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明智光秀 丹波の足跡を訪ねて(6) 丹波国平定成る! 光秀による福知山城築城 

こんにちわ、rekikakkunです。

 

今回で、明智光秀丹波攻略戦

ラストとなります。

 

天正7年(1579年)8月、

明智光秀は、前回ご紹介しました

赤井家黒井城を攻略しました。

 

赤井家は猛将直正の時代に、丹波国全6郡の内、

西半分にあたる丹波奥三郡を支配しましたが、

彼は落城の前年に病死していました。

 

この赤井家を攻略したことにより、

丹波国内での有力な勢力は無くなりました。

 

そして、ほぼ同時期に黒井城の15km程北方の

横山城等も攻略され、足掛け5年近くを要した

丹波国の攻略、平定が成されます。

 

この横山城は、現在の福知山市の中心に位置しており、

光秀福知山城命名したことが、福知山市

由来の有力な説の様です。

 

福知山の地は、但馬丹後の国境に近く、

また山陰道を通じて京都にも直通しており、

まさに北近畿を治める要衝と言えそうです。

 

主君信長より丹波一国を与えられた光秀は、

福知山城代に女婿と推定されている明智秀満

を置きました。

 

秀満は後の山崎の合戦の際に安土城を守っており、

明智軍敗北の報告を受け、坂本城に戻ります。

秀吉軍に包囲され最期の際には、坂本城の宝物等を

目録を付けて敵方に引き渡した後、

光秀と自らの妻子を殺害して自害したと伝わります。

ここは潔さと共に戦国の悲哀を感じるところですよね。

 

その後、福知山城の城主は入れ替わり、

最後は朽木氏が城主となって江戸時代を

生き抜き、明治になって廃城となりました。

 

ん?朽木氏って滋賀県朽木谷の?

とピクリとしたので🙄、

後で少し触れさせていただきます。

 

では福知山城に行ってみましょう。

 

1.福知山城探訪(市指定史跡、続日本百名城)

 以前投稿しました丹波八木城から

 福知山山陰本線の特急で戻ります。

 

 1)車窓の写真

  福知山駅に近い車窓の写真です。

福知山の手前1
山頂が城っぽいですが、何か分からなかった😂

福知山の手前2

福知山の手前3
鳥ヶ岳鬼ケ城かも

 上の写真の30秒後。

あ、福知山城の天守だ。
右側にひとつ前の写真の山が写ってます。

福知山城、かっこいいです。

 

 2)福知山城探訪

  さて、15:00前に福知山駅に到着しました。

  福知山城に向かいます。

 

  ・・・が、午前の八木城探訪時では何とも

  感じてなかったのですが、疲れと共に、

  急に足が痛くなってきました。

  後になってきますよね~。

 

  タイミングよければバスに乗ろうと思いながら

  歩いてましたが、いつの間にか福知山城

  すぐ近くの位置まで来ました。

福知山城

 福知山城前の写真はこれ一枚でした。

 ちょっと縄張り云々を確認する余力が無いので、

 天守本丸に直行してます。😅

福知山城本丸
あ、次がもうこの写真か~

福知山城 説明板

福知山城天守

天守閣の石垣1

 

 ~転用石~

天守閣の石垣2 
福知山城で有名な墓石等の転用石がはっきり見えます

天守閣の石垣3 
算木積を少し意識してるのに、隅石にも転用石

転用石の説明板

転用石の保管

 

 ~改修の痕跡~

天守閣の石垣4

  福知山城の公式ネットの説明によりますと、

  上の写真の石垣には調査の結果、

  改修の跡があり、下記写真の黄色の線の少し左側に、

  薄い斜めの痕跡が分かるでしょうか?

  ここを境に、右側が光秀時代左が後世の改修

  説明されています。

石垣の説明
う、探訪時は知らなかった😅

    天守閣に入る~

眺望1 東側

眺望2 北側

眺望3 北側拡大 
赤丸にちょこっと見えている山が鬼伝説の大江山らしい

眺望4 北側少し東方向
鬼ケ城、鳥ヶ岳 のところ

眺望5 西側
中央の丘陵は、伯耆という曲輪だった

2022年9月、天守閣内のここで
藤井聡太さんが竜王戦を戦ったみたいです

今やってるみたいな写真です👍
(これは写真を撮った写真です🙄)

確か靴を脱いで座れたと思います。
こうして見ると迫力ありますね~😄

 天守閣の周辺~

本丸
(ちょっと説明を忘れてしまった)

