この項で何度か書いていることだが自分は1965年生まれ(昭和40年男)である。
同い年生まれのプロ野球選手はすぐに思いつくのに(古田敦也、山本昌広、池山隆寛、吉井理人等々)アーティスト(ミュージシャン)となるとなかなかいない。不毛の年なのかもしれない。(失礼)少し下の世代なら斉藤和義(1966)、吉井和哉(1966)、トータス松本(1967)、草野マサムネ(1967)桜井和寿(1970)と思いつくのに…
1965年生まれの数少ないミュージシャンの中で、これはと思うアーティストはユニコーンの奥田民生。そして、もう一人、尾崎豊だ。
尾崎豊の登場
尾崎豊は1965年11月29日生まれ。都内の区立中学から青山学院高等部へ進学し、3年生の時にCBS-SONYのオーディションに合格してレコードデビューを果たした。1983年12月のことだった。
その後。高校を中退し高校の卒業式の日、同日にデビューライブを行った。
Wikipediaによると最初のアルバム『17歳の地図』はろくにプロモーションもしてもらえずセールス的には振るわなかった。(初回プレスは2000枚だったそうである)
2枚目のシングル「卒業」(1985)は当時、プロモーションビデオが話題になり(色のペンキを尾崎豊にぶっかけ続ける、みたいなものだったと記憶している)繰り返し再生され、認知され、曲自体の尖った内容(「…夜の校舎、窓ガラス壊してまわった…」)と相まってヒットした。そのシングルを含むセカンドアルバム『回帰線』は大ヒットして初登場1位を獲得している。
『回帰線』には「卒業」以外にも「シェリー」「スクランブリング・ロックンロール」「ダンス・ホール」など今でも聞かれる曲が収録され名盤なのかもしれないが、自分的にはファーストアルバム『17歳の地図』の方が上である。デビューアルバムが最高の一枚というアーティストは意外と存在するが尾崎豊も(残念ながら)そうなのではないだろうか?
まあ、そもそもその当時、尾崎豊のことは全く評価していなかった。後々「ティーンのカリスマ」みたいにもてはやされ、ある特定の世代には「尾崎」は特別な存在だったのだろう。自分ら世代に「YAZAWA」(=「成りあがり」)が特別な存在だったように…
自分にとっては「大人に抑圧されたティーンの代弁者」のような位置づけが、青臭く、現実離れしていて、とても聞く気にはなれなかった。(時代はローリング80sである。抑圧よりも未来への期待感の方が強かった)
尾崎豊が亡くなったのは26歳の時(1992)
当然自分も26歳である。それくらいの年齢にになって、聴く機会も増えていった、共感するところまでには至らなかったが、「アイ・ラブ・ユー」「シェリー」「ダンス・ホール」などのラブソングでは非凡な書き手だと思っていた。
今(2023)聞くとアレンジが軽い感じだが、80年代を封じ込めることには成功している。ノスタルジーと笑わば笑え、なかなかに良いと思った。(青臭いところも含めて…)
ただ聞いたのは10代のうちに録音された最初の三部作だけ。全体の評価とはいいがたい点はご容赦いただきたい。
10代最後の日に発売が決まっていた、サードアルバム「壊れた扉から」の発売1か月前に、まだ録音が終わっていなかった「Forget-me-not」をほぼ一発取りで録音したのは有名な話だ。
この曲、槇原敬之のカバーを聞いたことがあるが、とても優しい名曲である。しかし、尾崎豊のそれ(オリジナル)はまさに絶唱という趣である。音程の狂いやテンポのずれを気にせず、叩きつけるように歌う。その時の尾崎豊にしか歌えなかった、奇跡の1曲である。
本人が亡くなっているかどうかは関係ないと思うが、好きな1曲である。
※今回この稿を書くにあたり改めて1965年生まれのアーティストを調べたら、いました大物が…その人の名はYOSHIKIと言い…











