今、空前の編み物ブームだという。特にZ世代の若者の間で大流行していて、毛糸も品薄になっているとか。そんなニュースをテレビやネットで小耳に挟んでいたが、今朝の朝日新聞の天声人語も「最近、編み物がブームだという。」という書き出しで始まっていたから驚いた。やっぱりそうなんだ。
スポーツ選手や人気アイドルがブームの火付け役らしいが、コロナ禍の生活で編み物に辿り着いた人も多く、YouTubeの「編み物チャンネル」が増えたり、コミュニティとしての「ニットカフェ」も広がっているそうだ。
そんなブームとは全く縁のないところで、長年ボチボチと編み物を続けてきた私は、たまたまこんな本を読んでいるところだった。
「編むことは力」ロレッタ・ナポリオーニ

サブタイトルは「ひび割れた世界のなかで、私たちの生をつなぎあわせる」
著者はエコノミストで、幼い頃に祖母から編み物を学んだ熱心な「編む人」でもある。
私にとって編み物はあくまで個人の領域を出ないものだったが、この本を読んで編み物が歴史の中で「フェミニズムや社会運動を支えるツールでもあり続けた」ことを初めて知った。まさにタイトル通り「編むことは力」だ。
さらに興味深いのは、編み物は刺繍や織物などと全く違ったルーツや歴史を辿ったということだ。まず「編む(to knit)」という言葉自体が15世紀になるまで辞書に登場しなかったそうだ。「紡ぐ」「織る」はかなり前に登場していて、高貴な手芸としてみなされていたのに。
辞書には載っていなくても、もちろん編み物は存在していた。人々は編むという方法で、魚網を作っていた。
つまり、編み物は、最初から人類とともにそこに、つまりサバイバルのための道具の中に存在していたのだ。
刺繍やタペストリーなどの手芸は芸術作品で、エリートのためのものだという。とても美しいが、言ってみれば必需品ではないとう点で。
編み物は貧乏人と労働者と奴隷の手芸だったから
編み物は2本の針を使う技術が突破口となり世界中に広まったが、ヨーロッパ史は編み物を無視し続けたそうだ。
「エリートたちが編み物に関心を示さなかったからだよ」
この本を読むまで、編み物の歴史なんて考えたこともなかったけど、言われてみれば編み物はいつも生活の中にある風景だった。祖母も母もよく手袋や靴下、帽子などを余り毛糸でせっせと編んでいた。子や孫が寒くないようにと。
刺繍、洋裁、編み物等、今ではいろんな手芸が身近にあるが、空前の編み物ブームが起きていることを考えると、やはり編み物には特別な何かがあるのだろう。
私は他の手芸と編み物が決定的に違うのは「ほどくことができる」という点だと思う。元は1本の糸であり、自分の手と編み棒で時間をかけて編んだ物も、ほどけばまた1本の糸に戻る、戻すことができる、ということだ。この潔さが気に入っている。
ついこの間の失敗。ネックウォーマーをやっと編み終わって、いざ被ってみたら頭に引っかかって被れなかった。あちゃ、小さすぎた。ゲージをきちんと取らずにいい加減に編み始めてしまったから、こういうことになる。
ほどくのは一瞬だ。「あんなに時間をかけて編んだのに、、」と嘆きたくなるほど、あっという間に元の毛糸の状態に戻る。まるで一瞬で解けた魔法のようだ。私が編んだ時間なんてどこにも存在しなかったように。
それでも時間を無駄にしたという感覚はない。むしろ「やり直せる」ことに気持ちが軽くなるから不思議だ。他の手芸ではこうはいかない。一度切ってしまった布は元には戻らないし、刺繍をほどくのは相当困難だ。

この著者も人生を編み物に例えている表現がたくさんある。
「私は、自分の人生をゼロ地点から編み直した」
「実存的な不安から解放されるためには、それぞれの人生を一目一目編み続ければいい」
そしていちばん心に響いたのが、次の言葉だ。
「編み物は、心のヨガなの」
編み物をしている時、そこには穏やかな時間がある。指を動かし、指先を見つめている間、不安・怒りなどのネガティブな感情が入り込む隙はない。心と体と魂がひとつに繋がって、限りなく平和なのだ。「心のヨガ」とはよく言ったものだと思う。
編み物には瞑想に似た効果があるという。「編み物療法」「ニットセラピー」と呼ばれ、被災し避難所生活を送る人々を癒すこともある。一方で、ある時は社会運動のツールになり、人々が集団で同じ物を編んでメッセージを伝えることもある。こんなにいろいろな顔を持つ編み物とは、いったい何なんだろう。
天声人語の言葉は次のように締めくくられていた。
「疲れた身を癒やし、時に政治論争の種にもなる。編むとは、かくも深い営みなのである。」