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【2026年3月】東京大空襲から81年|隅田公園の追悼集会に参列(現地記録)

1945年(昭和20年)3月10日未明、東京の下町を襲った米軍の大規模空襲によって、
一夜にして約10万人が犠牲になりました。
東京大空襲です。
東京大空襲は、第二次世界大戦の中でも最大規模の都市空襲の一つとされています。
あの日から81年となる2026年(令和8年)3月10日(火)、犠牲者を追悼する集会が 隅田公園 の東京大空襲犠牲者追悼碑前で開かれました。

私は毎年この追悼集会に参列していますが、今年も現地で祈りの時間を共にしました。
この記事では、東京大空襲の歴史を振り返りながら、2026年の追悼集会の様子を現地記録として紹介します。

戦争の記憶を風化させないために――。
隅田川のほとりで行われた追悼の一日を記録として残します。

動画①【2026年 東京大空襲慰霊祭の様子】

※2026年3月10日、追悼集会当日に会場の隅田公園で撮影
(会場は遺体を仮埋葬した隅田公園)
追悼集会の会場となったのは、隅田川に架かり台東区と墨田区を結ぶ言問橋(ことといばし) のたもとにある隅田公園(東京都台東区浅草七丁目一番)です。
実は当日は東京は朝から雪が降っていて途中から雨になっていました。しかし天の恵みか 式典が始まる30分前には晴れました。

1945年(昭和20年)3月10日未明、アメリカ軍のB29爆撃機279機が約30万発の焼夷弾を投下し、東京は下町を中心に壊滅的な被害を受け、10万人以上が犠牲となりました。

言問橋には炎から逃れようとする人々が両側から殺到し、多くの命が奪われました。

そして犠牲者の遺体は、隅田公園付近に仮埋葬されました。
現在、公園内にはその犠牲者を追悼する碑が建てられています。
動画②【東京大空襲追悼碑】


※2026年3月10日、追悼集会当日に会場の隅田公園で撮影

戦災により亡くなられた方々の碑

台東区浅草七丁目一番
 
 隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
 第二次世界大戦(太平洋戦争)中の空襲により被災した台東区民(当時下谷区民、浅草区民)は多数に及んだ。
 亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂(墨田区)に納骨された。
 戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られようとしている。
 いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
 昭和六十一年三月 台東区

(午後1時 追悼集会開催)
2026年(令和8年)3月10日(火)午後1時、隅田公
園の追悼碑前で 東京大空襲犠牲者追悼集会 が開催されました。

主催者によると、今年の参加者は体験者や遺族など約100人とのことでした。
私も例年と同様、最前列で式典に参列しました。

(戦争体験の証言)
式典では、東京大空襲を体験した方の証言も紹介されました。
当時6歳10か月だった海野敏夫さん(87歳)は、国民学校入学前を翌月に控えていました。寝ていたら空襲警報が鳴り、爆風で家が揺れるのを感じたそうです。母に連れられ防空壕に向かうも、そこは満員だったので、母に手を引かれ逃げました。

すぐに炎で一面がオレンジ色の炎に包まれ、その中を3時間逃げ回ります。靴も壊れてしまい途中から裸足になります、道路が焼けて暖かったそうです。夜が明けた時には多くの遺体があちらこちらにあったことを今も記憶しているそうです。隣組で行く残っていたのは海野さんの家族だけだったそうです。
(13時30分 黙とう)
午後1時30分、参列者全員が起立し、犠牲者に向けて1分間の黙とうが行われました。
その後、参列者全員による献花が行われました。


動画③【献花後の慰霊碑】

私も花を手向け、亡くなられた方々の冥福を祈りました。

(言問橋の縁石)
 追悼碑の右側には、コンクリート塊がありました。これは1992年(平成4年)に言問橋の欄干を改修したときに、その基部の縁石を切り取ったものです。

東京大空襲のときに覆われた火やススの跡や焼かれた人の脂や血などが、ついていたそうです。

(浅草周辺は焼け野原に)
3月10日に日付が変わってから始まった東京大空襲は、浅草周辺を焼け野原にしました。

【1945年(昭和20年)3月10日の浅草】

【空襲直後の地下鉄浅草駅です】
(東京大空襲は国際法違反の民間人大量殺戮)
東京大空襲は「非戦闘員である民間人の殺戮」であり国際法のハーグ陸戦条約3条違反の行為です。
1945年(昭和20年)3月10日午前0時直後から始まった空襲で、東京の街は焼け野原になり10万人以上が死亡します。これは単独の,しかも1夜の空襲による世界史上最大規模の犠牲者数です。

【東京大空襲を報じる当時の日本ニュース映像】

(計算された東京大空襲)

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3月10日の東京大空襲には初めての試みがいくつかあります。

まず、民間人を本格的に狙った空襲。
これ以前の空襲のターゲットは、主に軍事施設でした。
爆弾の命中率を上げるための超低高度飛行、さらに夜間の爆撃、そして焼夷弾の使用という新しい戦術が本格的に導入されたのもこの空襲です。

さらにいかに効率よく焼き尽くすかの研究も行われています。

(陸軍記念日に空襲)
東京大空襲がおきた3月10日は陸軍記念日でした。

陸軍記念日とは、1905年(明治38年)に日露戦争で陸軍が奉天の戦いでロシア軍を破ったことにちなんだもので、この日は、記念式典があるため全国に疎開していた
東京の子供たちが都内に戻ってきます。その日を狙ったのです。

(日本家屋の研究)
米軍は東京大空襲の計画段階で、江戸時代に起きた火事や1923年に起きた関東大震災で発生した火事の状況を調べ、その火元・火の燃え方や拡大の様子・風向き・延焼状況・被害の実態などを細かく分析しました。

そして木造住宅が密集する日本の大都市は大規模火災に対して非常に弱いことに注目し、「木造住宅をいかに効率よく燃やし焼き尽くすか」という攻撃に重点をおきます。

 (焼夷弾の開発)
住宅が密集する日本の大都市をいかに効率的に焼き払うかを研究するために、ユタ州に日本式家屋が立ち並ぶ住宅地、通称「日本村」を造り、そこで焼夷弾の燃焼実験を行います。この実験で日本家屋を焼き払うに1番ふさわしい、延焼能力が抜群なM69焼夷弾のナパーム剤を使用した焼夷弾が生ます。

(気象を研究)
本格的な東京大空襲がなぜ3月10日だったか、
それは一番効率よく空襲の成果が出るようにと米軍は日本の気候を完全に把握研究し、
3月10日が乾燥し風が強い日だとわかったので、その日を狙いました。

(毒ガスや細菌散布も予定されていた)
東京大空襲以降、連合軍は東京にマスタードガスなどの毒ガスを散布する研究、日本の農作物を枯らす薬品の散布、さらに日本国民用に炭そ菌をばらまく計画もありました。

結局、生物兵器も化学兵器も細菌兵器もその使用前に戦争が終わりましたが、もし徹底抗戦でそのまま戦争が継続していたらと思うとぞっとします。

【東京大空襲について書いた本】 

 

(忘れてはいけない歴史)
一夜の空襲で10万人以上の命が奪われた東京大空襲。
単独の空襲としては、世界史上でも最大規模の犠牲者を出したとされています。
隅田公園の追悼集会は、戦争の記憶を後世に伝える大切な場となっています。
この悲劇を二度と繰り返さないためにも、歴史を記録し、語り継いでいくことが必要だと感じました。




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