本丸から降りる
(結構お気に入りの一枚です)

本丸から降りる

本丸石垣

本丸石垣
右側と左側で造りが違う感じです

 光秀丹波攻略の5年の間、丹波から離れた合戦

 (本願寺や荒木攻め等)にも召集されており、

 また自身の病気や正室の病死等、身を削って

 織田家に奉公していたと思われます。

 

 こうして苦労して丹波を平定し、福知山城を築いた

 光秀でしたが、その3年後、天正10年(1582年)

 本能寺の変を起こし、山崎の合戦により

 命を落とし、明智も滅亡しました。

 

~その後の福知山城~

 

3.福知山城攻防戦

 因みに福知山城には光秀より後の時代に

 攻防戦があった様です。

 

 関ケ原合戦時、福知山城主小野木重勝

 という方で、西軍側となり隣国丹後国

 細川家田辺城を攻撃していたそうです。

 

 細川家主力は細川忠興関ヶ原方面に出陣していて、

 田辺城はその父細川幽斎(藤孝)が守備していました。

 

 古今伝授を惜しんで天皇から休戦仲裁が入った事

 でも有名ですよね。

 

 関ケ原合戦後、福知山城に戻った小野木重勝は、

 細川忠興の報復攻撃を受けて、落城切腹した

 という可哀そうなお話がありました。

 

 

4.江戸時代、福知山城主を歴代務めた朽木氏

 そして江戸時代、最も長く福知山を治め、

 明治を迎えた領主を調べて見ると、

 朽木氏とのことでした。

 

 朽木氏といえば、戦国期、近江朽木元綱

 知られていますよね。

 

 1553年室町幕府13代将軍足利義輝三好長慶

 京都を追われた際、朽木谷に約5年程保護しました。

 (年齢的にはまだ幼いので代理の人の対応かな?) 

現在の朽木氏菩提寺である興聖寺に残る足利庭園国史跡)

 

 1570年織田信長の朝倉攻めで浅井家離反の際、

 朽木元綱は、後世朽木越えと称される信長の撤退に

 協力しました。

 (生前の信長が最も死に近かった時かも。

  その割にあんまり優遇されていないのかな~?) 

朽木越えの道

 そして運命の関ケ原合戦で、朽木軍は西軍に属し、

 松尾山麓に布陣。

松尾山と関ケ原の街

 小早川及び脇坂、小川、赤座氏と共に東軍へ

 寝返りをしましたが、朽木家は減封となりました。

 

 この様に小領主ながら何かと歴史に名が出てくる

 朽木元綱ですが、その長男宜綱以降の朽木宗家は

 名門大名並みとはいえ1万石に届かない旗本

 として江戸期を生き抜いた模様です。

 

 その宜綱正室は、浅井長政の姉である京極マリア

 の娘であり、著名な京極高次竜子達と同母兄弟の

 マグダレナとの事です。

 キリシタン関連のお話もある様ですが、

 ここにも浅井の血が受け継がれてるなんて凄い(*_*;

 

 実はマグダレナの菩提を弔うために宣綱が建てた

 秀隣寺は、元は現在の興聖寺の場所であり、

 足利庭園の正式名称は旧秀隣寺庭園という

 複雑さです。(笑)

 

 すみません!

 基礎が無いので話が行ったり来たり_| ̄|○

 

 そして元綱の三男で分家の植綱は、将軍家光

 気に入られて本家よりも高禄の下総で3万石

 を領しました。

 

 その長男種昌の時、1669年に福知山藩

 3万2千石で移封され、以後明治に至るまで

 統治したとのことです。

 

 当初、江戸期のメインの福知山城主は誰だったのか

 確認していましたら、あの朽木谷のイメージ

 しかなかった朽木氏が歴代藩主で明治まで

 繋がっていたので、ん?何でかな?

 と少し調べてみたら、京極マリア達が出て来て

 なんだなんだ!となりました。

 

 ほんと奥深いくて歴史の繋がりが

 凄いと感じます。

 

 以上で明智光秀丹波の足跡編を終わります。

 光秀で締めてないので、違和感ありありですが

 すいません。m(__)m

 

 光秀に関しては明智城周山城勝竜寺城

 本能寺小栗栖等も含めて、探訪して

 再投稿したいですね。(まだまだ不足です!)

 

 そしてこの光秀編の間に、山城探訪の季節となり、

 八王子城に行って来ました。(*^_^*) 

八王子城詰城と紅葉

 次回投稿したいと思っています。

 

 ご高覧ありがとうございました。_(._.)_




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