こんにちは。rekikakkunです。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
前回は山中城を探訪して、岱崎出丸、三の丸、
西櫓をご紹介致しました。
今回もその続きになります。
5.山中城攻防戦
1)山中城 縄張図
2)攻城戦の概要
3)山中城アクセス
4)山中城探訪
①岱崎出丸
②三の丸
③西櫓
④畝三昧
⑤西の丸 ⇐ 今回はここからです。
山中城の西側は、西櫓を越えると西の丸になります。
西櫓は西の丸虎口の馬出しの役割として説明されてます。

ただし西櫓は捨曲輪みたいな扱いで、木橋も無く、
西の丸への直接射撃を遠くする為のスペース
として使ったのかも、という記事も見ました。
西櫓へ攻撃する敵に対し、西の丸はサポート
し難そうなので、なるほどな~と思います。
(西櫓、西の丸は下の縄張図の右上です)


(奥に西の丸西端の見張台があります)




西の丸側には西櫓の土塁が無いですね~。
ここからの眺めも四方圧巻です👍。


(手前から、西の丸⇒元西櫓⇒
二の丸の桝形虎口⇒二の丸見張台 の感じ)


⑥元西櫓
西の丸と二の丸の間は、堀を介した小さな曲輪で
区切られており、昔は無名曲輪と呼称してたそうですが、
現在は調査の結果、元西櫓の名称となってるそうです。
秀吉対策前はここが一番西の曲輪だったとか?
(なんでかは❓でした)
その割になかなか特徴的な曲輪なんですよね~。



(左側西の丸、右側が元西櫓)




実は・・・元西櫓って自分何度か行ってますが、
何故か説明板が全てピンボケしてて、
曲輪内でも写真を撮ったつもりなのに
何故か無いんです。
(唯一ちょっと今一な上の写真だけ)
周辺は撮れてるんですけど・・・(・・?
なにかここで激戦、亡霊的な⁈ (*_*;
なんて、山中城は全部激戦場所ですよねー。
実は西の丸方面の北条方はどなたが守っていたのか、
ちょっと調べましたが分からなかったです。
攻撃側は、徳川家康軍が3万程の大軍で攻めてきました。
現在は見えませんが、戦闘時西の丸から
岱崎出丸が敵軍に占領されてしまった
のは見えたと思われます。
(もしかしたら時系列が逆かもしれません)
士気が下がり、戦力差もあって、自慢の畝堀
3方向から西の丸は攻撃されたと思われます。
支えきれずに二の丸へ退却していきました。
⑦二の丸
二の丸は山中城の指揮所とも言うべきで、
最も重要な曲輪だったのでは、と思います。
と言うのもここからは、西の丸方面、三の丸方面、
本丸へと繋がっており、状況に応じて指示や
援軍を出せます。
下の縄張図を見ても、城のほぼ中心ですよね。





二の丸には西側と東側にそれぞれ櫓台があります。
それぞれ見所がありますので登ってみて下さい。


(一番奥に西の丸の見張台が見えます)

(真ん中が元西櫓、その両側(南北)の堀も見える。
凄いアングル😊)






(傾斜+曲がり+土塁隠し)

さて山中城の喉元とも言える二の丸ですが、
ここの守将は玉縄城主であり、一門衆でもある
北条氏勝と言われています。
彼は川越夜戦等で勇名をはせた、
北条綱成の孫です。
その彼が山中城に援軍として派遣されたという事は、
山中城防衛に北条氏は本気だったと言えます。
しかしあまりの大軍、そして上方のプロ兵士相手に
押された北条軍は、岱崎出丸、三の丸、西の丸を
落とされ、残るは二の丸と本丸のみとなり、
落城までの時間もわずかとなりました。
二の丸で指揮していた北条氏勝は、
城主の松田康長や弟達の説得により、
城を脱出し、玉縄城へ逃げ落ちました。
⑧本丸



(奥が二の丸。徳川勢が迫って来る)

(三の丸側から見る。豊臣兵が攻め上がっていった)
二の丸、三の丸両面から豊臣軍は本丸をめがけて
突進しました。
城主松田康長は、本丸天守櫓で自刃。
北の丸に追い詰められた北条兵も玉砕しました。

そこで城主松田康長が自刃したとの事です

⑨北の丸



(この奥に曲輪はもう無い。ここで追い詰められて
最後に戦死した兵士が沢山いたと思われます)


岱崎出丸、大手口攻撃を担当した中村一氏の家臣、
槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛は、この山中城攻めでの
自身の武功をまとめた有名な覚書を残しています。
その内容は、
・(大手門付近では)敵の射撃が厳しくて
身動きが出来なかった。
・射撃が弱まったので(岱崎出丸の)堀を
よじ登って一番乗りを挙げた。
・そのまま(三の丸方向へ進み)敵の退却を
追いかけて(二の丸)に侵入した。
・(二の丸では)本丸がどこか分からなくなった。
等、戦場の生の声を表現していることで有名な様です。
勘兵衛覚書によると、本丸には攻撃方が多数押し寄せた為、
本丸の塀が倒れて敵味方が団子の様に堀に重なり落ちたと
書かれてるとの事で、上の写真はまさにその堀
かもしれません。
本当は彼の覚書のストーリーに沿って進めたかった
のですが、曲輪の位置等が今一不明瞭だった等、
理解不足であきらめました。😂

