいひさいち原作マンガを映画化。芝山努監督)
『ルパン三世 カリオストロの城』1979(宮崎駿作品だが興行的には失敗して干された)


80年代に入ると目に見えて多くなる
『ドラえもん のび太の恐竜』1980(記念すべき劇場版第一作)
『火の鳥2772 愛のコスモゾーン』1980(手塚治虫もの)
『地球へ(テラへ)』1980(竹宮恵子もの)
『ヤマトよ永遠に』1980(松本零士はこれが最後と考えていた←そうはならなかった)
『サイボーグ009 超銀河伝説』1980(東映初のお正月アニメ大作)

盛り上がりを見せる富野由悠季(当時、喜幸)作品群 
いずれもTVシリーズが打ち切りになったため劇場版で完結させるという形であった。特にイデオンはこれから全面戦争だ、というところで終わっていて、全く完結していなかった。(この形は後にエヴァンゲリオン(平成の劇場版)に踏襲される)
『機動戦士ガンダム』1981(TVの編集版でオリジナル作品ではないが重要なので…)
『機動戦士ガンダムⅡ 哀・戦士編』1981
『機動戦士ガンダムⅢ めぐりあい宇宙編』1982
『伝説巨神イデオン接触編』1982
『伝説巨神イデオン発動編』1982

『1000年女王』1982
『わが青春のアルカディア』1982

『幻魔大戦』1983(角川アニメ第一作。大友克洋がキャラクターデザインをした←原作者平井和正から不評だった 「ハルマゲドン」(英語読みだとアルマゲドンもしくはアーマゲドン)という言葉が一般化したのはこの映画から
『クラッシャージョウ』1983(安彦良和監督第一作。残念ながら冗長)

そして1984年。
後にスタジオジブリへと発展解消するトップクラフト※が制作した『風の谷のナウシカ』が公開され、日本アニメの転換点となった年である。
この年、河森正治の『超時空要塞マクロス 愛 おぼえていますか』も公開され、TV版の不満を一掃する作画クオリティで、絵のクオリティを語れる時代がやってきた。

※発展解消と書いているが正確には『ナウシカ』の現場が過酷すぎてほとんどのアニメーターが辞めてしまい維持できなくなった。「ラピュタ」制作のために新たに作られたのがスタジオジブリである


大分話がずれているが、ヤマトにもどそう。
 
実は松本零士がこのプロジェクトに参加したのは放映まで1年を切った時期だった。
そこからかなりの設定をやり直し、松本零士色の強い作品になった。(女性のキャラとメカニックが特にそう)
また、放送と同時期に少年チャンピオン誌上で松本零士による漫画連載も行われており、ヤマト=松本零士の印象が強かった。
ただ、やはり松本零士は「雇われた人」で、ヤマトは西崎義展のオフィスアカデミーが制作の中心であり、西崎義展の意向で作品が作られていくことになる。
ビジュアル面の松本零士色はともかく、ヤマトは西崎義展のものだったのである。

日本だけのシングル「レット・イット・ビー/ゲット・バック」(1981)


日本におけるシングル「レット・イット・ビー」といえば通常、1970年3月25日に発売された、B面が「ユー・ノウ・マイ・ネーム」のシングル盤のことである。
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内容は同時期のUK盤と同じで、ポール脱退前最後のシングルである。

何度も再発売されているのかもしれないが結成15周年記念でリイシューされていることは確認済みである。結成15年で77年の発売である。
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ただ今回取り上げるのは1981年9月1日発売のB面が「ゲット・バック」のシングル盤である。これはビートルズとは直接関係がない特殊な事情で日本でのみ発売されたシングル盤であった。(画像無し)

どういう事情か?
彼ら自身が出演していた作品は除いて、世界で最初にビートルズの曲を主題歌として使用した映画は「悪霊島」(角川春樹事務所・東映)である。
主題歌として使用されたのが「レット・イット・ビー」で、「ゲット・バック」が挿入歌という位置づけだった。
鹿賀丈史が金田一を演じ、篠田正浩が監督した。この頃、「鵺(ぬえ)の鳴く夜は恐ろしい」のコピーとともに「レット・イット・ビー」が流れるテレビCMがバンバン流されていた。(角川映画の広告は物量投入型だった)ビートルズの曲がCMで使われることは時折あったが、映画の主題歌というのは異例。そして、この映画のサウンドトラックとして「レット・イット・ビー/ゲット・バック」が7インチシングルで発売されたのだ。

1981年というのはまだ権利関係の意識が低かったのか、二次利用の観念があまりなかったのか、劇場公開は問題なくできたが、それ以降、楽曲の使用ができなかった。(最初のテレビ放送と公開直後のビデオでは使用できたようだ)
ドラマ「コールドケース」でも過去の楽曲を使用していてソフト化できないということがあったが、この「悪霊島」もビートルズの楽曲を使用していたためビデオ化ができなかった。(現在はビートルズの演奏部分を差し替えてソフト化されている=U-NEXTで観ることができる)


横溝正史と角川映画
ここで「角川映画の金田一耕助といえば石坂浩二じゃないの?」と違和感を感じる人は鋭い。角川映画の第一作は紛れもなく「犬神家の一族」(1976・石坂浩二主演市川崑監督作品)である。そして、その後も市川崑+石坂浩二の作品は数多く撮影されたが、それは角川映画ではなかったのである。
角川書店は(並びに角川春樹事務所)は版元として横溝正史作品の売上に貢献する、映画化は歓迎の立場だったが、「犬神家の一族」制作時にお金を巡る確執があり、東宝とは袂を分かつていたのだ。

