こんにちは、rekikakkunです。
小田原北条氏の防衛戦は、八王子城探訪の
投稿が終わり、今回で30回目となりました。
あらためて、全体地図を確認してみます。
いつ作ったのか確認してみたら、
2023年12月7日という・・・。
本シリーズは、1年と3カ月経ちました。
ゆるして・・・+_+
上の全体マップの⑯が小田原城、
前回の八王子城は⑬です。
⑯の小田原城は最初に投稿しましたので、
残りは⑭韮山城、⑮石垣山城の2回の予定です。
今回は⑭韮山城となります。
今年2月に再訪してきましたので、
この日の探訪歴をご紹介致します。
1.韮山城の概要
明応2年(1493年)伊勢新九郎盛時
拠点としました。

上のマップで見ても、⑭の韮山城は
伊豆国の出入口となる重要拠点と言えます。
因みに茶々丸の本名が伝えられていませんが、
れっきとした足利家の血筋です。
なので、この事件が下剋上の始まり
とも言われていました。
とはいえ、元々茶々丸は父政知の死後、
後継者争いで義澄の実母ともう一人の弟を
殺害しています。
義澄が将軍になって1年足らずの事件なので、
を滅ぼした、という説も有力となってる様です。
もっと突っ込みたいのですが、
どんどん話がそれてしまいます。
早雲の話は尽きませんね。
大河も次の主人公の選択をみると、戦国ネタが
尽きた感じがあるので、中央と地方を
島津義弘等、これまで主役にしていない武将や
戦国前半の時代を採用してほしいな~。
と話しすぎましたので、探訪に進みます。
2.韮山城籠城包囲戦史跡の探訪
今回の探訪経路を下マップで示します。
赤線(天ヶ岳砦)⇒青線(本立寺付城)
⇒黄色線(韮山城)の順番で探訪しました。

今回は写真に時間も掲載してみます。
(1)天ヶ岳砦(赤線)
天ヶ岳砦は韮山城の南に位置する約128mの山で、
4方向の尾根全てに堀切を主とした防御施設を設けた、
韮山城よりも大きな山城です。
韮山城の東にある、城池の南から登ります。

右端に、ちらっと見えてるのが、私の車です。
9:28探訪開始です。
駐車場から上の写真の反対方向(西方向)に歩いて
2分、韮山城と天ヶ岳砦間の堀切に到着します。

(写真右手が韮山城、左が天ヶ岳)

(階段を上がって右から入る)





(登り16分でした)
下の縄張図に主郭と土橋が載っています。
(ほぼ図の中央上から登ってきてます。)

(伊豆の国市ホームページより)






この土橋が天ヶ岳砦の紹介によく出てきます。
半分土橋で半分堀切の形、結構特徴的ですよね~。


ただこの時、思ってたより(写真で見るほど)
土橋が狭く感じなかったです。
なので、私は最初ここが行きたかった
土橋と思っていませんでした。


超えるの大変そう



外れた斜面を、スパイダーマンの様に進む

底から堀切上を見るとロープがある。
どっちもどっち、危険です。

この堀切が一番危険だったので、安全な尾根道に
出てから、縄張図で現在位置を確認しました。
が、ここで大変な感違いをしてしまいました。😥

上の縄張図で、実際に私は青線を通ってました。
北側から天ヶ岳を登り、主郭にアクセスして、
主郭⇒土橋⇒堀切7⇒堀切8を超えた所です。
なのに探訪時は、主郭を反対方向に通って
堀切13⇒堀切14⇒堀切15を超えたと
思ってしまいました。
なので縄張図を見て、堀切15の先は、少し進んだら
遺構が無くなりそうなので、道が無くなったら、
Uターンして、土橋方向に行こうと考えていました。
絶対おかしいですね~。
富士山が北、眺望も西側と分かってましたし、
そもそも図に記載の土手和田から登ってないし。
(なのに図を90°回転して見てしまった。)
多分北側から主郭まで進んだ、図の細い道が
見えてなく、かつ土手和田の文字も
見逃してしまってたと思います。