ここを降りると、旧国一から堀跡の入口になります。
北の丸と本丸間の空堀は、説明板の通り、
本丸をぐるっと囲んでいますので、
上の写真の土塁階段を降りて、
下から空堀を再度登りたいと思います。

<縄張図の★1>
本丸の東側の空堀入口(左が本丸)
上の写真の堀底を登ると、先程の本丸北の丸間木橋、
二の丸まで堀が通じているので、進みましたが、
丁度上の方で業者さんが草刈りをしてたので
行けませんでした。(写真に小さく映ってる)
ちょっと残念だな~と周辺を見ると、
そこを進んでみました。

北の丸の外側に延びる、山中城の一番外周の空堀の入口
(上の写真の右側の土塁の更に右側。
そしてこの写真の右は旧国一。もはや意味不明か(*_*;)
分かり難いので縄張図で示します。

(赤★1の堀は草刈り作業で行けなかったのですが、
黄★2の堀を見つけたので、そこを進みました)

だいぶ大きな堀ですね~

この内側に本丸の空堀があるので、
本丸は2重の堀に囲われているのを知りました。


この時は、ここがどこだか分からなかったので、
堀底から外側の土塁に登って確認してみます。
上から見ると北の丸の北側の空堀でした。
たぶん山中城の最外周の堀の様です。
(縄張図に載ってないので?ですが・・・)

正面は見覚えのある北の丸です。

(結構整備されていますが、案内板等は無いです)

(普通の山城風の光景。なんか山中城らしくない
感じですが、妙に親近感があって嬉しかったです)


(右上が北の丸。左上から降りてきた。)

たぶん二の丸の北側の堀の、もうひとつ外側の空堀。

に出ましたが・・・ん?ロープがあります。
(いつからか正規の道では無くなってた様です)
秀吉との戦い直前に追加したものかもしれません。
ただそう考えると、相当の規模ですね~。
⑪宗閑寺
旧国一沿い、三の丸跡地には宗閑寺があります。
(同じ敷地に山中公民館です)
戦国時代でも有数の激戦だった山中城攻防戦で、
戦死者を弔ってますので、是非寄ってみて下さい。

宗閑寺は、岱崎出丸の守将で壮絶な戦死をとげた
間宮康俊の娘お久(普照院)が、江戸時代に入り
父の供養の為に尽力し、建立しました。
なんと彼女は徳川家康の侍女、側室となり、
家康の四女松姫の母だったとの話もあります。
へえ~そうだったのか~、真面目に確認すると
新たな歴史が見られますねー😓


(お墓を矢印してすいません。
知ってもらえたらと思ってますm(__)m)

(右が城主松田康長、左の3つが間宮康俊とその一族のお墓)

(豊臣方の大名で戦死した一柳直末のお墓)
山中城攻防関連で攻撃側の一柳直末のお墓が
一番立派なのに少し違和感があったのですが、
調べて見ますと、長い年月によりお寺が荒廃し、
明治以降に一柳家が整備し直したとのことです。
武将たちの略歴も少し調べて見ると・・・。
~城主 松田康長~
彼は北条氏の筆頭家老松田憲秀の親戚です。
松田憲秀は戦いの後、内通の嫌疑等で
自害しています。
そして憲秀の長男は、以前私のブログで
ご紹介しました泉頭城で、柿田川の向こう岸
にある戸倉城主だった笠原政晴なのですが、
実は彼も内通の嫌疑で籠城中に処刑されています。
ちなみにその笠原政晴は、「ステキな金縛り」で
西田敏行さんが演じた、主人公の更科六兵衛の
モデルとなった人と言われています。
~岱崎出丸守将 間宮康俊~
援軍として山中城に入り、岱崎出丸の守将で
壮絶な戦死をしました。
戦死を覚悟した彼は70を越える高齢の為、
白髪に墨汁を塗って戦った気迫の方とのことです。
そして樺太を島と実地確認し、北海道との間の
実は康俊の子孫との事です。
びっくり(@_@;)。
調べると色々と繋がってますね~😍
~二の丸守将 北条氏勝~
彼は玉縄城主なのでその時に調べてみます。
結構大変な立場だった気がします。
~箕輪城代 多米長定~
宗閑寺にお墓があるとの事で少し確認しましたら
初代北条早雲からの古参家臣多目氏の一族
とのことで、信長の野望にも出てきますし、
みんなそれぞれ歴史がありそうですよね~。
さて、今回のお話、もう4,000字を
越えましたのでお開きにしたいと思います。
なんか話の纏まりが無かったですね_(._.)_
しかし開戦最初の山中城で(その7)って、
一体いつまで続けるつもりなんだ⁈
という声が(@_@;)
・・・今私もそう思ってます
心の中で。
次回は、箱根守備網の位置付けとして
足柄城と河村城の予定です。
ご高覧ありがとうございました。m(__)m