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足利幕府は正確に言うと織田信長に滅ぼされてはいません。秀吉の時代1588年まで足利義昭は将軍職を名乗り続けていた!

日本史の授業で習った
「織田信長によって滅ぼされたはずの足利幕府が、
実はまだ終わっていなかった」としたら?・・・

(1573年、足利義昭追放)
1573年7月 18日は、室町幕府最後の15代将軍足利義昭が織田信長によって追放され,
室町幕府が滅亡したとされる日です。

(足利義昭とは)

室町幕府の最後の将軍・第15代将軍の足利義昭(よしあき)は、第12代室町幕府将軍・足利義晴(よしはる)の子供で、第13代将軍・義輝の弟です。

室町時代の末期1568年10月18日、足利義昭が、室町幕府・第15代将軍に就任します。

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(信長を頼り将軍に)
足利義昭は、越前・福井の朝倉義景のもとに身を寄せていましたが、自分を将軍にするために上洛しようという意思が見えない朝倉義景のもとを去り、織田信長を頼って尾張に行きます。

1568年9月に、信長は義昭を奉じ、6万の大軍を率いて上洛します。そして10月18日、義昭は朝廷から正式な宣下を受け、室町幕府・第15代将軍に就任します。

(信長と対立→京都追放)
しかし、信長のおかげで征夷大将軍になった足利義昭ですが、考え方の違いから信長と対立します。
そして、足利義昭は、本願寺・浅井長政・朝倉義景・武田信玄などの戦国大名らと協力し信長包囲網を作ります。
7月3日に、足利義昭は、槇島城(山城国の守護所)にて挙兵しますが、失敗し、
7月18日、義昭は将軍職につけてくれた織田信長によって京都から追放されます。
この義昭追放の年・1573年に足利将軍が支配した室町幕府は事実上消滅したと日本史の教科書には書いてあります。

 (京都追放後も将軍であり続けた足利義昭)
織田信長が1573年に室町幕府の最後の将軍・足利義昭を京都から追放したことは事実ですが、足利義昭自身はその後も「将軍」として名乗り続け、信長に対抗するための政治活動を続けていました。そのため信長に対抗する勢力にとっての「幕府」や「将軍」の象徴として機能していた可能性があります。
したがって、形式的には幕府が消滅したとは言えない時期があったとも言えます。

義昭は、1576年には中国地方の毛利輝元を頼り、その支配下の備後国の鞆(とも)に移りいわゆる足利亡命政府を作ります。
これは鞆幕府(ともばくふ)と呼ばれています。後に鞆城となる鞆要害に義昭の居館があったとされています。義昭の警護には一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康が
あたっていたといいます。

(本能寺の変を機に)
1582年6月2日に信長と嫡子の織田信忠は本能寺の変で死亡します。
これを機に義昭は鞆城から居所を津之郷(現福山市津之郷町)へと移します。1583年、毛利輝元が羽柴秀吉に臣従し、1585年7月には豊臣秀吉が関白太政大臣となります。

1587年10月、足利義昭は京都に帰還し、翌年の1588年1月13日に秀吉に従って参内し、正式に将軍職を辞します。

つまりこの時点で「関白は豊臣秀吉・将軍は足利義昭」という時代になり、この期間が2年半続きます。

義昭が京都から追放された後も、将軍職を1588年まで名乗り続けていたことは、歴史資料にも確認されています。
「公卿補任」と言う本には、関白・豊臣秀吉と共に御所へ参内し、正式に征夷大将軍を辞する天正16年(1588年)1月13日まで、足利義昭が征夷大将軍であったと正式に記録されています。

・・となると1588年まで足利義昭は、名目上は征夷大将軍であり足利幕府の15代将軍だったのです。

(将軍辞職後)
将軍職を辞した後、大名になった 足利義昭は、朝鮮出兵などにも協力したのち、1597年8月大阪で死亡します。享年61.。
(不安定な政権だった室町幕府)
足利幕府をよく見ると、前半は南北朝時代、後半は戦国時代、しかも「将軍不在の時期が何度もある」「将軍が暗殺される」など実に不安定な幕府と言えます。

その状況を書いたブログはココです。

・・・・ということで

足利義昭は織田信長に京都から追放されたあとも
正確には室町幕府の将軍でした。




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