こんにちわ。rekikakkunです。
引き続き八王子城探訪を投稿致します。
4.八王子城探訪
1)根小屋地区 探訪
2)居館地区 探訪
3)要害地区 探訪
①根小屋、②アシダ曲輪、③太鼓曲輪、
④御主殿、⑤金子曲輪、⑥山王台
⑦搦め手 ⇐今回はここからです。
下の攻防戦図内で、最上部(北側)が⑦搦め手です。

⑦搦め手筋の探訪
八王子城の搦め手は、城の北側からの玄関口であり、
現在の県道521号線で東西に延びる陣馬街道から
南下する位置づけです。
この陣馬街道を八王子城の搦め手方向(西方向)
へ進軍すると、東側から小田野城、西側からは
浄福寺城により横矢を掛けられ、かつ搦め手入口
には北浅川が天然の堀となって障害となっています。
・・・と、まあ分かってる様に書いてますが、
ま!、私ほぼ分ってません。
と言うのも、一般に出ている八王子城の縄張図は、
本丸から見て南、西、東側は載ってるのですが、
北側の図がほとんど載っていません。
(例えば上の攻防戦図ですと、もっと上のエリア
に搦め手があり、ほぼ載っていない。.)
なので国土地理院の地図に、これから探訪する、
搦め手平地部専用で〇番号表記しました。
(赤線が基本の搦め手道と想定しています。
薄赤丸で囲われたところが本丸区域です。)

(ざっくりの位置関係です。
あとちゃんと探せば搦め手も地図がある様です。)
①小田野城
豊臣軍の搦め手攻略部隊は、下恩方に攻め寄せた
という話があります。確認すると、ざっくり
八王子城搦め手のほぼ全域が、現在の
下恩方町に含まれている様です。
下恩方町のすぐそば(隣)です。
(小田野城を歩くと2つの町の境があるみたい)
つまりは八王子城搦め手を攻撃する前に、
小田野城は攻略しなければなりません。
そして搦め手を守備した武将を探しますと、
小田野源太左衛門という名がありました。
なので小田野城の城主だったのかな?
と思われますが、小田野城自体の履歴は
ほとんど不明なんだそうです。
そして戦闘時、小田野源太左衛門が小田野城を
守備していたのか、八王子城の搦め手内で
防戦していたのかも不明です。
ただ私は戦力差があるこの状況で、小田野城を
少人数で守備しても八王子城防衛に寄与しない
と感じたので、後者だと思って搦め手に
お名前を書きました。
(つまり小田野城は放棄し、搦め手守備に吸収)
それでは小田野城に行ってみます。
今回私は心源院さんに駐車させて頂き、
近いので歩いて小田野城へ行きました。


このまま歩くと通り過ぎてしまいそうです。

すぐ左手が民家なので写してません。

(小田野城の西側から登る道)

戦国期からこんなに広かったのでしょうか?
因みに一般的には、小田野城東側の観栖寺台公園に
案内板があり、そこからアクセスする様です。




そして、この写真右手からあの山へ陣馬街道が伸びてます。
②心源院
当日は太鼓曲輪を探訪後、心源院に立ち寄りました。

駐車場にてコンビニおむすびで済ませます

この時は12月2日ですね。



(綺麗な紅葉に出会えてラッキーでした👍)


つまり搦め手の東側の尾根筋ルートです。
ここは、戦闘時どなたか登ったのかな?
③浄福寺城
搦め手入口のすぐそばにある浄福寺城は、
縄張図を見ますとなかなか規模があり堅固
そうですが、行って無いので写真1枚です。

ただ本戦闘では戦力差が大きく、少数の防衛隊
が前田利長軍により、攻略されたとのお話があります。
(放棄されていたお話もある様です)
④松竹橋
陣馬街道を西進し、恩方第一小学校を越えた
T字交差点、北浅川の松竹橋が、搦め手の
目標ポイントになると思います。
(車だったので写真撮れませんでした_(._.)_)
⑤松嶽稲荷神社
この松竹橋を渡って南へ下ると、
松嶽稲荷神社に到着します。
この周辺が八王子城搦め手の門だったとも
言われています。

搦め手門と想定されている付近


門があったと信じちゃいます😆
松竹橋から神社へ車で向かう時、何か通り難いな~
と思ってましたが、確認して見ると4か所程道が
くねくね先が見えなくなっており、さも戦国期の
名残か!と思いました。
ただ当時の橋が違う位置と言うお話も・・・😞
~八王子城攻撃軍容 再確認~
ちょっとここで割り込み話を・・・。
前回の投稿で豊臣方15,000人と書きましたが
やっぱちょっと少なかったですね~。
再確認したところ、現実に近そうな説が下記です。
<大手側攻撃軍34,000人>
・前田利家 10,000人
・上杉景勝 8,000人
・真田昌幸 2,000人
・松平康国 4,000人
・降兵 10,000人前後
(大道寺政繁等)
<搦め手側攻撃軍15,000人>
・前田利長 8,000人
・直江兼続 2,000人
・真田信幸 1,000人
・降兵(想定) 4,000人
まあ攻城側は50,000人ですね。
守備側は3,000人前後なので、
攻城側が10倍以上の兵力となります。
そうなると、3,000人程度で守る八王子城は
あまりに広すぎて分散配置も出来ず、支城はほぼ
守備無しと想像します。
搦め手口も大手口程の守備施設が出来ておらず、
少数守備で容易に突破されてしまったと
思われます。

松嶽稲荷神社から八王子城方向に南下しますと、
分岐道があり、ここを左に進むと、
八王子城山頂へ行けます。



(多分心源院ルートの隣の尾根ですが、何かあったかもね)

搦め手はここまでです
こうして(どうして?)搦め手は突破されました。
搦め手の守将小田野源太左衛門は
その後、どうなったのでしょうか?
一つのお話がありました。
彼は小田氏の一族で、遠い先祖は常陸守護
にもなった八田知家。
配役市原隼人さんが、むきむきなのに純な役で、
存在感抜群でしたねー。
その子孫で戦国時代の当主小田氏治は戦国最弱とも
称されていますが、佐竹氏や北条氏等、
ちょっと競争厳しそうな所ですかね~。
そして小田野源太左衛門は、その氏治の
兄の子という説がありました。
彼は小田原防衛戦の後、最終的に水戸藩に
仕えて生きながらえたとのことです。👍
⑧柵門
ちょっとややこしくて申し訳ないですが、
〇番号を下図の八王子城攻防戦図に戻します。

前述の⑦搦め手の平地部を突破した諸隊は、
山頂へのメインルート、⑧柵門へと繋がる道を
前田利長、真田信幸隊が進みました。
そして直江兼続隊は、手勢の一部を真田隊に
預けて西方面へ別れ、数百人で棚沢方面に
進みました。
⇒上の攻防戦図を見るとお分かりと思いますが、
背後からの城中枢部奇襲を計画しています。
(次回少し触れます)
前田利長、真田信幸の進路は少しだけ
行きましたので載せてみます。
先述致しました②心源院からのルートと、
④松竹橋からのルートは、下写真の場所で
合流します。

(上の攻防戦図で前田利長、真田信幸隊の
2本の黄色線が合流する地点(⑧柵門の上)です)

2つのルートから登って来た豊臣軍は、
⑦搦め手口からの到着点である⑧柵門へと向かいます。




(違ってたらスイマセン)



搦め手から来た尾根から、大手道の尾根向かう道。
写真の左上に大手道の尾根が見えてきました。


ここで搦め手軍と大手軍が合流しました。
次回はいよいよ八王子城の中枢部への
進撃となります。
ご高覧ありがとうございました。_(._.)_