当時角川文庫が惹起した「横溝正史ブーム」の真っただ中で、横溝作品の映画化は東宝のみならず各社で競って行っていた。実は最もヒットした作品は「八つ墓村」(1977・松竹)で渥美清が金田一を演じていた。有名な「祟りじゃ~」のセリフがCM等でバンバン流され、流行語となった。

東宝は市川崑+石坂浩二のコンビで6本(2006年のリメイク版「犬神家の一族」も含む)製作し印象が強いが、前述のように角川春樹事務所が製作に関わったのは最初の「犬神家の一族」だけである。(市川崑はもう一本「八つ墓村」を監督したが主演は豊川悦司だった)

その後、角川映画の横溝作品といえるのは、角川春樹が雇われプロデューサーとして参加した東映の「悪魔が来りて笛を吹く」(1978西田敏行が金田一)とパロディ映画として撮られた大林宣彦監督・古谷一行=金田一の「金田一耕助の冒険」(1979)と「悪霊島」(1981)だけである。


横溝正史は60年代、既に忘れ去られた作家であった。
60年代の松本清張の登場とともに始まった「社会派推理」ブームによって”古い作家“のレッテルを貼られ顧みられることが無くなっていった。40年代~50年代までは金田一が登場する映画がたくさん作られていたが61年高倉健が金田一を演じた「悪魔の手毬歌」を最後に製作されなくなる。
70年代、角川文庫で再版され、煽情的なカラーのカバーが付きだしてから売れ始めたのだという。映画化は75年の「本陣殺人事件」(金田一は中尾彬)を嚆矢として、76年角川映画の「犬神家の一族」でブレークを果たすと、その後毎年のように製作公開され、角川文庫版は恐ろしく売れたという。

当初の角川映画はCMコピー「読んでから観るか、見てから読むか」が、表しているように、「本を売るために、映画を作る」というビジネスモデルだった。横溝ブームの時代はそれがハマったと言えるだろう。(「犬神家の一族」は映画化ブームの呼び水になった)
後の角川映画は角川三人娘の登場によって、様相が変わっていくが、それはまた別の話である。


最近、若年層に浸透したCITY POPブームによって、70年代後半から80年代の日本のPOPS(当時はそんな呼び名ではなかった)の掘り起こしが始まっている。
2023年9月27日放送のフジテレビのドラマ「パリピ孔明」第一回で上白石萌歌が歌っていた曲が原田真二の「タイムトラベル」だった…


70年代前半、日本ではフォークが一般に浸透し、吉田拓郎やかぐや姫(南こうせつ、伊勢正三)などのシンガーソングライターを輩出した。この時代、フォークに括れない井上陽水などもフォークカテゴリーに入っていた。J-POPの萌芽も芽生えていたがまだメインストリームにはなりえない時代であった。
70年代後半に入り、70年代前半から特異な存在であった、松任谷由実が「ニューミュージック」と呼ばれ始め、フォークの私小説的な世界から、よりPOPな世界観を現出し始めた。
日本が、にわかに「世界のニッポン」となりつつありバブルの始まりの時代でもあった。
ただ、ニューミュージックというジャンルはそれまでの音楽と不可分で、境界線があいまいな部分があった。明らかにフォークが出自の松山千春もニューミュージックと呼ばれたし、ロックバンドの甲斐バンドもニューミュージックのカテゴリーだった。
売れている曲で「歌謡曲」(アイドルを含む)以外をニューミュージックと呼ぶような時代であった。

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こんな時代に原田真二はデビューした。正確には1977年10月シングル「てぃーんず・ぶるーす」でデビュー。11月「キャンディ」、12月「シャドー・ボクサー」と立て続けにシングルを発売した。3か月連続のシングル発売は当時のプロモーションとしては異例で、しかも、3曲ともヒットした。そして、「てぃーんず・ぶるーす」「キャンディ」を収録した78年2月発売のファーストアルバム『Feel Happy』はオリコン1位を記録した。10代でのデビューアルバムが1位をとった男性アーティストは彼以外にいない。(女性では宇多田ヒカルがいる)バラエティに富み、スケール感の大きなアルバムは非凡なものを感じさせる。
自ら曲をつくり複数の楽器をこなし、何なら多重録音で曲を仕上げてしまう。まさに早熟の天才であった。(初期のころ歌詞は松本隆が書いていた)
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直接関係ないが同時期にデビューした山下達郎(ソロデビューが1976年12月)は初期のアルバムが全く売れず、シングルも出せずにいたが、それでも見捨てなかったスタッフと本人の努力で1980年にシングル「ライド・オン・タイム」がスマッシュヒット。続くアルバムのヒットでようやく認知されるようになった。その後40年以上一線で活躍するアーディストである。(最近のインタビューでデビュー時期が近い、チャーや原田真二について言及があった)

原田真二はデビュー時のブレークぶりが激しすぎ、普通に活動していても「売れなくなった」と思われてしまうような状況であった。
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『Feel Happy』の歌詞カードの裏は60cm×30cmのピンナップになっている

ブレークはビジュアル重視のアイドル的な売り方故なのだが、本質が理解されていなかったのかもしれない。ブレーク後の楽曲をきいても非凡なものがあり、なぜ急激に取り上げられなくなったのかよくわからない。

デビュー当時、本人もあまりのブレークぶりに、最初の事務所アミューズを早々に辞めている。(アミューズは原田真二を売り出すために作られた事務所で所属タレントは彼しかいなかったのだが、彼が辞めた後、サザンオールスターズという金脈を掘り当てて、大事務所になっていく)それも影響があったのかもしれない。

いずれにしろ「再発見」が待たれるアーティストの一人である。



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