堀切に見えるけど縄張図に無いから何だろな~?
と考えながら歩いてます(;´д`)トホホ




そろそろ道も無くなるだろうと思って進んでます。


木でなかなか見えない

少しだけ確認しようと中に入ってみます


ここで自分の間違いに気が付きました。
多分南の方向に進んでいると。




民家が右手に見え、天ヶ岳の南方向に来たと確信。

Googleマップでもお墓を確認。
道があるので、そのまま進んで降りると決心。

あらま、まだ堀切があるのか~










斜面を強引に降りて見上げてるところ


(この道は以前来てるので見覚えがあります)
(2)追越山、上山田、本立寺の付城
天ヶ岳砦の南側に降りました。
ここから韮山城を包囲する為に豊臣軍が
構築した、いくつかの付城(陣城)を
そのまま歩いて見に行きます。
下の地図で青色のルートです。


その時自転車で天ヶ岳を1周してます。




右の小さな頂が追越山付城
左の大きな山が上山田付城


写真左側の頂が本立寺付城



彼は幕末の時代、近代砲術等を学び、
品川砲台や反射炉建設等、日本近代化の
先駆けの一人として貢献されています。






があるから、山城遺構で間違いなさそう



道は後世で作られたか、もしくは空堀?。

土塁でした。反韮山城側(写真右側)に平坦地がありました。

(兵站地ですよね?付城は所々あります)







同じ山道を降ります。
本立寺砦は、山道がしっかり作られてたので、
安全に行けました。

この先に城池があり、韮山城です。



2年ほど前の韮山探訪時に行きました
山木判官兼隆の館跡。
源頼朝旗揚げで最初にヤラレた平家側の役人。
そう、ここ韮山の地は、鎌倉の北条氏と
戦国の北条氏と源頼朝、幕末近代化等が
混在している、歴史の地。👍

右が韮山城、左が天ヶ岳。
中間が堀切で、最初に登ったところ





攻略されなかったのは、多分全体的に沼地だったのかな?
落城しなかった忍城を思い出されます。


現地の縄張図にも三の丸からこの道が出ていて、
ちょうど見えてるところは御座敷と書いてあり、
水堀もありますね~。





写真中央の少し右付近の山の途中に山中城があるはず。
ちょっと離れてますね。




左側の2つの突起の山は天ヶ岳の主郭でも撮影されてますね。
何とか一つにまとめました。
天正18年(1590年)3月29日から
豊臣軍4万に包囲された韮山城は、
3カ月に及んだ籠城戦を耐え抜き、
6月24日降伏開城しました。
足柄、東海道からは離れているので、
小田原城の西側の防衛にはあまり
役に立たなかった感じですかね。
開城には、先ほど探訪した本立寺が菩提寺で、
籠城もしていた江川家が一役かっていたそうです。
天ヶ岳砦の北東にある江川砦、
そしてその麓には重要文化財となっている
江川邸があります。
江川家は江戸時代は天領の代官であり、
先述しましたが、幕末の先駆的な施設である
そして韮山城は、その大半が現在江川家の
所有地とお伝えして、終わりたいと思います。
<補足>
本投稿直前に三島に行く所用があり、時間が
3時間程あったので、同じ登城口から天ヶ岳砦
主郭経由で江川砦側に行きました。
もう間違えません(笑)
数枚だけ写真を追加します。

すぐに堀切13に着きました。
えぐられ方がえぐいですΣ(゚Д゚)

堀切というかもはや地盤沈下みたい


この日、下から和田島砦にも向かいましたが、
あまりの藪化に堀一つだけ見て諦めました。
その帰り、大人一人、小学生6名程が
天ヶ岳入口を上っていったので、心配でした。
普通のスニーカですと落ち葉で滑って滑落、
急坂、ロープ伝い、切り株等危険が多いので、
注意、準備が必要な所です。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m